ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -21ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

エゴのない世界に来ました。愛の世界に来ました。

 

淀み、こだわり、つっかえ、固執、こういうものがない世界です。

 

物事をなすのに、あれこれと迷い、あくせくし、あせり、ということがなくなります。

 

自分がほどけた感じです。

 

次何をしようか? ただ自分のやりたいことがひとつ湧いてきます。

 

あれもこれも、という必要はありません。

 

ただできることをひとつひとつ、こなす。

 

一遍にいくつもはできません。

 

ひとつずつしかできませんが、

 

一番やりたいことを心に聞けば、答えは出てきます。

 

 

そこであせるのはエゴの姿ですし、周りと調和していません。

 

だからそのような、自分だけのエゴの思いでいる必要も、意味もなかったのです。

 

ここに気がつくことが大切です。

 

エゴの姿を心底見る事ができれば、エゴは理解できて、超えて行けるのです!

 

 

そして心はいつも、落ち着いていられます!

 

 

こんなことがわかるようになるとは、思ってもみませんでした。

 

 

 

もともと活動したいのが人間です。

 

なので、朝目覚めたら、さあこれをしようと思い、すればいいですね。

 

心が朝起きて新鮮なうちに、何をするかを、見極めればいいですね。

 

 

とはいえ、私たちはお金の奴隷でしょうか? 糊口を塞ぐために、お金を稼がないといけないでしょうか?

 

 

だから毎朝起きて、仕事に行く。我慢ばっかりして、お金を稼ぐ。

 

 

そして、お金を介しての、国家の奴隷? 国家のいう通りに、お金を徴集される。

 

そんな仕組みが私には見えますが、これは誰もが感じることでしょう。

 

 

 

でも、私は、お金を稼ぐことも、やりたいように、楽しめるように、やる。

 

それ以上にはしない。

 

そして、お金がない、とは言わない。

 

ないというネガティブな思いは、エゴの思いだから。

 

そこにエゴが湧いていることに、気がつけばいいですね。

 

 

ものが必要な3次元で、ものと、お金とかかわっている。

 

お金は必要な分だけ、入ってくる。

 

そこで平和を得る。

 

もっとお金が必要になったときは、

 

お金が回る工夫をする。

 

お金とは回って成り立っているものですから、

 

いつだって、必要な分だけ、お金が回るようにすればいい、今はそう考えています。

 

 

お金って、エゴが一番出やすいものだと、以前も書きました。

 

お金を介して、エゴを出さずに、人と調和していこうと、私は思います。

 

 

 

でも、お金を徴集する側の、世のトップの方々って、そうではないようです。

 

いかに人からお金を取るか、そして自分がトクするようにお金を使うかが、大切なのです。

 

 

世のトップの、権力をもった政治家や高級官僚の方々は、悪知恵を発揮して、利権を得て、私利を得ることに頭を費やす。

 

人より自分が先だという発想から、ゆめ、抜けることもなくて。

 

ただ自分有利に、自分の懐に入れることから、思いを手放すことができないと思います。

 

どうしてそうなるのか?

 

 

 

頭が良くて、出世し、人の上に立った人って、人との競争に勝ち、人から抜きん出ることしか、やってこなかったのですよね。

 

その良い頭を、人のためになることに使おうなどと、考えることができるでしょうか?

 

 

そもそも選抜教育、競争社会で、立身出世という道を歩んできたのなら、人に勝つか負けるかしか、考えることができなかったのではないですか!?

 

でも、今の時代、大切なことは、人のためになることですよ、エゴをやめることですよ、

お金を介して、エゴを出さずに、人と調和していくことですよ、

 

などと、仮に言われたとしても、

 

それこそ、ハァ??? としか反応できないでしょう。

 

 

明治からこの方、立身出世が目指すべき道だったし、

 

社会全体がそれを目指して、その価値観がいまも、社会を支配し、

 

その中での自分のポジションが、自分の思考、行動をも決めている。

 

 

この価値観を手放すなどということは、全く思考不能で、パニックになるのがオチでしょう。

 

でもそれは、まさにエゴの価値観だったのです。

 

 

かくいう私が、中学、高校以来、進学校に身を置き、人に勝つことばかり考えてきて、

 

周りの友人たちはみなそのコースを歩んで名を成し、

 

そこで勝てないと、人との比較で、自分は負け犬で、

 

「俺はダメなんだ」という烙印を、自分に押して来ました。

 

 

でもこの全てが、エゴの価値観だったのです。

 

(そんなこと、思いもよりませんでした)

 

 

人に勝とうというのもエゴだし、

 

俺はダメなんだ、とネガティブになるのも、

 

自分にしか目が行かないエゴだし、

 

さらに自分を否定して、自分に愛を向けないというエゴだし、

 

 

つまりは社会の大枠が、エゴに生きよという価値観だったということです!

 

 

何と言う息が詰まる世の中。

 

 

だから親子関係も、友人関係も、夫婦関係も、みなお互いの思いがすれ違い、

 

自分を主張してうまくいかず、みなエゴで孤立してしまうとは!

 

 

だからもう、そこからは抜け出しましょう。

 

 

エゴとは、そこにいる必要も意味もないものだとわかり、エゴでいたくないとまで理解したのでしたら。

 

 

こういう世の中で、どう生きるかの答えは、

 

自分がエゴでなく生きるのみ、

 

でしかありませんでした。

 

 

エゴをやっている人に文句をいうことではないですね。

 

 

 

 

たとえ人の上に立つ政治家や官僚が、エゴでしか振る舞えなかったとしても。

 

 

たとえ自分の目の前に現れた人が、エゴの行動をしているとしても。

 

 

その人に文句を言ったら、自分もその同類になります。

 

だってその人のエゴは、まぎれもなく、私に見えてしまった、私の中にあるエゴなのですから。

 

私はもう手放してしまったので、関係ないとは、言えない。

 

だって私の目の前で起こっていて、私にはそれがよぉく見えてしまうのですから。

 

 

その人の私に対する心なさは、

 

その人が自分のことしか考えていないという、私の鏡だし、

 

人とつながることより、自分を守る(保身)ことが大事なのだし、

 

人を無視したとしても、それは仕方がないことなのだと、自分で勝手に納得しているだろうし。

 

 

人を騙しても、コントロールしても平気で、

 

私は正当だ、私に言い分はある、私は悪くない・・・。

 

仕方ないけど、悪気は無かったし、相手だって悪い・・・

 

言い訳はいくらでも出てきます。

 

(私自身がやってきた、よく知っているエゴですから)

 

 

だったら、その行動の底にあるものを、私が心底からしっかり感じるほか、手だてがないではないですか!

 

批判の鉾先を人に向けることは、私には意味をなさないことになってしまったのです。

 

 

エゴのひとつひとつを感じ取らなければ、エゴを理解することはできません。

 

エゴを理解しなければ、エゴから抜け出すことは、できないのですね。

 

 

だから、よくよく世の中を感じ取って、

 

そこでもなお、自分の心の中を平和に保って、

 

明るく、軽く、日々行動していくことができるか。

 

 

自分がエゴでなく生きるのみだし、

 

身に降り掛かったり、見えてくるエゴは、

 

それをよく理解して、手放していく以外ありません。

 

 

私自身が、自分さえ良ければいいということをしない、

 

究極は、それに尽きます。

 

 

自分の心の平和が、世界を開くとしか、言えないです。

 

 

そして、自分のうちにエゴが無い者に、心配はなくなるんです!

 

 

心配とは、愛が欠けているから、湧き起こってくるものですから。

 

愛がいつも漲(みなぎ)っていれば、心配する理由も消え去ります。

 

 

 

 

さて、はたして私は、私に見えてきたエゴをよく理解した所で、それを全部手放すことが、いま、できるのか?

 

世の中に蔓延していて、私が直面するエゴを、私は手放すことができるのか? 

 

 

もう一度、上の方々を見ると、

 

 

裏金議員、裏金議員を起訴しない検察、

 

国民から絞り取って、自分の財布の辻褄合わせだけを考える省庁、

 

自分が抱えることが優先で、国民に十分な食糧も提供できない役人、

 

小児拉致し、人身売買することを見逃してしまう役人、

 

海外にいい顔をし、強国のいいなりになり、国民には負担を強いてくる政府。

 

・・・・・・

 

 

上に立ち 人を監督 する人が いつもやるのは 自分が大事 

 

 

 

やはりこれは、エゴに染まった社会の、エゴの姿です。

 

エゴが通るエゴ社会は、自分の都合を大切にすることしか、してこなかった。

 

エゴの思いでいる必要も、意味もなかったのに、そうしてきた、ということです。

 

 

このことの、私にとっての一番深い意味とは、

 

私自身が、いかにエゴに染まり、エゴが染み付いているのに、それが自分で分からなかった!

 

その愚かでみじめな姿を、公然とさらけ出して生きている!

 

ということ、でした。

 

 

愛とは正反対の世界を、ここまで私は、見過ごし、

 

そういう自分を、公然とさらけ出して、平気でいる!

 

 

この世の中に生きる事とは、

 

自分さえ良ければいいを、厚顔無恥で、やり通すことだと、

 

露呈させ、そう理解していて、

 

そこで、平気でいる!!!

 

 

エゴをやめて、人を大切にして、生きる道もあったろうに。

 

エゴの思いでいる必要も、意味もなかった とわかったじゃないか!
 

じゃあなんで、それをやめないんだ。

 

 

それでもし人を責めたりしても、それは、自分さえ良ければいい、自分は違う、と言っているということだぞ。

 

 

自分がエゴ社会にまったく染まって、当たり前できた、というそのエゴを、改めるほかはないんだぞ!!!

 

 

よくこのエゴ社会で、それでいいんだって、安閑と来られたと理解した方がいい。

 

愛から遠かったと、理解した方がいい。

 

 

そうして初めて、人を本当に、愛することができるだろう。

 

このエゴ社会やめようよ、ということができるだろう。

 

 

・・・・・・

 

 

エゴ社会で安閑としているということは、

 

 

自分のエゴがわかっていない、ってこと。

 

 

この世が、自分にとって(人にとっても)、全くその必要も意味もないエゴで動いているっていう、そのみじめさが、わかっていない、ってこと!!!!

 

 

この世が、愛で動いていないっていう、そのみじめさが、わかっていない、ってこと!!!

 

 

エゴ社会に浸っている、自分のエゴを理解した方がいい、ってこと。

 

 

 

(山から嵐が迫ってきました)