ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -17ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

改めて、

 

私は、いったい何に、生きているのかと、考えてみました。

 

エゴを超えられないと思ったら、あるとき突然、エゴがなくなってしまって、

 

自分がエゴの拘束の外にいる。

 

もしくは、自分に「映った」エゴが消失し、ないし蒸発してしまった。

 

 

こんなことがあるのかと、改めて思うのです。

 

でも、実際いま、そういう状態です。

 

私の心はいま、軽くなっています。

 

 

うん、これだけでいいんじゃないの?

 

これ以外、要るのだろうか???

 

 

ここで、とんでもないことが、脳裏に浮かんだのです。

 

それは、私の心が軽ければ、いいんじゃない? それだけじゃないの、ということです。

 

(まあ、当たり前か)

 

つまり、私の心が軽いと、全部、軽いなあ、って感じたということです(!!!)

 

自分が、軽いものしか、見えなかったら、どうでしょうか。

 

それで、オッケーなのです。

 

重いこと、つまり、悩み苦しみとは、エゴだったのですね。

 

(またエゴの話かよ? いえ、愛の話です)

 

 

エゴから、悩み苦しみが生まれるって、前言いました。

 

自分は得したい、自分がいい思いしたい、人から吸い取りたい、

 

これってとっても重い、エゴの思いですよね、

 

囚われていて、暗いですよね。

 

それで悩んで、苦しくなりますよね。

 

 

でもこの悩み苦しみの大元の、エゴとは、虚妄だったのですよね。

 

このエゴが、虚妄だと、自分に「映って」しまえば、それまでなのですね。

 

エゴの虚妄が分かれば、囚われはなくなりますよね。

 

囚われがなくなれば、目に映るものに、引っ掛からず、

 

心の中の暗い願望は、絶ち消え、

 

要するに、私を暗い方へと、引っぱるものは、なくなる。

 

 

そうなったら、どうなりますか?

 

私の心に暗いもの、重いものはなくなり、

 

私の心は軽くなり、囚われがないので自由であり、

 

それ以上、何も、問題がない。

 

つまり、問題がなくなっている、ではないですか!

 

 

 

私の意識が、どうあっても重くならないのら、重いものなんてないじゃないですか。

 

いつも、何があっても、軽いと、感じられるなら。

 

重いところは、私の場所じゃない。いえ、重いものは、消え去ってしまう。

 

 

私の外の世界に重いものがあるって? 

 

その重いものって、何でできているんでしょうか。

 

それが見えてしまったら、もう、軽くなりませんか?

 

私の外って言い方が、すでに、

 

私と切り離された、別のものを想定しているけれども、

 

それを重いか、軽いかと感じるのは私ですし、

 

重いと感じるのは、そこにエゴが映っているからですよね。

 

 

ですが、そのエゴが映ってしまうということは、

 

そのエゴの底の虚妄さが見えてしまうということだし、

 

そうしたら、そのエゴはそれまでとなってしまうし、

 

重いものは消失し、軽くなるのではないですか???

 

 

だから、私の心が軽ければ、それで十分で、

 

私が軽くなるということは、

 

私に「映る」重いものの、重さの底が抜けてしまった、ということで、

 

重いものはみな軽くなるし、

 

つまりは世界が軽くなる、ということになるのですね!

 

 

・・・・・・

 

 

たとえば、この数日、私が体験したささやかなことを、いくつかお話ししますと、

 

 

先日、あるガソリンスタンドで、冬タイヤと夏タイヤの交換をしようとしたときのことです。

 

終わってから、レシートに項目が複数あって、重複していそうなことについて、ちょっと疑問を言ったら、老年の店主が急に逆切れしてしまい、

 

「それならもういいから、今からタイヤを全部元に戻すから。よそでやってくれ」

 

って突然言われて・・・・ 私はキョトン⁉

 

いきなり客への店主の逆切れが起きて、ちょっと唖然としたのですが、

 

説明するよりも感情が湧き立ってしまっていて、

 

若い店員さんが、タイヤ交換に複数の項目があることの理由を、説明してくれて、

 

それで私は納得して支払ったのですね。

 

 

店主の反応はまぎれもなく、

 

認めて欲しい、愛してほしい、こんなお金でやってられない、自分がお金でちょっとトクしたかった思いをつつかないでほしいという、

 

私の心の鏡、私の心の「映し」だと感じたのですね。

 

でももう、私は、この囚われにいなくていい。

 

まっとうなお金のやりとりがあれば、自分がトクするために買いたたいたりもしない。

 

売り手が得したいのも、買い手が得したいのも、エゴの思いですけれども、

 

そこに嵌ることはない。

 

嵌るのはエゴであって、それは虚妄である。

 

そして自分の満たされなさを、人にぶつけるのも、エゴを本当に持て余しているという、虚妄なのです。

 

 

だから、私の心が軽ければ、それで十分で、重さは要らないのです。

 

 

もし私がトクしたい、という重い思いを内心もって値切ろうとしていたら、

 

店主の反応は私の中で、ネガティブなものとして、しばらく燻り続けたでしょうが、

 

そういう思いは、まったく湧きませんでした。

 

なぜなら、相手の反応が見えてしまった、その満たされない思いが「映って」しまったからです。

 

 

満たされない心を抱えていることについては、私の心の中で、それを手放すだけです。

 

それが最高のかかわりです。

 

 

これでこの出来事は終わりで、その情念は私の中で、消え去ってしまったのでした。

 

店主に又来ると言って、その場を後にしました。

 

 

・・・・・・

 

 

私は柏餅が好きですが、

 

この端午の節句で、スーパーの安い柏餅を食べると、

 

後で、口の中が苦くなって、舌にしびれを感じました。

 

 

過去にも甘いものを食べて、そういうことはときどきありましたが、

 

白州にある、老舗の和菓子店の柏餅には、そんなことがありません。

 

 

前は安いからと目をつぶって、甘いものを食べ、口内を苦く感じることがありました。

 

でもこれは明らかにおかしい。

 

柏餅の表示から、原因がソルビットという甘味料にあるらしいと推定できました。

 

値段を安くしたくて、砂糖の変わりに入れてしまうのだけれど、

 

口が苦くなるということに目をつぶって、安いものに繰り返し手を出してしまう、

 

安上がりの自分(得したい自分)だったことに、気がつきました。

 

 

ならもう、そこには居まい。

 

自分が安上がりで得したくて、添加物から目をそらす、エゴっぽい自分は手放す。

 

添加物でごまかし合って、後味の苦味としびれには目をつぶる、人間のエゴからは離れよう。

 

そのエゴは虚妄で、虚妄の味でごまかしている、ということだから。

 

 

私はそのスーパーに経緯を投書して、このことをおしまいにしました。

 

スーパーがどういう判断をするか、それはそのスーパーが決めることですが、

 

もし、そのスーパーにまた柏餅があっても、そこに引っぱられず、意識は向きません。

 

軽くなったのです。

 

軽くなったので、それだけで十分です。

 

軽い世界を選んでここにいるということです。

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

また、先日、ドイツ旅行中の友人から、ベルリンで対ソ敗戦80年式典をやっていて、そこにいるというメールが、飛び込んできました。

 

 

そのとき、ネットからは、モスクワで対ドイツ戦勝80年式典をやっているとの情報が、流れてきました。

 

 

平和の式典だけど、敵を想定して、どっちもやっている。

 

なんか、どっちにも、その式典の出席者に共感を強いる、同調圧力ってないでしょうか?

 

勝ったことを祝い、負けた事を記念する。

 

これは、ノーを言わさないので、重いですよね。

 

 

(敵を想定してやっても、平和が来る式典にはならないよ)

 

 

だったら、一緒に仲直りの式典をやればいいのに、と、夢想しました。

 

 

戦勝祭典だったら、敗戦国は招待できませんよね。

 

 

敵を作る祭典って、重いですよね。

 

 

だから、重いところには、もういない。

 

それで軽い自分を見出す、それだけではないかと、私は思います。

 

 

そうやって、私は軽い世界を感じて、軽い世界を見出します。

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

戦争や、搾取や、犯罪の、重い話、胸が痛くなる話、悪魔的な話は、

 

いろいろと、とてつもなくあるし、

 

そしてそれはみな、私が見聞きする、

 

私の心の映し、私が作った重い世界なのですけれど、

 

 

みな虚妄のエゴが生み出している、世界のできごとです。

 

 

だったら、それが虚妄とわかった時点で、軽くなるじゃん。

 

軽くなったら、全部が軽いんじゃん。軽かったってことじゃん。

 

 

だから、私の心が、軽かったら、もう、軽いことしか、なかったということになるんです。

 

これ、飛躍していますか? 

 

 

でももう、「重いもの」にこだわって、こだわりの世界を作ることも、

 

心が軽かったら、する理由も必要も、なくなってしまうんです。

 

 

する理由も必要もない、っていうのは、エゴでしたね。

 

 

だから、エゴの虚妄の世界はなかった、要らなかった。

 

全部軽く見えた。だから全部虚妄だとわかった。

 

 

照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)。

 

 

だから、軽くなるんです。

 

軽い世界が見えてくるのです。

 

 

それが、軽くなった私が見出した、

 

ありがたい世界なのだと思います。

 

 

 

 

 

(花盛りの世界 いちめんの松の雄花)