ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -22ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

 

エゴが蠢いている事が自他の中に見えたら、

 

そこからそぉーっと、静かーに、離れていきます。

 

エゴであることがわかったら、

 

もう、そこには止まろうとはしません。

 

 

エゴであるって、

 

不安定でふにゃふにゃして、根無しで、グラグラ足元が揺れ動いているような、

 

落ち着きの無いイメージなんです。

 

 

蠢いているのが見えたら(映ったら)、もうそこにいる必要はないんです。

 

 

自分の中で、何かの思いや感情が湧いたときに、

 

この根無しで蠢くような感覚に気がつくと、

 

ああエゴが湧いているなあと、今は、理解することができます。

 

それから、自他の心の中に、違和感、突き刺さるような否定、無神経、無視、差別を感じた時も同じです。

 

根無しで、不要で、どこにも行かない感覚が湧いて、

 

その虜になっていた、ということです。

 

 

エゴが分かる、エゴが自分に映るって、こういうことだったのです。

 

このことがわかれば、もうそういう所にいる必要はないということです。

 

そこにはいられないし、そこを乗り超えられるということです。

 

 

エゴから抜け出すって、こういうことから、できるようになるんですね!

 

 

 

その道を、私はもう、歩んでいると、自分で言っていいんでしょうか?

 

先生は、エゴはやめられないと仰り、私も同意しました。

 

そしてエゴを唯一やめる道は、「松葉とワクチン」の最終部分で触れられています。

 

(このブログでは出てきません。ゴメンナサイ)

 

 

でもそれは、「エゴを映す」ということばに、結局は行き着くのでは、と感じています。

 

 

自分がエゴから抜け出したと言えるかどうかは、自分ではよくわかりませんが、

 

今のところ、歩む道はひとつではないかと、感じています。

 

 

 

で、エゴを映して、一体何が起きるのか、一体何が見えてくるのか、

 

今感じている、何これ? ということを、書いてみたいと思います。

 

(これホントかなって、思いもしますが。でもエゴが絡んでいることなので、いまちょっと、スルーできません)

 

 

 

エゴというのは、ただ自分に拘っているというだけですよね。

 

そして自分を主張し、自分を守り、自分は得したいと思い、

 

人を無視し、人を支配し、ただ自分にしがみついているというだけなんです。

 

つまり、保身です。

 

 

自分にしがみついているその自分って、まったく根拠がなく、幻影なんです。

 

しがみつく根拠がないってことは、その自分は空っぽだということです。

 

その自分に意地を張るなんて、何もないものにひっかかっているだけなんです。

 

 

つまり、しがみつく自分って、そもそも存在しなかった、ということでした。

 

(だって無い所にいるんです。かげろうのようです)

 

 

これがエゴの気づきの要なんですね(!)。

 

 

ここに気づいたら、

 

もう存在しない自分に執着することもなく、

 

周りに対して、人に対して、ただ開くだけ、となります。

 

 

つまり、エゴって、無いものをあると言う、幻影、幻想だったんです!!!!!

 

存在しない自分のことを、大事だと思っているんです。

 

存在しないものに囚われ、引っかかっているだけなんです。

 

 

なぜ存在しないものに囚われてしまうのか?

 

それは、世界中のものが、

 

もともと、根拠のないもの、捕まえることもできない、空っぽなものであることが、

 

見えないからでした!!!

 

 

世界の中のものとは、

 

所有もできず、確固とした実体もないもので、

 

それを知らないが故に、自分に、世界に、しがみつくのです。

 

 

これらのものは、陽炎のように空虚なもので、

 

人間はそのことを知る必要があったのです。

 

 

確固たる物だと見えたものは、

 

すべてが写し(映し)でしかありませんでした。

 

そして映しには、根拠がないのです!

 

 

私が急に何を言い出したのか、と思ったかもしれません。

 

 

根拠のない、実体のないものに執着して、エゴが湧いていた、

 

ということでした。

 

 

「般若心経」にもある通り、

 

照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)

 

一切のものは空であることが見えた、ということです。

 

 

だから、

 

無いモノに囚われる、虚ろなる無い心、これがエゴの本質である、

 

ということでした。

 

 

何という事か! 欲しがっていたものも、自分も、全部嘘だった、ということなんです。

 

(ホントですか???)

 

(またまた急転直下して、全部空っぽ、ですかぁ???)

 

 

エゴってここまで深い迷妄、迷いを生むものだったんです。

 

 

私は一体どこに生きていたのですか? 

 

そしてこれからどこに生きるのですか?

 

 

・・・・・・

 

 

でも、一歩進んで、このようにも言えます。

 

エゴの保身というのは、誰もがやっていることです。

 

そう、誰もが自分を守って、保身しているから、

 

みんなが同じところにいて、同じ行動をしています。

 

 

そして、実は、このことがカギなんです。

 

どういうカギか? 

 

それは、保身する者は誰もが、そうする必要はなかった、ということなんです。

 

(ハァ??????)

 

必要がないのに全員がしている。

 

つまり、全員が全員、そうする必要がない。

 

 

そしてこれは、全員に行き渡る、平等の中にいるということなんです。

 

全員大切であるという「愛」のうちにいたということなんです!

 

つまり誰もが、エゴから抜けられるということなんです!!

 

(それはまた大胆な!?!?)

 

 

必要がない、ここに気がつく事が、軽くなる大前提です。

 

誰もがエゴの牢獄の中にいなかった、ということですから。

 

 

エゴが必要のないものだとわかれば、

 

エゴの重さに引き寄せられなくなり、その重さにはいられなくなります。

 

 

そして軽いことばかり、したくなるんです。

 

 

ーー大丈夫かあ? これまで散々エゴやってきたのに、必要ないなんて、言えるのか?

 

ーー言えるんです! だってエゴにいたくないって、思うようになってしまったんですから。

 

 

 

軽いことをしたい。

 

これって何でしょう。

 

自由というより、「自動」なのではないか?

 

 

自分のエゴが消えていくということは、自由、というより、自分の行動が、「自動」になることを感じます。

 

 

自分がしたいことを、そのときそのとき、ただ選択して、する、と。

 

そのことになんの曇りもない。

 

そこに邪念、計算、悪想念が湧いたら、

 

ああそれはエゴが現れたと感じて、

 

そこから抜け出して、自由になることができる。

 

 

エゴ想念は、自分の気づきの機会、邪を払う機会だと受け取ることができる。

 

ただそれだけなのですから。

 

 

つまり、自動が働くとは、エゴの根無し、カオスを超えていて、

 

そうでない世界、これまでと違う世界に、入るような気がします。

 

そしてとにかく、楽しいのです。

 

(ホントにここまで来たの???)

 

 

私はこれから、どういう世界に進むのか?

 

 

 

でも、一切空とはどういうことだったのですか?

 

無いモノに囚われる、虚ろなる心が、ないとしたら、

 

世界とはどうなってしまうのですか?

 

 

 

私が全部、世界を生み出しています。

 

(ええっ? 一体どんな私が?)

 

私を遮るものが、内にも外にも、どこにもない私、

 

つまり無我(=我が無い)の私です。

 

(そんな私があるんですか?)

 

私ならぬ私が現れる、ということでしたね。

 

(それって先生が仰ってた、神を自分の内側に置くってことなんじゃないですか?)

 

そういうこと、でしたね。

 

 

その私は、まったく自由な空間にいる、そんな感じです。

 

私が生み出した限りで、私は私の周りのものたちに出会います。

 

そこに囚われの思いも持たずに。

 

エゴをなくすだけで、私ばかりか、世界もひっくり返っていたのです(!)。

 

 

そして私は、活動的で、

 

周りに対しての喜びの思い、つまり愛に溢れている、

 

という感じです。

 

 

ーー面白いんだけど、何か面映いなあ。言い過ぎじゃないの? 大丈夫かぁ?

 

ーー大丈夫だぁ。

 

 

(虚空か?? 真っ青の空)