筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                万葉歌碑 と 山上憶良 (嘉麻市旧稲築)


  嘉麻市旧稲築(鴨生・岩崎)付近は、万葉歌碑 特に 山上憶良の歌碑 が多くみられます。 これは、養老5年(721)に 憶良は62歳にして退官しましたが、 すぐに 聖武天皇により 神亀3年(726)頃 筑前国守に任ぜられ 筑紫  に下り 国司として 嘉摩郡(現・嘉麻市) にやってきます。



万葉集に残されている 彼の歌の大部分が、筑前国守時代以降 のもので その中 「惑える情を反さし務る歌」 「子等を思ふ歌」 「世間の在りし難きを哀しむ歌」 の三部作 が、 「神亀5年7月21日、嘉摩郡にて撰定す」 の左註によって、撰定された時も場所も分かっています。


憶良は、実直・忠実な 国司だったのでしょう、法令に規定された通りに見回りを行い そうした巡察の記録・ 実行を詳細に記し、 大宰府では上司に報告したと思われます。 しかし 歌人でもあった 彼は 歌として記したのが 憶良の三部作  だと思われます。 単に国司の役目だけでなく 世間の親たちに対して 子を思う歌 や 貧困にある農民達との 「貧窮問答歌」 などの記録 や 歌がたくさんあります。  



万葉集は、おもに7世紀半ばから8世紀半ばまで造られた歌、約4500首を20巻にまとめた歌集で この中には 天皇・貴族・名も知れぬの庶民の喜びや悲しみ が歌いあげられています。


山上憶良が 世を去って1280余年、 この地方では多くの人達の熱意と努力により、歌碑が建てられていることは、彼の喜びは勿論、 万葉集を愛する多くの人達の願い だと思います。


旧稲築地区では、 鴨生公園・ 平野歯科付近の鴨生憶良苑・ 稲築公園 には多くの歌碑があります。 山上憶良の万葉歌碑 訪ねてみませんか?  

これにて 嘉麻地区の筑豊風土記 一時、終わります。 (また、いつの日か嘉麻市の 名所・物語を訪ねたいと思います。  よろしく---筑豊風土坊) 


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        鴨生公演の万葉の看板               万葉歌碑の位置 1/25000

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    万葉歌碑の位置 航空写真                 鴨生公演の案内図

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          山上憶良の説明板                  筑前守山上大夫歌碑

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         嘉麻三部作の碑                万葉集巻3-337宮より退出の時歌

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         鴨生憶良苑の遠景                    鴨生憶良苑の碑 1

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         鴨生憶良苑の碑 2                  鴨生憶良苑の碑 3

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        鴨生憶良苑の碑 4                    鴨生憶良苑の碑 5

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             稲築案内板                    稲築公園にも万葉の碑

 
                          位 置 情 報

鴨生公園の万葉歌碑    北緯 33度36分21秒   東経 130度43分26秒

鴨生憶良苑の万葉歌碑   北緯 33度36分31秒   東経 130度43分29秒

稲築公園の万葉歌碑    北緯 33度36分01秒   東経 130度43分01秒


  

           次回は、 幸袋小学校 と 幸袋小学校講堂  へ