エゴがこの世に溢れていて、自分もそれに染まって、
自分がそういう世界にいて、その一員として生きている。
みんなが、社会自体が、エゴにいる。
それで誰もが当たり前で、それに対しては触れずに俯いていて、
誰も、目を見上げようとしない。
もしくは、エゴは人ごと。
自分たちのエゴの振る舞いが、恥ずかしい、貧しい、
見ることをせず、そこから目を逸らしている。
生き延びるための「持続可能な」
さもしいとも、愚かしいとも、思わない。思いたくない。
エゴの生存競争が、自ら、愛から自分を切り離し、
愛とは無縁の存在になっていることなど、思いも寄らないで。
関係ない、仕方が無い、もしくは当たり前、と認識して、
エゴである自分と社会とについて、
目を伏せて、疾しく、恥ずかしく、
人に隠して、あるいは開き直って、(ドヤ顔で)生きる。
だって、それは、しかたがない。
(————そんなこというなよ。お前だってそうだろ)
(————否定しません)
これが私たちの姿ではないか、と思います。
自分自身のエゴの振る舞いから、
目を伏せて、あるいは見ないで、生きなくてはならないって、
なんて自己否定なのでしょう。
なんて後ろ暗いことしているのでしょう。
でもそうだとも、人はあまり認識していないようですが。
誰にも言えない闇、人が逃げ出したくなる闇を、
上辺だけは、明るい顔をしている。なんていうことでしょうか。
(私は昔、あっち行け、このヤなオーラの奴、と、
人が遠ざかる人間だったと、以前も言いました。
闇全開、だったからでしょうか?
でもそれは、誰もが抱えていたんだ、と思います。
人には言わず、表に出さないだけで)
誰もが後ろ暗いエゴを、実は隠し持って、
あるいは、それに気がつかないで、生きている。
そして自分が愛に生きる事ができるのに、
そういう自分を知らないで、
エゴを何度も繰り返している。
だから、
エゴを抱える者はみな、みじめな存在だとしか、
いいようがないのではないですか?
人は誰でも、本当に光り輝いて、
(私という実例を見てください! アマリジツレイニナラナイカ???)
自分がコソコソしなくていい、と気がつけば。
自分だけがトクをする、という振る舞いをやめたら。
オレはダメなんだ、オレにはでき〜ん、と言わなければ。
人にマウントしたり、命令したり、無視したりしなければ。
自分を人に対して閉ざして、ふさぎ込まなければ。
でもそれをしないじゃない!
当たり前に嘘をつき、ごまかし、
自分の我を通すじゃないか。
偉そうな顔をするじゃないか。
自分が光であったというのに、それを知らないで、
闇に生きようとしか、しない。
自分の存在が誰であるか、誰でありうるかを、わかろうとしない。
それでただひたすらに、エゴをやり続けている。
でもそうしている自分のみじめさがわかったら、
そこから新しくなっていくことが、できるんですよ!
私がいまここにいる世界で、
私の「分身」である人々が振る舞う行為、
その「無益」なことが、
私の腹の底に、どんどん染み渡っていく。
そこで私は、そこから回復していく行動を取ることが、
エゴから出ることができる???
エゴを持っていてもやめられない。
エゴが嫌だと思っても、エゴで生きてしまう。
つまりはエゴそのものの存在。
私もずっとそうだった。そこから出なかった。
今は震えながらいいます。
そこから出る事が、できるのだ、と。
このエゴを放っておいたままにして、
愛を、平和を望んだとしても、うまくはいかない。
なぜなら、エゴをやめる、というのがその答えだから。
だからもし望むのなら、エゴを手放す以外に、
愛の存在に至る道はありません。
エゴから抜けられず、そこから抜けようともがくのは、
人が歩む、とても困難な過程でしょう。
でもそこで止まってしまい、
暗い思い、人への怒りや批判、
貧しい感情、疾しさや後ろめたさを、抱えたままで、
生き続けてしまう人が、とても多いのではないか。
ですが、人間はみな、そこに止まって、終わる存在では、
もっともっと、魂のレベルの高い存在、誰もが愛に溢れた存在、
それが人間の存在だったのです。
きのうまでエゴをやめられなくて、
自分のことを、エゴ野郎だと言い続けてきた野郎!が、
と思われるかもしれません。
(————エラソーに。自分だけ分かったというのか。
反発を抱かれる方は、その反発を吐き出してくれて結構です。
だってわかるんだもん。
反発したいのが人間だし、私も同じ反応をしたと思うから。・・・
(————誰もが愛の存在なんて、
こっちは勝手に歩むから、人に容喙しないでほしいな。
俺はあんたの世界のものじゃないよ。
あんたは大きなお世話やってるだけだよ)
私は言われ放題ですた。
だから、お互いが、みじめで哀れな存在だった、
(————勝手にまとめるなよ。人に口出しする暇があったら、
(————自分のコトダケ、トワケルコトハ、デキナイノデスガ・・
————このみじめで哀れな、あなたと私ジョイさんが、
————俺は俺のやり方でやるよ。みじめで哀れな、
まあ、それでも、人はそもそも愛に溢れた存在で、
愛に逆らっても、愛のほうは見放さないのでしたよネ。
誰もが愛に溢れた存在であるってことを、
誰も否定できないのですよネ。
飽くまでも、どこまでも、悪魔であるのを選ぶのでないならば。
ほかならぬ私自身が、人と共感できず、こんなにも愛から遠い、
みじめで哀れな存在だとわかったら、
そこからまた、改めていく道を、
見つけることもできるかもしれません。
愛の方は見放さないことが、わかったから。
・・・・・・
それから、私からは、愛から一番遠そうに見える、
(上の方々は違う、というかもしれません。人のことを思ってる、
でも、自分を、人からは上と思っている限り、
愛からは遠いですね。
なぜなら人に上も下もないので。
上と下で成り立つ、競争ピラミッド社会で、
エゴを埋め込まれてしまったように感じます。
愛を知らないから、
人に鎧を向ける。そして自分を隠す。
愛で分かち合うことを拒むから、
人に隠して、ひとり閉じる。身を守る。
愛であり、愛に溢れていてこそ、
命が輝いて、生き生きと生きられるのに。
自分がどういう(愛の)存在であるかに気づかず、
エゴの鎖に自分を閉じ込めて、
自分の首をしめ、自爆さえする。
(でもどうか、悪魔にならないで。大きなお世話か?
どっちにしても、上も下もないのが、人間世界デス)
・・・・・・
だから、
私はまあ、みじめで哀れな道を、
自分で歩みましょう。
人にどうしてほしいというのではなく。
自分は愛に溢れた存在であると、
泣きながら、歌いたい〜。
そして自分をみじめにしているものを、
すべて味わいましょう。
全然私が気がつかないでいた、
すべて人を覆っている「エゴ社会」というものを、
そしてどこまでも、
愛に溢れた存在、愛に溢れた世界を、
愛し続けていきましょう。
(チューリップが思いっ切り開花してしまいました)
