ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -18ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

 

最近なんか、心境が大きく変化しています。

 

一番おおきな変化は、

 

人に対するやっかみや、怒りや、承認欲求など、

 

重いネガティブなものが消え去っている、ということです。

 

これはおおきい! 

 

だって、人から見返りを求める思いって、重いんですw。

 

友人や家族とのやりとりで、これだけやって上げたのだから、応えてほしい、と思って、

 

その答えが返ってこないと、重く落ち込むか、腹を立てる。

 

これだけやってあげたのだから、反応してよ、なんか返してよ。

 

(つまり、認めてよ)

 

となるのは、なんと、ほかならぬ私の内に、

 

暗い、相手からエネルギーを吸い取る、エゴの欲望が、

 

あったからだったんです。

 

 

つまり、それだけ満たされない思いを抱えて生きていて、

 

その充足を、人に求めようとする、ということですね。

 

 

これでいつも、私は人間関係を重くしてきたのです。

 

相手がどう自分を満たしてくれるかどうかで、

 

関わりをもとうとする。

 

 

人が自分をどう認めるか、です。

 

その不満足が、私の心を重くし、

 

人を責め倒そうとしたり、ヤケになって暴飲暴食に走ったり、

 

気を散らして、無意味なことをして気を紛らせたり・・・

 

これは全部、心が暗くて、やり切れなくて、出てきたことではないですか。

 

でも、これが、自分の中のエゴから出てきたものだと、

 

理解できると、行動が変わるのです!

 

 

これまで自分が文句を言ってきた人に対して、

 

愛のまなざしを向けることができるようになる。

 

(これホント)

 

そして相手に対して、自分が重い思いを向けていたことを理解し、

 

それが相手との関係を息苦しいものにしてきたことを理解し、

 

相手との関係を、楽しいものに変えることが、できるようになるんです!

 

 

これは私の中ではおおきかった。

 

だって、人を愛せるようになるんですよ! 自分が軽くなることで。

 

相手への不満や文句がなくなり、相手といい関係をもつことができるようになるんですよ!

 

こんなの、それまでのヘンな自分では考えられなかった。

 

嫌み言ったり、トゲ射したり、ケチ付けたり、

 

自分のことは自慢したり、

 

人のことは軽んじて、自分では気づかぬうちに、相手を蔑んでいたり、

 

そして閉じてひとりで行動する。

 

旅行とか、祭りとか、ドライブとか、イベントとか。

 

これってヤな奴そのものですよね。

 

 

このへんな思いが、なんというか、無くなってきてしまったのです。(あらら)

 

こころのなかの、そういう部分が、消えてなくなるというか、

 

だから、すっきり、なのです。

 

これは不思議ですね。

 

心の曇りや、人への満たされない思いが、すーっと無くなってしまったのですから。

 

まさに、エゴがなくなるという不思議、なのです。

 

(これこそ、人と共有できたら素晴らしいことと思います)

 

 

エゴがなくなるとどうなるか?

 

このことに最近私はしょっちゅう思い至るのですが、

 

エゴがなくなると、軽くなります。

 

エゴがなくなると、喜びが湧いてきます。

 

面倒くさい、がなくなります。

 

あれもこれもやらなきゃ、がなくなります。

 

ひとつひとつ、やるだけです。

 

いつもなんか、楽しいです。

 

あせっても、ああ、あせっているなあ、と思えば、消えていきます。

 

次何やろうかなと思うと、ちょっと疲れていても、やる気がすぐ湧いてきます。

 

(ホントに疲れているときは、すぐ寝ます)

 

淀みやためらいがなくなってしまったので、すぐ行動できるし、

 

物事の実現に、最短で達することができます。

 

それはごく自然な思いの流れです。

 

潜在意識と直結した、といえばいいのか、

 

愛の意識、宇宙意識と直結した、といえばいいのか、

 

(何か恐れ多いデスガ)

 

エゴが消えて、愛が現れてくる・・・

 

創造主の場所(カッコいい〜)

 

 

抵抗がゼロになってしまう超伝導とか、無限にエネルギーが湧いてくるフリーエネルギーの世界のようです

 

これってやはり、「思いが実現する」だし、自動の法則、なのです。

 

・・・・・・

 

 

昔を思うと、自分がみじめだと痛感した瞬間がありました。

 

 

「みじめ」ってことが、エゴの理解にとって重要なポイントだと、いま私は思うのですが、

 

みじめって、愛が欠けた、周りから切り離された、エゴイストである自分に、直面する瞬間だと思います。

 

普段から、自分さえよければいい、自分がまず先だ、と心を閉ざしていることの帰結だと思います。

 

 

いまは、だからこれをやめればいいのだと、わかりますが、

 

「愛されたい」の塊(かたまり)だったそのときは、わかるすべもないことでした。

 

 

「愛されたい」は、

 

親の愛情に飢えていた幼少時の思いを、大人になっても持ち続けていたから、ではありますが、

 

外に愛を求め続けてきた私自身が招き、選んだ思いであることは、間違いありません。

 

マザコンであり、自己中であった私が、これを乗り超えることができたのも、

 

そのエゴが自分に「映った」から、

 

そのエゴの虚妄さが、私自身に「映った」からだとしか、

 

いいようがないのです。

 

 

・・・・・・

 

 

昔、自分のみじめさを一番痛感するのは、パーティーの会場ででした。

 

会社全体での、立食の忘年会とか、打ち上げ会、

 

また、編集者という仕事柄、文学賞授賞式のパーティーなどで、

 

人と楽しく会話することができず、いつもひとり、ぽつんとしていました。

 

(だったら自分から動けよ!)

 

でも無視されるからなあ。

 

私が行って話すと、集まっている人が散るんです(爆笑)

 

私には、魅力が、人望がないんだよなあ。

 

(だったら、自分のエゴをまずやめろよ)

 

(自分のみじめさを覆い隠すために、人を利用したってダメだよ)

 

 

エゴの自分とは、自分でつきあいきれないで、ずっと来たのですね。

 

でもそのときにはそれがわかっていない。

 

一体自分はどうしようか、どう生きようかと思って生きてきた。

 

 

「みじめさ」とは、自分にしがみついているから、感じていたのです。

 

要らないものなのに、当人にはそれが分からなかったのです。

 

 

でもいまは、「みじめさ」とは、誰もが持っているものだとまで、理解しています。

 

「みじめ」な奴を見たくない、忌避する、というのも、

 

当時の私にはわかりませんでしたが)エゴの反応だったと思います。

 

エゴの人は、どう生きたらいいか分からないような、

 

つまりエゴから出られない生き方をしている人を、

 

バカにするか、忌避するか、イジメます。

 

ヤな奴は嫌だから。

 

触れたくない、近寄りたくないんです。

 

エゴの人は、ほかの人のエゴを、攻撃するんです。

 

 

だからいま、私は、エゴで振る舞う誰もが、

 

実は、心のうちに「みじめさ」を抱えている、と感じます。

 

 

それで、人間は、お互いを暗くしてしまうんです。

 

 

このエゴを乗り超えるとは、

 

エゴの虚妄を「映して」、

 

心にわだかまるエゴを理解して、

 

そのエゴの虚妄さを感じ取って、それを消し去って、

 

そこから離れていく。

 

 

それしかないと思います。

 

 

そして、そのことは可能であると、いまの私は思います。

 

だって、エゴのない軽さが、誰にだって見えてきて、

 

そこで人は人と、お互いの「みじめさ」を理解し、

 

そのことを乗り超えて、手を取り合うことができると、

 

いまの私には、感じ取れるのですから。

 

 

(私の言葉は浮いていますか? 

 

いいえ、「みじめさ」を超えるとは、かくも軽くなることで、

 

私自身が浮いてしまった、とすら感じています笑)

 

 

 

 

いま、私自身の中では、淀みが消えて、

 

物事を常に、新しく、素のままで、始められると感じます。

 

人に対してオープンになってです。

 

 

エゴが無くなったことの「不思議」とは、

 

自我が断ち切られたところで、物事が次々と湧いてくるという、

 

「創造」の不思議さだと思います。

 

 

不思議ということばの意味は、思議(思う事)ができないということなのですが、

 

思いが断たれるところから、物事が始まるということ、

 

つまりこれが、無からの創造、源からの創造で、

 

つまりは、愛が湧く、ということなのだと思います。

 

 

 

私は、自分の人生の大半、幼少時から、今に至るまで、

 

ずっとエゴを隠し持って生きてきた、ということになるのですが、

 

エゴの不満足は、ずっと私の心の奥底に潜んでいたのですね。

 

 

でもそれが、この歳(もう老境です)になって、なくなってくるとは、

 

人生とは不思議なものなるかな、

 

と思います。

 

 

頑固で固まった、癇癪持ちの偏屈な老人になるのではなくて。

 

 

 

我(われ)と生まれ 勝手の限り 尽くせしも 遥かとき過ぎ 絶えて春来む

 

 

 

(若葉茂れる、春です)