なんてバカをやっているの、人類総出で。
同じ人間の首を絞めることばかりやっている。
人を裁いたり、支配したり、欺いたり、出し抜いたり、
なぜ人は悪魔になれるの?
それは私が(人が)悪魔だったから・・・。
もうわかっていましたね。
でも私は、悪魔であることから足を洗ったのですよ!
人は悪魔であることから出ることができるのですよ!
(どこまでも出ないから、悪魔をやっているとも言えるノデスガ)
それでも、自分が望めば、そこから出ることができるのに、
だから、出ない人のことを、私は終わりにしない。
その人に意識を向け続けるほかはない、と思います。
その人の、闇から出ないところに、私は目を塞がない。
人類は、誰しもがエゴの枷を負って、
右往左往するのは、
自分で自分のことを知らないから、
小さな自分に捕まってしまうから。
自分の存在を認めず、拒み、
自分で自分に縛られている、といえばいいのか?
小さな自分とは、つまりエゴの自分ということですけど。
その先があるかどうかも、わからない。
そしてもがき続ける。
そのことは、
エゴから抜け出した、エゴにいる必要はない、
と気がついてしまった者から見れば、
そうじゃないんだ、そうじゃなくできると、
自分で自分が、わからないでもがくなんて、何て悲しいことか。
一方で愛というものを感じていながら、
もう一方でエゴから出る事のできない人間の、
そこに直面する。
だったら、私が全部を背負ってしまえば済むじゃないか!!!
(えっ、そんな大層な。そんなことできるの? するの?)
誰にも何にも文句をいうことでもなくて、
迷いや苦しみ、支配や搾取や騙しとは、
全部、
世の中のエゴの、その先に行ける、ということなのではないか?
人のみじめさや痛ましさを言うのなら、それは、
私自身がエゴに止まっているというみじめさ、でしかなく、
そうでない道を知っているのなら、
人のことを言おうとすれば、人から反発を買う。
でもその反発は、エゴから来る意地だとまで、わかる。
つまり、根拠がなくて、虚妄。
(だって、根っこがないんだもん)
でも当人には、手放すことができない。
(なくてもいいのに。そのほうが、はるかにすっきりするのに)
だったら、だから、自分がすべてを理解して、責任を取れば、
現れたエゴは、宙に浮いてしまうでしょう?
だったら、そうしましょう。
エゴを理解して、自分のうちから、
でも、世の中のエゴが、宙に浮いたりするのでしょうか???
だって、誰だって、手放す事ができないんですよ。
私がずっと、そうだったでしょ。
自分に映った、人のエゴとは虚妄だ、って言う端から、
そのエゴに揺さぶられて、ネガティブな反応を、
そう、だから、虚妄を虚妄だとはっきりと理解する。
それによって、虚妄に反応しないことが、カギなんですね。
そうすることで、エゴ同士の化学反応、
抜け出るということですね。
そうして初めて、
エゴの痛ましさ、おろかさ、みじめさ、、哀れさ、無意味さ、
ということですよね。
そうしたらエゴ自体は、あれ、どうしたの? って思って、
お呼びでないって感じて、宙に浮いてしまって、
そのエゴの風船は、
あれ? こんな必要はなかった、と。
私の中では、すでにエゴは、そうなっているんですが・・・。
(なんかモジモジしている。ハッキリしろよ)
ってことは、誰だってそうなる、ってことでしょう???
あぁ〜、要らなかった、って。
誰も、自分や他人を否定して貶め、自分も他人も非難し、
そんな必要はなかったよ〜って。
だって人はみな、愛の人だから。愛でいることができるのだから。
だ・か・ら、私は背負います。
それを、大きなお世話というのは、エゴの反応ですネ。
人のことを構うな、人の自由を奪うな。
拒むのはエゴの抵抗ですヨ。
自分の小さな自由、小さな主体性を守る。
人の善意に従うのが嫌。
自分の小さい意地が取れない。
(いま、ある国のトップの人がこれをやっているように感じます。
敵との仲直りが嫌、と拘って)
愛に対して抵抗し、主体性を主張して、ない自我に拘り、
でもその自我は虚妄でした。幻影でした。
存在しないものだった、ということです。
これがわかれば、みじめさはありません。
消えているのです!
愛を拒んでいる、ということが、
人間はなぜ、愛を拒むか?
︎などて(なぜ、どうして)愛の光を さけてさまよう〜。
という歌詞が、昔の讃美歌のなかにあったことを、
愛を拒むことは、恥ずかしいエゴをさらけ出しているように、
それって、自分で恥部を作って、
人は拒まないで、否定しないで、
あらゆる否定から自由になって、
エゴなしで、思うがままに、生きて行くことが、
エゴは要らな~い! (ああ、スッキリ)
(仲のよい、松の雄花と雌花の実)
