お久しぶりです。
ちょっと休暇を取らせていただきました。
ふらりと旅に出て・・・(カッコいい〜)
一息ついてきました。
いつもご高覧くださっている方々には、大変お待たせしてしまいました。
よろしければ、また御覧いただけますよう、お願い申し上げます。
旅の間は、このブログのことは、考えない日々でしたが、
それでもいま帰ってきて、前の記事を読み返してみても、
つまり、
世の中が、どんなに荒れていようとも、
闇が深くて、人それぞれが、自分勝手をやり、重く、
自分さえ良ければいい、をやっていようとも、
私はかるい世界を生きていく、そしてかるい世界は揺るがない、
このことに変わりはない、ということです。
私が愛する事で、愛の世界が実現してきます。
愛することの始まり、愛する主体は、私です。
でも私は、 なぜこんなことをいうようになってしまったのでしょうか?
あれほどエゴから出られないと言っていたのに・・・
世の中は、エゴだらけ、自分のことしか考えない人ばかり。
自分もその中でエゴ野郎を長年やってきた・・・
だから、エゴを背負うほかはない、と思っていました。
暗いエゴの世界ばかり見ていました。
そして、エゴで世の中を見れば、全部説明が付く。
支配する者も支配される側もみんなそう。
そう分かってしまいました。同じエゴの私だから・・・。
・・・・・
でもそれは、あらゆるエゴが、私に「映って」しまう、
人がやっている、あらゆるエゴが、エゴとして「映し出されて」
だからその世の中の全体が、虚妄だと分かってしまう。
うたかたのもの、根っこのないもの、
ただ単に、
だからすべてがかりそめのものだったと、分かってしまう。
照見五蘊皆空
(聞くもの見るもの触るもの嗅ぐもの食べるもの、みんな幻!)
色即是空
(目に見える、色や形のあるものとは、すべてが空の中の陽炎)
これが分かるということは、
すべては空が仮の形となったもの、
理解することであり、
つまりすべては虚妄であって、
それはつまり(ここが大事なところですが)、
分かるということそのことが、
愛する、
ということです。
これは、すべては釈迦の手のひらのうちにある、
すべてが釈迦の手のひらのうちにあることは、
またこれが実現したということです。
私が世を愛する事で、釈迦の手のひらが実現するということは、
私が愛の世界を生む存在だ、ということにほかならないです。
私が愛する事によって、世界は愛の手のひらの中にある。
なぜなら、ここで愛が実現し、そしてその愛には、
ベールのごとく、世を覆うから。
私が愛のまなざしを失わない限り、
虚妄に生きたい人がいて、
愛する事は、世を包んでしまいます。
それが釈迦の手のひらということです。
つまり、世を愛するということは、私が釈迦の手のひらになる、
それは、私が釈迦になる、ということです。
(アラッ!!!)
(孫悟空じゃなかったの???)
だって、愛が覆わないものはないから。
愛の及ばない世界はないということだから。
虚妄の世界とは、虚妄だから。
それが私に見えてしまったということだから。
でもなぜ私は、こう言うことができるのか?
それは私が、軽さを知ってしまったので、
軽いこととは、この世界の始まりであり、
軽さを分かち合うこと以外、私にすることはないからです。
それはどんな重さが世にあっても、変わらないことです。
では、存在しえない虚妄が支配するこの世界って、
重いマウントが、軽さを虐げているこの世界って、
それって、私にとって、一体なんでしょう?
それがなぜ私に見えてくるのか?
そんな重さは要らなかったのではなかったか?
重さは、重さのままに、私に見えてしまいました。
「映ってしまった」ということです。
だから私と関係がない、ということではない。
映ったということは、その根底が見えたということです。
その重いエゴの虚妄が、私に映ったということでしか、
ここで軽い私は、重いものと関わっている、
そしてこの、映す関わりとは、どういうものだったのでしょうか?
ここで私は、軽いということを貫くことが、できるのか?
もう、私にはわかっていたのですね。
答えは先に、出ていましたね。
それは、
私が重いものに対して、釈迦の手のひらになるということですね。
常に、釈迦の手のひらになって、手のひらを広げ続ける、
世の中の重いもの、エゴ、闇、それらに対して、
それらを自らに映して、
自分の手のひらを広げ続けて、世の中を愛する、
ということでしたね。
(ああ、ついに、お釈迦様になってしまった!? そんなことが、このジョイさんにできるのでしょうか?
少なくとも、手のひらをいつも広げている、ということは、
それが一番、心が安らぐことだから。軽くいられることだから)
(窓の外にはUFO?)
(つづく)