改めて、
私は、いったい何に、生きているのかと、考えてみました。
エゴを超えられないと思ったら、あるとき突然、
自分がエゴの拘束の外にいる。
もしくは、自分に「映った」エゴが消失し、
こんなことがあるのかと、改めて思うのです。
でも、実際いま、そういう状態です。
私の心はいま、軽くなっています。
うん、これだけでいいんじゃないの?
これ以外、要るのだろうか???
ここで、とんでもないことが、脳裏に浮かんだのです。
それは、私の心が軽ければ、いいんじゃない? それだけじゃないの、ということです。
(まあ、当たり前か)
つまり、私の心が軽いと、全部、軽いなあ、
自分が、軽いものしか、見えなかったら、どうでしょうか。
それで、オッケーなのです。
重いこと、つまり、悩み苦しみとは、エゴだったのですね。
(またエゴの話かよ? いえ、愛の話です)
エゴから、悩み苦しみが生まれるって、前言いました。
自分は得したい、自分がいい思いしたい、人から吸い取りたい、
これってとっても重い、エゴの思いですよね、
囚われていて、暗いですよね。
それで悩んで、苦しくなりますよね。
でもこの悩み苦しみの大元の、エゴとは、虚妄だったのですよね。
このエゴが、虚妄だと、自分に「映って」しまえば、
エゴの虚妄が分かれば、囚われはなくなりますよね。
囚われがなくなれば、目に映るものに、引っ掛からず、
心の中の暗い願望は、絶ち消え、
要するに、私を暗い方へと、引っぱるものは、なくなる。
そうなったら、どうなりますか?
私の心に暗いもの、重いものはなくなり、
私の心は軽くなり、囚われがないので自由であり、
それ以上、何も、問題がない。
つまり、問題がなくなっている、ではないですか!
私の意識が、どうあっても重くならないのら、
いつも、何があっても、軽いと、感じられるなら。
重いところは、私の場所じゃない。いえ、重いものは、
私の外の世界に重いものがあるって?
その重いものって、何でできているんでしょうか。
それが見えてしまったら、もう、軽くなりませんか?
私の外って言い方が、すでに、
私と切り離された、別のものを想定しているけれども、
それを重いか、軽いかと感じるのは私ですし、
重いと感じるのは、そこにエゴが映っているからですよね。
ですが、そのエゴが映ってしまうということは、
そのエゴの底の虚妄さが見えてしまうということだし、
そうしたら、そのエゴはそれまでとなってしまうし、
重いものは消失し、軽くなるのではないですか???
だから、私の心が軽ければ、それで十分で、
私が軽くなるということは、
私に「映る」重いものの、重さの底が抜けてしまった、
重いものはみな軽くなるし、
つまりは世界が軽くなる、ということになるのですね!
・・・・・・
たとえば、この数日、私が体験したささやかなことを、いくつかお話ししますと、
先日、あるガソリンスタンドで、冬
終わってから、レシートに項目が複数あって、
「それならもういいから、今からタイヤを全部元に戻すから。よそでやってくれ」
って突然言われて・・・・ 私はキョトン⁉
いきなり客への店主の逆切れが起きて、
説明するよりも感情が湧き立ってしまっていて、
若い店員さんが、
それで私は納得して支払ったのですね。
店主の反応はまぎれもなく、
認めて欲しい、愛してほしい、こんなお金でやってられない、
私の心の鏡、私の心の「映し」だと感じたのですね。
でももう、私は、この囚われにいなくていい。
まっとうなお金のやりとりがあれば、
売り手が得したいのも、買い手が得したいのも、
そこに嵌ることはない。
嵌るのはエゴであって、それは虚妄である。
そして自分の満たされなさを、人にぶつけるのも、
だから、私の心が軽ければ、それで十分で、
もし私がトクしたい、
そういう思いは、まったく湧きませんでした。
なぜなら、相手の反応が見えてしまった、
満たされない心を抱えていることについては、私の心の中で、
それが最高のかかわりです。
これでこの出来事は終わりで、その情念は私の中で、消え去ってしまったのでした。
店主に又来ると言って、その場を後にしました。
・・・・・・
私は柏餅が好きですが、
この端午の節句で、スーパーの安い柏餅を食べると、
後で、
過去にも甘いものを食べて、
白州にある、老舗の和菓子店の柏餅には、
前は安いからと目をつぶって、甘いものを食べ、
でもこれは明らかにおかしい。
柏餅の表示から、
値段を安くしたくて、砂糖の変わりに入れてしまうのだけれど、
口が苦くなるということに目をつぶって、
安上がりの自分(得したい自分)だったことに、気がつきました。
ならもう、そこには居まい。
自分が安上がりで得したくて、添加物から目をそらす、
添加物でごまかし合って、後味の苦味としびれには目をつぶる、
そのエゴは虚妄で、
私はそのスーパーに経緯を投書して、
スーパーがどういう判断をするか、
もし、そのスーパーにまた柏餅があっても、そこに引っぱられず、
軽くなったのです。
軽くなったので、それだけで十分です。
軽い世界を選んでここにいるということです。
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また、先日、ドイツ旅行中の友人から、
そのとき、ネットからは、
平和の式典だけど、敵を想定して、どっちもやっている。
なんか、どっちにも、その式典の出席者に共感を強いる、
勝ったことを祝い、負けた事を記念する。
これは、ノーを言わさないので、重いですよね。
(敵を想定してやっても、平和が来る式典にはならないよ)
だったら、一緒に仲直りの式典をやればいいのに、と、
戦勝祭典だったら、敗戦国は招待できませんよね。
敵を作る祭典って、重いですよね。
だから、重いところには、もういない。
それで軽い自分を見出す、それだけではないかと、私は思います。
そうやって、私は軽い世界を感じて、軽い世界を見出します。
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戦争や、搾取や、犯罪の、重い話、胸が痛くなる話、
いろいろと、とてつもなくあるし、
そしてそれはみな、私が見聞きする、
私の心の映し、私が作った重い世界なのですけれど、
みな虚妄のエゴが生み出している、世界のできごとです。
だったら、それが虚妄とわかった時点で、軽くなるじゃん。
軽くなったら、全部が軽いんじゃん。軽かったってことじゃん。
だから、私の心が、軽かったら、もう、軽いことしか、
これ、飛躍していますか?
でももう、「重いもの」にこだわって、
心が軽かったら、する理由も必要も、なくなってしまうんです。
する理由も必要もない、っていうのは、エゴでしたね。
だから、エゴの虚妄の世界はなかった、要らなかった。
全部軽く見えた。だから全部虚妄だとわかった。
照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)。
だから、軽くなるんです。
軽い世界が見えてくるのです。
それが、軽くなった私が見出した、
ありがたい世界なのだと思います。
(花盛りの世界 いちめんの松の雄花)
