筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                  碓井の土豪 臼井氏 と その墓




 嘉麻市には、文治3年(1187) ころ 碓井庄 (現. 旧碓井町周辺)付近に臼井氏 と呼ばれる土豪がいました。


臼井氏は、もともとは 関東の下総国 (現. 千葉県)を本拠とする平氏武士の千葉氏が 源で  初代常安の時代に源頼朝から勲功により 筑前国嘉穂郡馬見庄(旧嘉穂町周辺)と碓井庄500町歩を拝領 しました。 その後、17代の實量の頃、 豊臣秀吉の九州出兵に味方し恩賞を得 18代安宣は、黒田長政 の時代に 代官となるなど栄華を誇ったと言われています。


 慶長5年(1600)12月、黒田官兵衛・長政親子が関ヶ原の戦いの戦功として筑前52万石を拝領し筑前入国時に、烏尾峠の国境まで出迎え 後藤又兵衛と共に名島城へ案内したといわれています。 黒田長政は、二度臼井家に訪れ その当時、門名氏を名乗っていた安宣に再び臼井姓を名乗ることを免じ 二度目の来訪の際に 干鮭の煮物やカステーラを振舞い 「黒田長政御成献立目録」  黒田家拝領の お膳 は 碓井郷土資料館に展示されています。


安宣は、黒田家の家臣とも 親交があり 井上之房・ 堀 定則・ 後藤又兵衛 などの交流があり安宣宛ての書状 特に 又兵衛が出奔した際の形見として 槍・ 鞍 が送られています。



黒田長政 の死後は 5万石を分地され 秋月藩を黒田長興(長政の三男)に従い秋月藩の家臣となりました。  臼井氏の墓所は、 自然石に梵字の墓 と 五輪の塔の墓が 約50基の墓があります

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     臼井氏の墓 1/25000地図              臼井氏の墓 航空写真

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       臼井氏の墓 入口                     臼井氏の墓 1

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        臼井氏の墓 2                      臼井氏の墓 3

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   臼井實量(左) 臼井安宣(右)の墓              臼井氏の墓 4

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        17代 臼井實量の墓             18代 臼井安宣の墓 (右)

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        臼井氏の墓 遠景                  黒田長政代官目録

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      黒田家より拝領の御膳               黒田長政御成献立目録


                       位 置 情 報

  臼井家の墓所   北緯33度33分24秒    東経 130度42分38秒   標高 52m


      
次回は  千手川の おう穴 (福岡県指定の天然記念物) へ