筑豊の女性 東路日記(あずまじ の にっき) 小田宅子(おだいえこ)
中間市底井野(旧遠賀郡底井野) の江戸地代の女性 小田宅子(おだ いえこ)氏 を 今日は紹介したいと思います。 「東路日記」 の 小田宅子 は 現在 中間市の 旧底井野の商家 「小松屋」 のおかみ(宅子) が 天保12年(1841年)に 歌の仲間の 桑原久子(芦屋の米伝)の 女主人 の誘いを受け 他に 女性2人 と 従者3名の 計7名 の一行が 伊勢神宮から 善光寺・ 日光への旅行の記録 です。
出発は、 天保12年(1841年) 正月で 二度目の伊勢参りで 太陽暦では 3月8日より7月29日 の 実に144日間の大旅行記 です。 宅子は、 53歳 久子51歳の年だったそうです。 はじめは、 伊勢参りだけの 通行手形で それより先の 通行手形 なしの関所回避の旅であったため 険しい道 や 怪しい男どもの出会い などの危険な冒険の旅だったようです。(江戸時代は 入り鉄砲に 出女 といわれるように 通行手形の無い旅は危険な 旅であったと思われます。)
危険な中に 参拝した 神社 仏閣 は 140ケ所 歌の仲間の旅ですから 短歌が 370首 さらに 宅子は51歳から10年間をかけ「東路日記」を まとめ 東路日記は 単なる日記ではなく 一般の女性の紀行文学として その当時の商家の夫人の知識 や 教養を感じさせる ものでした。
小田宅子の 底井野 は、室町時代(1547年)に 底井野に猫城(麻生文書) として初めて登場する場所で 江戸時代(1605年) 上底井野・ 中底井野・ 下底井野 の3つの村が登場し 唐津街道 赤間-木屋瀬宿(中筋往還) 新延より 木月 上底井野 中間 黒崎へ至る 底井野往還 は 以前 筑豊風土記テーマ 唐津街道(2013年の4月19日-4月21日の4日間) で記載しています。 このように 上底井野には 郡役所がおかれたり旅人・ 商人・ 往来も多く 商家 が発達し 政治・経済・交通の中心 としてにぎわっていたといわれています。
さらに 黒田藩主の御茶屋(別荘で 現在は、底井野小学校となっています) が 寛永15年(1638年)に建設され 歴代の藩主や 重臣の巡視・休息の場であり 小松屋 も 両替商として 大いに繁盛した といわれています。 このため 小田宅子(1789-1890) は、小田弥右座衛門の長女で 両替商-質屋 を経営しましたが 18歳で弟が誕生したため 弟 清七郎 が成人になるまで女主人として活躍しています。 またその活躍の場所 底井野 を 紹介します。 今現在、 小松屋 は 昭和49年に建物は解体されました。 また 俳優 高倉健(本名 小田剛) は、 5代前の祖先が 小田宅子 だそうです。
東路日記の順路行程図 中間市・ 底井野付近の2.5万地図(縮尺任意)
東路日記の参加者達(女性4・従者3名) 小田宅子と主人の図
参加者・発起人の桑原久子 伊勢大和参り名所絵図道程
信濃国善光寺略絵図 日光御之絵
東路日記の原本 小田文庫(日高 康氏所蔵)
小田宅子の作品 明治末期から大正初期の上底井野町
小田宅子の生家跡 旧小松屋(昭和49年建物解体)
月瀬八幡神社参道 月瀬八幡神社本殿(猫城跡)
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猫城跡碑 御茶屋図
御茶屋跡(:現在底井野小学校) 正覚寺(小田家の菩提寺)
蓮光寺 旧郵便局跡
地図位置情報 小田宅子の旧家 北緯 33度48分49秒 東経 130度41分24秒
旧,猫城(月瀬八幡) 北緯 33度48分52秒 東経 130度41分21秒
底井野小学校(旧御茶屋) 北緯 33度48分48秒 東経 130度41分30秒
筑豊の女性 東路日記(あずまじ のにっき) の 小田宅子 終り