筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

        筑豊 の 今昔 菰田東地区( 鮭観音・ 三嶋神社 ) その2



  昨日は、 飯塚市菰田東地区の 鮭観音 と 三嶋神社 を 紹介しましたが 少し説明不足ではの感じで 再度 鮭観音・ 三嶋神社 の説明を 補足することにします。 鮭観音 は 間口3.6m 奥行3.6mのお堂で 正面左に 弘法大師・千手観音の石仏と 右に古い板碑 (いたひ) があります。 板碑は 粗い砂岩製で 鷹さ113cm 横幅 103cm 厚さ 30cm の大きさで上端が 円形に 削られています。 表面には、 上に 阿弥陀如来 右下に 観音菩薩  左下に勢至菩薩 の 三文字が梵字で刻まれています。 


 板碑は 建てられた年号が 刻まれていませんが 鎌倉時代の 嘉穂地区では最も古いもの 説明してあります。 板碑は 関東地方の武蔵を中心につくられ それが各地で地域の石材により刻まれ 鮭観音の板碑も 鎌倉時代に飯塚地区に もたらされた と記されています。


  菰田地区の人々は、 鮭観音 と呼び わら で 魚の形をつくり 祭りの時に観音様に納め ました。 また 飢饉のときにも供養に使い この形が鮭に似ていたため 鮭観音 と言われています。  また 横に流れる嘉麻川の河童に 子供達が悪さをされる のを 鮭観音 に参ることにより 事故を さける とも言われています。


 三嶋神社 は、 祭神 大山祇神 木花開耶姫神 で 古くは 西暦990年(正歴元年)といわれ飯塚・菰田地区では 古く由緒のある 三嶋神社 で 穂波郡薦田村(こもだ)と記され 金丸庄の鎮守様であり 神社の所在名も 木花開耶姫にちなみ 木の花町の町名ともなっています。 神社敷地は 以前は 字中田(木の花公民館付近まで)の広い範囲まで 神社の敷地があったといわれています。 その後 陥落等で 池・蓮根堀となつた時代もありますが 現在は宅地化しています。


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      菰田東地区の地図(1/25000)              嘉麻川と 菰田小・鮭観音

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      菰田小東門横の鮭観音                  鮭観音お堂の正面

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          鮭観音内部                       鮭観音の板碑 

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          板碑の説明板                     梵字 阿弥陀如来

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        梵字 観音菩薩                       梵字 勢至菩薩

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        菰田東地区の字古地図                三嶋神社の参道より         

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       三嶋神社の説明板                     三嶋神社拝殿

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   三嶋神社参道より菰田小校門坂を見る           三嶋神社三の鳥居より

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           西参道を見る                       神社北広場

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            神社拝殿内部                       拝殿の天井絵馬



  地図情報    鮭観音    北緯  33度37分52秒    東経  130度41分36秒

           三嶋神社    北緯  33度37分55秒     東経  130度41分26秒




                  次回は、 筑豊 の 今昔 (英彦山神社) へ