ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -13ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

 

 

愛とは、この世で、どこまで広がって行くことができるのでしょうか?

 

どこまでを、覆いつくすことができるのでしょう?

 

私が愛するとは、どれだけの広がりをもつのでしょう?

 

どんな大きな手を広げて、

 

この世の中で、どれだけ手を伸ばし、覆い尽くそうということができるのでしょう?

 

私の好きな親鸞のお師匠さん筋の方の言葉でいえば、

 

どこまで「本願(修行者の真の願い)の国土(世界)」にすることが、できるのか?

 

ということです。

 

 

この穢土(えど)の世界は、すでに浄土だというのか?

 

すでに浄土です。

 

 

 

 

この世のエゴの現実を、愛のできごとだと感じて、私が愛するとは、

 

私が私のうちで、このエゴを乗り超えるということでした。

 

 

私が私のうちで、私が愛することによって、

 

私のエゴを溶かした。

 

私のエゴを乗り超えた。

 

 

だから、この愛は、すべてを愛のできごとだと理解し、

 

すべてのエゴを溶かし去る愛だったのでしたね。

 

 

愛は虚妄を愛するとは、

 

私が私のエゴを溶かし去り、乗り超える、このことが虚妄そのものを乗り超えること、

 

世に広がる虚妄そのものを、愛のできごととして、消し去ることでした。

 

 

つまり、私が私のエゴを乗り超えることが、

 

全宇宙のエゴを乗り超えるということになるのでした。

 

だって、エゴはみな同じだったから。

 

 

 

(そんなの本当かよ?! そんな大層なこと、絵空事じゃん)

 

 

 

でもそれ以外にエゴを乗り超える手があるのでしょうか?

 

いや、ないんです。

 

 

愛が呑み込んで初めて、エゴが理解できるんです。

 

そして理解できて初めて、エゴは超えられるんです。

 

 

そして愛はすべてのエゴを覆い、

 

それですべてを愛のできごとだと、感じることができるのです。

 

 

私がすべてのエゴを愛のできごとだと感じることと、

 

私が私の自分さえ良ければいいというエゴを乗り超えることは、

 

同じことだったのですね!

 

 

すべてのエゴと私のエゴは、

 

見えている限りにおいて、映っている限りにおいて、

 

同質のもの、いや、同じものだったということです。

 

 

 

でも私はもう、私のエゴからさよならして、軽くなったんでしょ?

 

 

 

たしかに、私はもうエゴでいようとも思わないし、

 

エゴは必要でもなく、エゴでいる理由もないことに、気がついてしまいました。

 

エゴとは虚妄だとわかったのですから。

 

 

エゴから抜けられたことを、私は大いに喜んでいます。

 

だってもう苦しくないから。

 

だってかるいから。

 

エゴでいないという喜びの場所に来たと思うから。

 

 

それでもなお、世に見える様々のエゴ、

 

表に出て来ない陰の政府の、どうしようもなく、自分さえ良ければいい、

 

国民のことは知ったこっちゃない、というエゴは、

 

痛く私に映ります。

 

 

そこには共感がないんです。

 

 

自分さえ良ければいいということを、

 

当たり前に、露骨に、陰湿に、秘かに、やってのけ、

 

日本を支配しているのですから。

 

 

私はそういう世の中にいたんですね。私自身がエゴを超えた、と言ってみても。

 

 

エゴってそもそも、「人類の宿痾」だったじゃないですか!

 

だったら私は、この蔓延るエゴを、私のエゴだと感じましょう。

 

そしてこれを乗り超えて初めて、エゴから抜け出したと、実感したいと思います。

 

 

だってそういう世の中に私はいて、

 

蔓延るエゴが見えて、

 

それが愛の中に吸い込まれてしまう、虚妄の、愛の現実であることまで、

 

見えてしまったのですから。

 

 

 

私がこの世界を愛してしまったら、

 

そのエゴは、孫悟空のように、

 

愛の手のひらの中に嵌ってしまう、のでしたよね。

 

 

 

私が私のエゴを乗り超えたのだとしたら、

 

それはすべてのエゴを映し出してしまったということだし、

 

すべてのエゴは愛の現実の中で、虚妄、として映ってしまっていますものね。

 

 

それだから、私はエゴを映し出すという愛の道をどこまでも歩み、

 

それで私のエゴと、世の中のエゴを乗り超えるという、

 

愛の道を歩んで行くことに、致しましょう。

 

そしてすべてがるくなるように、致しましょう。

 

 

 

(甘い? 何が変わる?)

 

 

 

エゴに止まっている人の相貌が、

 

変容して映し出されてしまうという、それだけです。

 

 

 



 

(世の中を 流れる濁流 絶えずして 行方も知らぬ エゴの姿か)