筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

              正人どん と 一鍬堀り (嘉麻市上西郷久吉)



 江戸時代の 文政10年(1827) 5月、上西郷は黒田52万石の分家の黒田秋月藩領で 100町歩ほどの水田がありましたが、上西郷地区は水不足 で更にこの当時は飢饉でも悩まされていました。

 

この地に住む 正人どんは、黒田本領の中益(長田井堰)から嘉麻川の水を引き用水路 をつくるため 黒田藩主に直訴するため藩主の駕籠が通るのを5日間待ち、藩主は熱意を聞き入れ「鍬一幅なら掘ることを許す」の約束を取り付けました。


帰ると 幅三尺(91cm)の大鍬で溝を堀りはじめました。 これを見た黒田藩の役人は 「鍬の幅三尺とは我が藩を欺くか?」 と詰め寄りますが、知恵者の正人どんは 「三尺幅だろうと一鍬には違いない」 と言い通し、やがて用水路は完成し百姓300人は救われました。


しかし、当時の直訴は死罪、まして藩を欺く行動に出た正人どんはついに水路に架かる石橋の上で殺害 されました。 さらに妻子も共に殺されたといわれます。 村人達は、殺害され血に染まった石橋で墓標をつくり正人どん・妻子を小高い所に葬りました。


その後墓所は石橋天神と呼ばれ命日の旧暦7月7日には上西郷久吉では現在も祭礼 が行われているということです。 正人どんは、医者であり怪力の持ち主であったと語られています。


現在、国道322号久吉の交差点より南方200mの嘉麻市消防署の西側に一鍬掘りの水門(もとは中益の長田井堰を現在地に移転) 説明版・記念碑(赤丸地点)があり 正人どんの墓は西方久吉集会所よりさらに西方への山道を7約200m登った山頂(赤丸地点)に祀られています。



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正人どん 一鍬堀り付近 1/25000地図       正人どん墓   水門・記念 碑位置

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     説明版  水門   記念碑                  説明地図と説明版

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    水門(文政10年)長田井堰より移転             記念碑の裏面

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     記念碑・正人どん墓位置図          久吉集会所より正人どん墓への道

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         正人どんの屋敷跡                   正人どんの墓全景

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        正人どん・妻子の墓                   正人どんの墓遠景

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        正人どん説明碑                      正人どんの歌看板


 秋月街道 大隈宿 その2 (2013年4月10日報告) に一部説明していますが、今回は嘉麻市の碓井地区の筑豊風土記 再企画の為 正人どんの一鍬堀り の詳細説明を行っています。



                        位 置 情 報

   水門・記念碑  北緯  33度32分47秒   東経  130度44分14秒   標高45m

    正人どんの墓 北緯  33度32分45秒  東経  130度44分08秒   標高56m




                   次回は、  臼井氏 と その墓 へ