筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

        筑豊 の 今昔  日本の霊山 英彦山(日子山) 



  筑豊(北九州)での 最高峰(1200m)の英彦山 は、 古くは日本三大修験者の 霊山として出羽の羽黒山・ 熊野の大峰山 など多くの修験者達の信仰を集めました。 特に 英彦山は 継体天皇の25年(531年)中国北魏の僧善正が英彦山に入山し開山 したといわれています。 また 英彦山は、古来天照大神(あまてらすおおかみ)の 御子天忍穂耳尊(あめのおしほみのみこと)が 降臨する山 として 「日子山」(ひこさん) と 称せられ、平安時代に嵯峨天皇の詔により 「彦山」 さらに江戸時代の 享保14年(1729年)に 霊元法皇により 現在の 「英彦山」 となったとあります。


  筑豊風土記の テーマ 竜王山東山麓の自然・歴史・観光 の中で何回も記載した 聖光坊弁長(鎮西上人)は 明星寺より英彦山への千日参りの荒修行 を行い 悲願達成の松を 植えこの地が 彼岸原 さらに寿命・ 中屋 の地名が英彦山参りの物語として残っています。 


  鎌倉時代には、 多くの修験者達の 修行窟が整備 され 年中行事も行われ 英彦山修験道が興隆し 今熊野窟には 磨崖仏・ 梵字岩 など信仰 が深かったことがわかります。 山伏の修験や教えも整備し 遠くからの信仰も大きく集めるようになった ことが記されています。


  しかし 戦国時代に入り 信仰の山 英彦山 も、 大友宗麟・ 毛利勝信から 武力の行使を受け さらに 豊臣秀吉の 九州平定により 神領のすべてを没収 され壊滅の時代もありました。 江戸時代に入ると 朝廷 小倉藩(細川・小笠原) 佐賀藩(鍋島)の保護もあり 元禄時代に入ると 五穀豊穣を祈る 7-8万人もの 参拝者の時もありましたが またまた 明治政府の 宗教政策 神仏分離令 で 厳しい時代もありました。


 現在は、 国定公園 英彦山  特別保護地区の 自然と歴史の古い修験道の文化遺産 として  さらに 2005年10月に 銅鳥居(幸駅)から 花駅を越えて 奉幣殿(上駅) までの 15分の英彦山スロープカー利用 や 参道を利用の散策も楽しめる 自然体験の場所となっています。
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         英彦山観光案内板             英彦山参道・奉幣殿付近航空写真

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      英彦山参道付近の宿坊地図                参道始点 銅の鳥居

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          銅の鳥居の勅額                    銅の鳥居と参拝者

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     花駅付近の参道道路交差部                財蔵坊 山伏の坊舎

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         クリン草の花畑                        旧亀石坊庭園

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       参道と高浜年尾の句碑付近                最後の参道急坂

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            宝麌印塔                       奉幣殿の鈴と額

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         英彦山神宮奉幣殿                   奉幣殿より下宮への鳥居

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          英彦山神宮社務所                社務所前の池で寛ぎの参拝者

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       下宮より英彦山奉幣殿                     英彦山上宮

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        英彦山スロープカー絵地図                英彦山スロープカー



 位置地図情報      銅の鳥居   北緯  33度29分08秒   東経  130度54分08秒

             英彦山奉幣殿   北緯  33度29分02秒   東経  130度54分37秒  

               英彦山上宮   北緯  33度28分41秒   東経  130度55分35秒




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