筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

筑豊風土坊のブログ

筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                  碓井 八反田 の 舟入場


 福岡県嘉麻市上臼井の原田橋の近くに 水神社 ここに 八反田の舟入場 があ利ました。 江戸時代半ば 寛政8年(1795)に設けられたもので 遠賀川には 幕府に収める米を運ぶ 川ひらた による 遠賀川水運の開通 がなされ これによって、 それまで牛馬による運送で 農民の負担は軽くなり 八反田近郊には 多くの人々が集まり商売繁盛し 旧碓井町役場(現在の嘉麻市役所) があるのはこのためかなと思われます。 八反田の入舟場の事は 旧碓井町史のなかにも記され また 八反田舟入場の復元模型 が碓井郷土館に展示されています。


このように、豊かな川の水で作物を作り 収穫した作物を水運を 利用して運び川の恵みを生かした農業が遠賀川流域で古くから発達しました。 

実はその以前にも 「一石五斗 平駄(ひらた) の貸料」 奈良の東大寺で見っかった古文書の巻物にも記された「太治5年(1130) 年 貢米碓井より運上・・・・」 と かって旧碓井町一帯は東大寺の荘園であり 取れた米を年貢として運搬した記録も残っています。 


 平駄(ひらた) も 川ひらた の事が書かれ その当時の 年貢米は、150石(2万2500kg)このうち川運賃が米一石五斗(225kg) で年貢米は河口で大型船に積み替えられ瀬戸内海から都へ運ばれ 筑豊と都を結んだ最古の記録 もあります。

江戸時代も 秋月藩の米蔵と年貢米の積み出し場でしたが 現在この場所には 水神社と 安政5年(1858)銘の記念碑 が残されています。 碑文には 上臼井村と馬見村の大庄屋が中心になって 遠賀川の水運が開通した と記されています。


写真の中では、村田耕花園の 村田弘富氏(高校の先輩)の 父 耕一氏の昔の八反田の風景や 昭和39年当時の上臼井・原田橋付近より上流 の JR上山田線の鉄橋 と 遠賀川・鉄道の運送の歴史を知ることのできる 場所 として 見ていただきたいと思います。


今回は、平成26年暮れから平成27年の今日まで(約12日間) 嘉麻市碓井・旧稲築町付近の記載の 筑豊風土記 を終わらせていただきます。

 (次回は、中高一貫校の為撤去される 幸袋小学校と 伊藤伝右衛門さん寄贈した その当時西日本一の講堂を 何日かにわたり報告します。)


BK01  BK02

      現在は水神社が祀られる                 八反田舟入場説明板
 
BK03  BK04
    八反田舟入場付近地図 1/25000           八反田舟入場付近航空写真

BK05  BK06
     昔の八反田の舟入場スケッチ              八反田舟入場付近遠景

BK07  BK08
     昭和30年頃の遠賀川と川舟             原田橋付近より下流遠景

BK09  BK10
      遠賀川右岸より遠景            昭和39年原田橋よりJP上山田線鉄橋

BK11  BK12
       八反田案内板拡大                      水神社

BK13  BK14
        水神社の祠                       灯篭に天保5年の碑
 


                    位 置 情 報


 八反田舟入場(水神社)  北緯 33度33分58秒   東経 130度42分45秒



       次回は、 万葉歌碑 と 山上憶良 (嘉麻市旧稲築)  へ