愛とは、この世で、
どこまでを、覆いつくすことができるのでしょう?
私が愛するとは、どれだけの広がりをもつのでしょう?
どんな大きな手を広げて、
この世の中で、どれだけ手を伸ばし、
私の好きな親鸞のお師匠さん筋の方の言葉でいえば、
どこまで「本願(修行者の真の願い)の国土(世界)」
ということです。
この穢土(えど)の世界は、すでに浄土だというのか?
すでに浄土です。
この世のエゴの現実を、愛のできごとだと感じて、
私が私のうちで、このエゴを乗り超えるということでした。
私が私のうちで、私が愛することによって、
私のエゴを溶かした。
私のエゴを乗り超えた。
だから、この愛は、すべてを愛のできごとだと理解し、
すべてのエゴを溶かし去る愛だったのでしたね。
愛は虚妄を愛するとは、
私が私のエゴを溶かし去り、乗り超える、
世に広がる虚妄そのものを、愛のできごととして、
つまり、私が私のエゴを乗り超えることが、
全宇宙のエゴを乗り超えるということになるのでした。
だって、エゴはみな同じだったから。
(そんなの本当かよ?! そんな大層なこと、絵空事じゃん)
でもそれ以外にエゴを乗り超える手があるのでしょうか?
いや、ないんです。
愛が呑み込んで初めて、エゴが理解できるんです。
そして理解できて初めて、エゴは超えられるんです。
そして愛はすべてのエゴを覆い、
それですべてを愛のできごとだと、感じることができるのです。
私がすべてのエゴを愛のできごとだと感じることと、
私が私の自分さえ良ければいいというエゴを乗り超えることは、
同じことだったのですね!
すべてのエゴと私のエゴは、
見えている限りにおいて、映っている限りにおいて、
同質のもの、いや、同じものだったということです。
でも私はもう、私のエゴからさよならして、軽くなったんでしょ?
たしかに、私はもうエゴでいようとも思わないし、
エゴは必要でもなく、エゴでいる理由もないことに、
エゴとは虚妄だとわかったのですから。
エゴから抜けられたことを、私は大いに喜んでいます。
だってもう苦しくないから。
だってかるいから。
エゴでいないという喜びの場所に来たと思うから。
それでもなお、世に見える様々のエゴ、
表に出て来ない陰の政府の、どうしようもなく、
国民のことは知ったこっちゃない、というエゴは、
痛く私に映ります。
そこには共感がないんです。
自分さえ良ければいいということを、
当たり前に、露骨に、陰湿に、秘かに、やってのけ、
日本を支配しているのですから。
私はそういう世の中にいたんですね。私自身がエゴを超えた、
エゴってそもそも、「人類の宿痾」だったじゃないですか!
だったら私は、この蔓延るエゴを、私のエゴだと感じましょう。
そしてこれを乗り超えて初めて、エゴから抜け出したと、
だってそういう世の中に私はいて、
蔓延るエゴが見えて、
それが愛の中に吸い込まれてしまう、虚妄の、
見えてしまったのですから。
私がこの世界を愛してしまったら、
そのエゴは、孫悟空のように、
愛の手のひらの中に嵌ってしまう、のでしたよね。
私が私のエゴを乗り超えたのだとしたら、
それはすべてのエゴを映し出してしまったということだし、
すべてのエゴは愛の現実の中で、虚妄、
それだから、私はエゴを映し出すという愛の道をどこまでも歩み、
それで私のエゴと、世の中のエゴを乗り超えるという、
愛の道を歩んで行くことに、致しましょう。
そしてすべてがるくなるように、致しましょう。
(甘い? 何が変わる?)
エゴに止まっている人の相貌が、
変容して映し出されてしまうという、それだけです。
(世の中を 流れる濁流 絶えずして 行方も知らぬ エゴの姿か)