ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -19ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

 

 

なんてバカをやっているの、人類総出で。

 

同じ人間の首を絞めることばかりやっている。

 

人を裁いたり、支配したり、欺いたり、出し抜いたり、搾取したり、殺戮したり・・・

 

なぜ人は悪魔になれるの? 

 

それは私が(人が)悪魔だったから・・・。

 

もうわかっていましたね。

 

 

でも私は、悪魔であることから足を洗ったのですよ!

 

人は悪魔であることから出ることができるのですよ!

 

 

(どこまでも出ないから、悪魔をやっているとも言えるノデスガ)

 

 

それでも、自分が望めば、そこから出ることができるのに、変わりはありません。

 

 

だから、出ない人のことを、私は終わりにしない。終わりにはならない。

 

その人に意識を向け続けるほかはない、と思います。

 

その人の、闇から出ないところに、私は目を塞がない。

 

ただただそう言います

 

 

人類は、誰しもがエゴの枷を負って、右往左往していると思います。(私もそうでした)

 

右往左往するのは、

 

自分で自分のことを知らないから、わからないから、だと思います。

 

小さな自分に捕まってしまうから。

 

自分の存在を認めず、拒み、否定するからだと思います。

 

 

自分で自分に縛られている、といえばいいのか?

 

小さな自分とは、つまりエゴの自分ということですけど。

 

その先があるかどうかも、わからない。

 

そしてもがき続ける。

 

 

そのことは、

 

エゴから抜け出した、エゴにいる必要はない、エゴに意味がない、

 

と気がついてしまった者から見れば、

 

そうじゃないんだ、そうじゃなくできると、痛ましく感じてしまうことです。

 

 

自分で自分が、わからないでもがくなんて、何て悲しいことか。

 

一方で愛というものを感じていながら、

 

もう一方でエゴから出る事のできない人間の、もがきの現実があって、

 

そこに直面する。

 

 

だったら、私が全部を背負ってしまえば済むじゃないか!!! 

 

(えっ、そんな大層な。そんなことできるの? するの?)

 

 

誰にも何にも文句をいうことでもなくて、

 

迷いや苦しみ、支配や搾取や騙しとは、

 

全部、その必要も無かったエゴから湧いて出てきたことだと、理解できれば、

 

世の中のエゴの、その先に行ける、ということなのではないか?

 

 

人のみじめさや痛ましさを言うのなら、それは、

 

私自身がエゴに止まっているというみじめさ、でしかなく、

 

そうでない道を知っているのなら、

 

それは私が愛を感じ続けられるということだ。

 

 

人のことを言おうとすれば、人から反発を買う。

 

でもその反発は、エゴから来る意地だとまで、わかる。

 

つまり、根拠がなくて、虚妄。

 

(だって、根っこがないんだもん)

 

でも当人には、手放すことができない。

 

(なくてもいいのに。そのほうが、はるかにすっきりするのに)

 

 

だったら、だから、自分がすべてを理解して、責任を取れば、

 

現れたエゴは、宙に浮いてしまうでしょう?

 

だったら、そうしましょう。

 

 

エゴを理解して、自分のうちから、エゴが出て行ったといえるならば。

 

 

 

でも、世の中のエゴが、宙に浮いたりするのでしょうか???

 

だって、誰だって、手放す事ができないんですよ。

 

私がずっと、そうだったでしょ。

 

自分に映った、人のエゴとは虚妄だ、って言う端から、

 

そのエゴに揺さぶられて、ネガティブな反応を、私は人に返していたでしょう。

 

 

そう、だから、虚妄を虚妄だとはっきりと理解する。

 

それによって、虚妄に反応しないことが、カギなんですね。

 

 

そうすることで、エゴ同士の化学反応、エゴ同士がエゴ合戦をすることから、

 

抜け出るということですね。

 

 

そうして初めて、

 

エゴの痛ましさ、おろかさ、みじめさ、、哀れさ、無意味さ、要らなさが分かる、

 

ということですよね。

 

 

そうしたらエゴ自体は、あれ、どうしたの? って思って、

 

お呼びでないって感じて、宙に浮いてしまって、

 

そのエゴの風船は、すーっとしぼんでしまうのではないでしょうか???

 

 

あれ? こんな必要はなかった、と。

 

私の中では、すでにエゴは、そうなっているんですが・・・。

 

(なんかモジモジしている。ハッキリしろよ)

 

 

ってことは、誰だってそうなる、ってことでしょう???

 

あぁ〜、要らなかった、って。

 

 

誰も、自分や他人を否定して貶め、自分も他人も非難し、自虐する、

 

そんな必要はなかったよ〜って。

 

だって人はみな、愛の人だから。愛でいることができるのだから。

 

 

だ・か・ら、私は背負います。みんなが愛の人だと気がつく日が来るまで。

 

 

それを、大きなお世話というのは、エゴの反応ですネ。

 

人のことを構うな、人の自由を奪うな。

 

拒むのはエゴの抵抗ですヨ。

 

自分の小さな自由、小さな主体性を守る。

 

人の善意に従うのが嫌。

 

自分の小さい意地が取れない。

 

 

(いま、ある国のトップの人がこれをやっているように感じます。

 

敵との仲直りが嫌、と拘って)

 

 

愛に対して抵抗し、主体性を主張して、ない自我に拘り、しがみつく。

 

でもその自我は虚妄でした。幻影でした。

 

存在しないものだった、ということです。

 

 

これがわかれば、みじめさはありません。

 

消えているのです!

 

 

愛を拒んでいる、ということが、自分をみじめな存在にしているのです。

 

 

人間はなぜ、愛を拒むか?

 

 

〽︎などて(なぜ、どうして)愛の光を さけてさまよう〜。

 

 

という歌詞が、昔の讃美歌のなかにあったことを、私は思い出しました。

 

 

愛を拒むことは、恥ずかしいエゴをさらけ出しているように、

 

私ジョイさんには、見えてしまう。

 

それって、自分で恥部を作って、自分で出していることなんデスッ。

 

 

人は拒まないで、否定しないで、

 

あらゆる否定から自由になって、

 

エゴなしで、思うがままに、生きて行くことが、できるようなのですね。

 

エゴは要らな~い! (ああ、スッキリ)

 

 

 

 

(仲のよい、松の雄花と雌花の実)