昨年のことになりますが、書店で見かけた大和岩雄さんの『日本神話論(大和書房)』に目を通してみると、撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)が天照大神の荒魂ではない旨の論が展開されておりました。あまりに衝撃を受けた私は迷わずその書籍を購入しました。
 撞賢木厳之御魂天疎向津媛は、『日本書紀』の神功皇后摂政前紀において仲哀天皇が熊襲征伐をしようとした際に現れた神ですが、通説では、その後神功皇后が難波に向かう際に現れた天照大神の荒魂のこととされております。
 この天照大神荒魂を瀬織津姫のこととして論を展開していたのが『エミシの国の女神(風琳堂)』の菊池展明さんでありました。
 『神道五部書』の『倭姫命世紀』の伊勢荒祭宮の項や『大和志料』の語る広瀬神社の項における荒祭神社が、荒祭宮の祭神を「皇大神宮荒魂」なり「天照大神の荒魂」であるとした上で、「瀬織津比咩神」と同体であることを記していたことが最大の根拠でもありました。
 瀬織津姫は天照大神の荒魂であるから、その天照大神の荒魂と同じとされている撞賢木厳之御魂天疎向津媛も当然瀬織津姫のことである、という前提は、菊池さんの瀬織津姫論に欠かせないものとなっております。
 およそ10年ほど前、『エミシの国の女神』の読後、その出版社である風琳堂の社長、すなわち通称風琳堂主人さんに問い合わせをして直接瀬織津姫について学んだということもあり、瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛であって、かつ天照大神荒魂である、ということは私の中で基礎認識となっておりました。
 しかし、大和岩雄さんは、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛は天照大神の荒魂ではない」とも受け取れる論を展開していたのです。
 厳密にいえば、大和さんが明記しているのはあくまで「撞賢木厳之御魂天疎向津媛は広田神社の祭神ではない」ということなのですが、その理由に天照大神の荒魂を撞賢木厳之御魂天疎向津媛とする通説への否定が含まれております。
 そもそも、この通説が何に因るものなのかというと、幕末の国学士鈴木重胤の『日本書紀伝』―文久二(1862)年―の主張にある旨を大和さんは語っております。
 岩波書店版の『日本書紀』は、「天疎向津媛」について頭注で「~天照大神の荒魂と同じか~」と「か」を付しながら鈴木重胤の説を引いているわけですが、小学館版の頭注は「天照大神の荒魂をさす」と鈴木重胤の説を全面的に受け入れております。
 大和さんによれば、鈴木重胤は国学を政治利用していた国士で、長州藩士などのいわゆる「勤皇」の志士に影響を与え、文久三(1863)年に反勤皇派によって自宅で斬殺された人物なのだそうです。
 そのような鈴木重胤にとって、伊勢神宮の祭神は「皇祖神天照大神」でなければならなかったわけですが、『紀』が伊勢の神として「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」という“天照大神ではない”神名を書いているので、根拠もないのに荒魂説を主張し、広田神社の祭神に仕立てたのだそうです。
 参考までに、大和さんが掲げる「荒魂説に根拠がない」理由は以下のとおりです。

 

―引用:『日本神話論』―
一、『紀』の神功皇后摂政前紀は、「伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神」と、明記しており、伊勢神宮の所在地の神であり、どこにも摂津国の広田神社との関係は記していない。
二、神功皇后紀の摂政元年二月条に、「『我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし』と、天照大神が言ったとあるので、勤王の国士を認ずる鈴木重胤は、伊勢神宮の祭神は「天照大神」という神名以外はないという先入観で、同じ神宮皇后紀に載る伊勢神宮の祭神の「荒魂」に、強引に結び付けたのである。「荒魂」の「荒」を『「遥」に后ひ居たまふ義』などと書いて、まったく意味が違う言葉を無理に結び付けており、説得力がない。
三、広田神社は『延喜式』「神名帳」に載る「名神大社」で、西宮市大社町に鎮座する。『住吉大社神代記』には、「広田社の御祭の時の神宴歌」として、「墨江に筏浮かべて渡りませ住吉の夫」とあり、伊勢神宮ではなく住吉神社にかかわる神社である。神功皇后摂政前紀の新羅遠征伝承に、住吉神が登場しているから、住吉神に関係がある広田神社の神が、伊勢神宮の神の荒魂になったのであって、「荒魂」は伊勢に鎮座する「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」ではない。
四、神功皇后摂政前紀はこの記事に続けて、「尾田の吾田節の淡郡に居す神」を書いているが、この「淡郡」は志摩国であることからも、その前に書かれている神が伊勢の神であることはあきらかである。
五、決定的なのは「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神」と伊勢神宮の祭神であることを明記している事実である。この事実を無視して摂津国の生田(ママ:広田か?)神社の祭神にするのは、暴論である。しかしこの暴論が通説化しているのは、伊勢神宮の祭神名は「天照大神」以外にはないという常識が定着しているからである。

 

 

 なるほど、あらためて『日本書紀』に目を通してみましたが、たしかに撞賢木厳之御魂天疎向津媛を天照大神の荒魂だとする根拠はどこにもありません。
 また、神功皇后の時代における天照大神が必ずしも伊勢の神と認識されていたとは限らないかもしれません。
 さて、このあたり、『古事記』はどう書いているのでしょう。
 なにしろ、撞賢木厳之御魂天疎向津媛は、『日本書紀』においては熊襲征伐をもくろむ中で現れましたが、『古事記』では現れておりません。
 しかし、同場面にて神名を尋ねられた神、すなわち「底筒男・中筒男・上筒男の三柱―いわゆる住吉神―」は、ひとまず「天照大神の御心なり」と語っております。私などはこれをもって荒魂とみるべきかとも思うのですが、『日本書紀』において名を顕された神には天疎向津媛と住吉神以外にも、「尾田の吾田節の淡郡にいる神」がおり、「天事代虚事代玉籤入彦厳事代主神」もおります。したがって、ここで無条件に天疎向津媛だけに決め打ちしてしまえば恣意的な理論と誹りを受けかねないことでしょう。
 いずれ、記・紀の記述だけからは大和さんの否定論に異を唱えるのは難しいと思いましたので、鈴木重胤の『日本書紀伝』が世に出た文久二(1862)年以前に「荒魂説」はなかったのか、を考えてみました。
 まず、根本史料たる『倭姫命世紀』と『大和志料』について考えてみますが、『大和志料』は明治期のものなので当然鈴木重胤説以降のフィルターにかかります。
 一方の、『倭姫命世紀』は偽書と言われようとも鎌倉時代には成ったものとされております。ここでは内容の真偽が問題ではなく、荒魂説の概念が鈴木重胤説以前に存在したかどうかに注目しているので、その部分についてはフィルターを通過していると言えます。
 また、菊池展明さんの『円空と瀬織津姫(風琳堂)』によれば、中世の成書とされる『天地霊覚秘書』には、神宮の「第一荒魂荒祭神」を瀬織津姫とし、この神は「焔魔法王所化也」といった記述がみられる、とのことでした。
 だとすれば、これも中世における瀬織津姫を荒魂とみる概念の存在を証明することになります。
 ただ、これを『真福寺善本叢刊 第6巻( 臨川書店 )両部神道集( 国文学研究資料館/編)』所載のそれで確認してみたところ、たしかにその旨は翻刻されているのですが、底本現物の写真をみると、当該部分は欄外に補記されたものでありました。一旦成書となった後に何者かが補記したことは間違いありません。
 問題は、その補記がいつの時代に書き足されたものか、ですが、残念ながらそれを探る術はありません。
 ところで、ここで重要なことに気づきます。
 その『天地霊覚秘書』にせよ『倭姫命世紀』にせよ、「瀬織津姫」が「八十枉日神」であり「天照大神の荒魂―皇大神宮荒魂―」であるということは書いてあっても、それが「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」のことだとはどこにも書いていないのです。

 

 

―『倭姫命世紀』より―
荒祭宮一座 皇大神宮荒魂。伊邪那岐大神所生神。名八十枉日神也
   一名瀬織津比咩神是也。御形鎮座。
 
 なにしろ、撞賢木厳之御魂天疎向津媛が瀬織津姫であるためには、まず撞賢木厳之御魂天疎向津媛が天照大神の荒魂でなければなりません。
 また、広田神社の祭神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛であるためにも、その前提として撞賢木厳之御魂天疎向津媛が天照大神の荒魂でなければなりません。
 しかし、現在のところそれを裏付ける文久二(1862)年以前の情報を私は知りません。どうやら大和岩雄さんの論を受け入れるしかなさそうです。
 今後、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神の荒魂」という概念に立脚した瀬織津姫論については、よほど注意して文脈を読む必要がありそうです。