最近なんか、心境が大きく変化しています。
一番おおきな変化は、
人に対するやっかみや、怒りや、
重いネガティブなものが消え去っている、
これはおおきい!
だって、人から見返りを求める思いって、重いんですw。
友人や家族とのやりとりで、これだけやって上げたのだから、
その答えが返ってこないと、重く落ち込むか、腹を立てる。
これだけやってあげたのだから、反応してよ、なんか返してよ。
(つまり、認めてよ)
となるのは、なんと、ほかならぬ私の内に、
暗い、
あったからだったんです。
つまり、それだけ満たされない思いを抱えて生きていて、
これでいつも、私は人間関係を重くしてきたのです。
相手がどう自分を満たしてくれるかどうかで、
人が自分をどう認めるか、です。
その不満足が、私の心を重くし、
人を責め倒そうとしたり、
気を散らして、
これは全部、心が暗くて、やり切れなくて、
でも、これが、自分の中のエゴから出てきたものだと、
理解できると、
これまで自分が文句を言ってきた人に対して、
(これホント)
そして相手に対して、自分が重い思いを向けていたことを理解し、
それが相手との関係を息苦しいものにしてきたことを理解し、
相手との関係を、楽しいものに変えることが、
これは私の中ではおおきかった。
だって、人を愛せるようになるんですよ! 自分が軽くなることで。
相手への不満や文句がなくなり、
こんなの、それまでのヘンな自分では考えられなかった。
嫌み言ったり、トゲ射したり、ケチ付けたり、
人のことは軽んじて、
そして閉じてひとりで行動する。
旅行とか、祭りとか、
これってヤな奴そのものですよね。
このへんな思いが、なんというか、
こころのなかの、そういう部分が、消えてなくなるというか、
だから、すっきり、なのです。
これは不思議ですね。
心の曇りや、人への満たされない思いが、
まさに、エゴがなくなるという不思議、なのです。
(これこそ、人と共有できたら素晴らしいことと思います)
エゴがなくなるとどうなるか?
このことに最近私はしょっちゅう思い至るのですが、
エゴがなくなると、軽くなります。
エゴがなくなると、喜びが湧いてきます。
面倒くさい、がなくなります。
あれもこれもやらなきゃ、がなくなります。
ひとつひとつ、やるだけです。
いつもなんか、楽しいです。
あせっても、ああ、あせっているなあ、と思えば、
次何やろうかなと思うと、ちょっと疲れていても、
(ホントに疲れているときは、すぐ寝ます)
淀みやためらいがなくなってしまったので、すぐ行動できるし、
物事の実現に、最短で達することができます。
それはごく自然な思いの流れです。
潜在意識と直結した、といえばいいのか、
愛の意識、宇宙意識と直結した、といえばいいのか、
(何か恐れ多いデスガ)
エゴが消えて、愛が現れてくる・・・
創造主の場所(カッコいい〜)
抵抗がゼロになってしまう超伝導とか、
これってやはり、「思いが実現する」だし、自動の法則、
・・・・・・
昔を思うと、自分がみじめだと痛感した瞬間がありました。
「みじめ」ってことが、エゴの理解にとって重要なポイントだと、
みじめって、愛が欠けた、周りから切り離された、
普段から、自分さえよければいい、自分がまず先だ、
いまは、だからこれをやめればいいのだと、わかりますが、
「愛されたい」の塊(かたまり)だったそのときは、
「愛されたい」は、
親の愛情に飢えていた幼少時の思いを、
外に愛を求め続けてきた私自身が招き、選んだ思いであることは、
マザコンであり、自己中であった私が、
そのエゴが自分に「映った」から、
そのエゴの虚妄さが、
いいようがないのです。
・・・・・・
昔、自分のみじめさを一番痛感するのは、
会社全体での、立食の忘年会とか、打ち上げ会、
また、編集者という仕事柄、文学賞授賞式のパーティーなどで、
人と楽しく会話することができず、いつもひとり、
(だったら自分から動けよ!)
でも無視されるからなあ。
私が行って話すと、集まっている人が散るんです(爆笑)
私には、魅力が、人望がないんだよなあ。
(だったら、自分のエゴをまずやめろよ)
(自分のみじめさを覆い隠すために、人を利用したってダメだよ)
エゴの自分とは、自分でつきあいきれないで、ずっと来たのですね。
でもそのときにはそれがわかっていない。
一体自分はどうしようか、どう生きようかと思って生きてきた。
「みじめさ」とは、自分にしがみついているから、
要らないものなのに、当人にはそれが分からなかったのです。
でもいまは、「みじめさ」とは、誰もが持っているものだとまで、
「みじめ」な奴を見たくない、忌避する、というのも、
(
エゴの人は、どう生きたらいいか分からないような、
つまりエゴから出られない生き方をしている人を、
バカにするか、忌避するか、イジメます。
ヤな奴は嫌だから。
触れたくない、近寄りたくないんです。
エゴの人は、ほかの人のエゴを、攻撃するんです。
だからいま、私は、エゴで振る舞う誰もが、
実は、心のうちに「みじめさ」を抱えている、と感じます。
それで、人間は、お互いを暗くしてしまうんです。
このエゴを乗り超えるとは、
エゴの虚妄を「映して」、
心にわだかまるエゴを理解して、
そのエゴの虚妄さを感じ取って、それを消し去って、
そこから離れていく。
それしかないと思います。
そして、そのことは可能であると、いまの私は思います。
だって、エゴのない軽さが、誰にだって見えてきて、
そこで人は人と、お互いの「みじめさ」を理解し、
そのことを乗り超えて、手を取り合うことができると、
いまの私には、感じ取れるのですから。
(私の言葉は浮いていますか?
いいえ、「みじめさ」を超えるとは、かくも軽くなることで、
私自身が浮いてしまった、とすら感じています笑)
いま、私自身の中では、淀みが消えて、
物事を常に、新しく、素のままで、始められると感じます。
人に対してオープンになってです。
エゴが無くなったことの「不思議」とは、
自我が断ち切られたところで、物事が次々と湧いてくるという、
「創造」の不思議さだと思います。
不思議ということばの意味は、思議(思う事)
思いが断たれるところから、物事が始まるということ、
つまりこれが、無からの創造、源からの創造で、
つまりは、愛が湧く、ということなのだと思います。
私は、自分の人生の大半、幼少時から、今に至るまで、
ずっとエゴを隠し持って生きてきた、ということになるのですが、
エゴの不満足は、ずっと私の心の奥底に潜んでいたのですね。
でもそれが、この歳(もう老境です)になって、なくなってくるとは、
と思います。
頑固で固まった、癇癪持ちの偏屈な老人になるのではなくて。
我(われ)と生まれ 勝手の限り 尽くせしも 遥かとき過ぎ 絶えて春来む
(若葉茂れる、春です)
