瀬織津姫ってさ | Remember to remember 完璧な自分を思い出すお手伝い

皆様こんばんは!


六甲山比賣神社へ行ってきました✨




何年ぶりかな?


以前きた時よりも道が整備されているような…




みのりも大喜び爆笑




心経岩。

この大きな磐座に般若心経が彫ってあります。

今のものは大正時代に彫られたものだそうです。




ん?

柴灯護摩の跡か?


この上には足場が組まれているので、あんまり大きな護摩壇は組めなさそうだけど…



本殿に着くと服装は普通だけど神主さんみたいな人がいました龍

本殿に参拝した後に、御朱印を頂きました。

その時にこれまでずっと疑問だったことを聞いてみました。

「ここの祭神は六甲比賣なのに何故瀬織津姫なんですか?」

実はこれはずっと疑問だったんです。

当然何が正統だとか間違いだととかを暴くために聞いたのではなく、純粋に知りたかったからです。

もちろんホツマツタエに名前が出てるのは知ってるが、秀真自体、写本は1860年代が一番古いんじゃなかったっけ?




故に偽書とされているわけで、学術的にはオミットされる。

ならば延喜式の中の大祓詞の祓戸四神くらいしか出てこない。

その瀬織津姫が何故に近年ブームになっていて、しかも六甲比賣と同一視されるに至ったのか。

恐らく瀬織津姫ブームはホツマツタエブームの後に来たので、秀真伝の内容からではないかと思われる。

天照大御神は天照(アマテル)という男の神でその妻が瀬織津姫とされているのだから。

しかも父は大山祗神、木花開耶姫と同じ。

理屈的には川を司る女神が瀬織津姫なのだから大山祗神が父というのは理論的には納得がいく。

しかし何でもかんでも瀬織津姫というのはどうなのか…

ここには商売としてのバイアスがかかっているように思う。

では何故六甲比賣が瀬織津姫と同一なのか。


「六甲比賣はムカツヒメと同一で天照大御神の荒御魂だから瀬織津姫と同一なんですよ。」

というのが神主さんの答えでした。

出典は?
と聞くと「私がそう考えたから。」とのことでした。

しかしこの神主さんのような人が考える前に撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神の荒魂=瀬織津姫と考えた人物もいる。

それが誰で、どんな内容だったかを探している過程でこんなブログを見つけました。

https://ameblo.jp/shiogama4081121/entry-12547259619.html


このブログはエビデンスもしっかりしてるし考察も特定のバイアスに左右されていない。


このブログを読ませていただく限り、向津媛命は天照大御神とは関係ない=瀬織津姫とは言えない、という結論に至ったわけです。


もちろんこれは学術的な話で、信仰として考えた場合はまた別。


信仰は飽くまで個人的なものなので何を信じ、どう考えようと自由。


クリスチャンに「人間はサルから進化したんだよ!」とわざわざ議論をふっかける必要はないと私は考えている。


そもそも神様の名前なんて人間が考えたものなのだからモナドといおうがテトラグラマトンといおうが、毘盧遮那仏といおうが、天御中主といおうが極論何でもいいと思う。


ただし、特定の宗教のカテゴリーにおいて正統性を主張するのであればそれなりのエビデンスは必要になる。


スピの人達(日本の)はエビデンスを求めずに「誰々さんが言ってたから〜」と言って何でもかんでも習合したがるという特徴がある。


もちろんそれによってこれまであまり光が当たらなかった分野の神仏に光が当たることはあるかもしれないが、それによって捻じ曲げられてしまう古来の理論というものが必ず出てくる。


もちろん密教も釈迦が説いた道からヒンドゥー教の思想や呪術を取り入れて生まれてきたものだから上記と同じかもしれない。


故に上座仏教からすれば鼻でわらわれても仕方ない。


しかも真言宗に関しては御大師様によって神道の概念も取り入れられている。


わたしが真言宗を「日本人の、日本人による、日本人のための密教」と考える所以である。


しかし、じゃあ宗教の目的って何?と考えると、私は人が真理に至るための道筋、と定義している。


道は一つにあらず。


なんか取り止めのない話になってしまいましたがあせる


ありがとうございました!