人間がこの世界で、どうしたこうしたと振る舞っている。
喜び、悲しみ、
人と人が主張し合い、文句を言い合い、
人が人を出し抜く。
端的に言って、エゴと愛が絡み合っている、この次元です。
そういう場所でどう生きていくか、がテーマではあったのですが。
人の上に乗っからない。人に自分のエゴをぶつけない。
これがテーマであったのですが。
世の中は、利権と支配と、自分だけはいい思いをしたい、
渦巻いているように見えます。
つまりエゴだらけ。
普段の人との付き合いでは、ぶつかったりしないのに、
支配が絡むところ、社会がまわるところでは、
そういう世界です。
そういう世界って、どういう世界か。
愛が回らない世界なのか?
でも私はすでに、かるくなってしまったのですよ!
そのかるさが、失われることはないと思います。
なぜなら、エゴは必要ないし、エゴでいる理由がなかったから。
エゴは私の心に「映って」しまって、虚妄だとわかったから。
エゴでいたくはなくて、愛にいることを選んだから。
その方が喜びにみちて、しあわせだから。
でも、見える世界は争っていて、その争いは、
これってどういうことなのでしょうか?
この世界はどういうもの、なのでしょうか?
私はまた、見えてしまったことを言います。
(いつもそのパターンなのですが)
愛とエゴが、かるさと重さが絡んでいるこの世とは?
それでも虚妄は消え、かるさしか存在しないこの世とは?
そのことを現す、いま、
この3次元の世は、
「お釈迦様の手のひらの中にいる」
ということでした。
(アレ〜〜ッ!? おのれは孫悟空!?)
これって、どういうことでしょうか?
つまり、端的に言って、人の営みは、どういうことをしようとも、
愛の大いなる働きから出てしまうことはなかった、
ということでした。
どうしてここまで言えるのか?
(♪愛は〜 やがてふたりを やさしく 抱いてゆく〜)
それは、エゴの虚妄とは、愛によってほどかれ、
錯綜し、混乱したもの、相争うものは、
すべてが愛の層のなかで溶けて、
全体が澄んでいく、からなのですね。
愛という大海に、エゴは浮き沈みし、
エゴの方向のないメチャクチャなベクトルを、
愛は全て呑み込み、慈しむからですね
エゴに愛は見えなくても、
愛には、エゴの根無し、エゴの虚妄が、映し出されて、
見えてしまいます。
だから、エゴが何をしても、その底は割れて、その底は有限で、
エゴが世界を支配しようとしても、
愛を超えることは、できなかったのです。
愛以上に強い力を持つものはないでしょう。
(またパウロの叫びが聞こえてきます。
どんな者も、私たちを愛から引き離すことはできない)
だから、愛のベールから外れているものは、何もない。
だから、愛のベールは、すべてを覆っている。
そうすると、すべては、救われていることになります。
つまり、愛とは、
エゴの虚妄を虚妄と見抜き、エゴの虚妄を映し出し、
脆い醜いエゴを、あろうことか、そのままに有らしめていたもの、
だから、エゴは愛に敵わない、何をやっても敵わないのですね。
本当? 都合のいいこと言ってない?
そんな声が聞こえます。
日本の現状を見てみてよ。
怒りと悲しみに震えることばかりじゃないか!
支配者のやりたい放題。
目先の利益の発想しかない人々。
人に関心なんか、ないじゃないか。
人を貶めることばかり。
真実をいう者は、叩かれるでしょ。
偉そうに批判する人ばっかりでしょ。
自己防衛のために、「名誉毀損」という武器まで振りかざして、
外からは、俺のいいように改革しろ、
国の中枢はまた、それとは別の隣国に内部から侵され、
国内では、外に右顧左眄する者が、内では人の上に立って、
昔は、弥生人が縄文人を駆逐して、米作浸透で、
今は、米を作るなと言って、農家はなくなり、国は、そのまま、
(国破れて山河ありになるかも)
かるい、かるいと言っても、現実は憤りばっかりだよ。
お釈迦様は泣いてない?
この世の中見て、お釈迦様の手のひらの中にいるって、
・・・・・・
言えるんです。
それは、こういう世の中を見て、この広い世の中を感じて、
この世の中を、私が愛したからでした。
エゴ塗れだった私が、愛を感じて・・・。
自分さえ良ければいい、ばかりやっている、
愛の光の中にあるものだと私が感じて、私が愛したからでした。
愛の光から出ることはないと感じて・・・
このエゴの世が、自分で自分が何をやっているのかわからないような、
みな愛のできごとの世界だと感じて、私が愛したからでした。
もう自分は愛の働きをわかってしまったから。
もう自分はかるさから離れることはないとわかったから。
愛から引き離されることは絶対ないと知って、
虚妄に満ちたこの世の中を、みな愛のできごとの世界だと感じて、
私が愛したからでした。
(愛の営みです。
大きな雌は少し引き気味ですけど、
