なんだか我ながら、劇的に行ったり来たりです。
地獄と天国を。
重い世界はどこまでも重くまとわりつく。でもそれは、
重い世界と、それが虚妄に見える軽い世界。
どうしてそうなっているのか?
相変わらずこの問いです。
重—い重—いエゴの、根っこがなかったと気がつけば、
私が映し出したエゴとは、何者でもない「虚」が自縄自縛して、
それは、自爆して自滅するほか、道がないものだった。
でも、そこから、もし気がつくことができれば、
こう言い切って、いいのでしょうか?
(ーーわたしゃ神様ではありませんが、そう見えてきます。
やっぱりこうなっているのは、抜け出すためだったのか?)
先の者は後になり、重いものは軽くなる、なのでしょうか。
ですがデスガ、自分だけ抜け出してもいいんですか?
自分だけ軽くなってもいいんデスかぁ?
いや、自分だけっていうことではないように、思います。
自分他人って問題ではないと思います。
そういうことではなく、
重いものとは別の世界に、軽くなった者=私は離脱していくのでしたね。
自分の中の重くしつこかったかさぶたが、
でも、エゴそのものと無縁になった、というわけではありません。
自分に映っていた、根を張った自他のエゴが、
エゴの世界の中で、ようやく動きだし、泳ぎ出した私。
どれ、この世界のなかで、どこまでも軽く、を目指しましょうか。
この世界にいて、どこまでもジョイさんでいましょうか。
(まあ、自分でそう名乗っているのですから、そうでしょうけど)
そうしたら、この世界も、ちょっとだけでも、
でもエゴの世界ですよね。そのエゴの底が割れて、
その中で、私はそこに引っぱられずにいることが、できますか?
だけど私は気がついたんです。
エゴの人と、エゴが見えちゃった人は違う、と。
エゴが見えちゃったら、もうエゴではいられなくなるんですね。
だってそれは根なしの虚妄だとわかってしまったんですから。
そこによって立つことなんか、できないでしょう。
立とうにも、底なし沼みたいなものですから。
だから、エゴにうち興じる(!)人のように、
エゴには振り回されなくなるんですよね! もう不思議なことに。
エゴの波動は、自分と異なったものだと、
でもこれまでずっとエゴだった私が、こんなこと、
ずっとエゴから抜けられないと思い、エゴを自任し、
そこにしかよって立つところがない、と思っていた私が。
(私が魅かれる親鸞も、自分を凡夫だと言い、地獄は一定住処(
でもその、そのエゴこそ、
よって立てるものなど何もない、
だったのではないのでしょうか。
私が「よって立つ」などと言っていたそここそ、自分の言い訳と、
それはただちに、無力な、どこにもない場所であって、
ダッたら、抜け出すほか光も射さないような場所に、
私はそこにじっととどまり、わかった気でいた。
エゴが実は気持ちが良かった!!!!
・・・・・
でもそのエゴがおしまいだったのでした!
ぷかぷか浮かんでしまうものでした。
私を始め、
それは全くの根無し草の闇であり、そこに全くいる必要のない、いられない場所であり、
このことがわかったら、もうエゴはおしまい! と言えるほどの場所です。
(こんな事私が言っていいのか、
地獄とは、出たいと思ったときに初めて出られる、と、
私は本当にエゴを対象に、
(エゴから抜け出したら、わたしゃ神様でしょうか? メ、滅相もない。
——いや、私は神であり悪魔であると、以前言ったではないですか!
——そのときは両方だと言ったノ!
——ホントに抜け出してから言ってよ!!)
(松林の中の紅一点)
(つづく)
