筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

              秋月街道  八丁越え  (10)


 秋月街道も 10日目、中盤を過ぎ難所 八丁越に入ってきました。 大力芝原集落(北緯33度31分06秒 東経130度42分18秒 標高114m) で またまた お会いしました。 伊能忠敬の測量記念碑 文化9年(1812)大力川石橋-千手-芥田-西郷-大隈 間1里23丁21間(6.5km)   大力八丁越を守る会  と記されています。  伊能忠敬先生67歳 いろんな所に 恐るべき不屈の男 と感心 同年齢の 筑豊風土坊も 頑張らねばと 八丁越えに 挑戦ん--しまぁ-す。(武田鉄矢風に)

 

 八丁越 秋月(豊前)街道 説明版より 

八丁越えは、 秋月街道中 最大の難所 筑前と筑後を結ぶ峠 として 中世から利用されました。 天正15年(1587) 豊臣秀吉の九州出兵では、秀吉 自ら峠を進軍しました。

江戸時代、秋月藩(黒田)設立を期に、寛永7年(1630) 新八丁越が作られ 古八丁越えは閉鎖され(特例で秋月藩主・藩士・領民の往来可能) 一時、元治元年(1864)と慶応2年(1866)の長州戦争時の軍事行動の対策で開通となりました。 明治以後は、古・新両八丁越え とも 近年まで長く利用 されました。  平成22年5月11日を持って 古八丁越えの峠付近204mの部分は嘉麻市指定史跡 となっています。


大力芝原の集落を抜け国道322号につき当たったところに 八丁峠説明版 があります。 これより、左手の勾配のない道を進むと 不動尊 が迎えます 少し道は悪くなり かつて家があったような場所に着きます このあたりが地図で 岩骨(北緯33度30分06秒 東経130度42分11秒 標高298m) のようです。  少し進むと 新八丁 と 旧八丁 の分岐点 を左側に進むと 旧八丁で約200m行くと 国道322号を横切り、 ところどころ石畳が現れる谷道を約700m この 急傾斜付近が嘉麻市指定史跡? あと一息で 峠(北緯33度29分29秒 東経130度42分16秒 標高528m)に着きます。 (峠に到着 ばんざい しかし 展望なし がっかりです)


峠は林道の一部でこの付近が 嘉麻市と甘木市の境界 にもなります。 30m右手に秋月への下りの道標があり ここから下りに掛ります。 街道は 掘割や林道建設により 一部壊された部分もありますが 谷沿いに降りてゆくと本格的な石畳  この道を下ると街道は 再び国道を322号を横切り あと一息で 明治から納涼場と茶屋で知られた だんご庵(北緯33度28分39秒 東経130度42分10秒標高204m) にたどり着きます。 だんご庵 で一時休憩 元気を取戻し最後の力を振り絞り ようやく秋月の城下町に入りました。  (万歳・万歳--? )


  筑豊風土坊のブログ-八丁峠説明版   筑豊風土坊のブログ-八丁峠地図
           
 八丁峠の説明版                 八丁峠地図

  
筑豊風土坊のブログ-大力伊能測量の地   筑豊風土坊のブログ-八丁峠嘉穂側入口
       
大力の伊能忠敬測量の地               嘉穂街道口説明版付近
   
  
筑豊風土坊のブログ-弘法大使   筑豊風土坊のブログ-八丁分岐点
            弘法大使像                     新旧八丁の分岐点

   
筑豊風土坊のブログ-嘉穂側石畳   筑豊風土坊のブログ-峠前の石畳
          
 嘉穂側の石畳                     峠付近の急坂へ
   
  
筑豊風土坊のブログ-八丁峠   筑豊風土坊のブログ-峠を越え秋月へ
          
 旧八丁の峠                        秋月側街道へ

  
筑豊風土坊のブログ-秋月石畳   筑豊風土坊のブログ-だんご庵
        
   秋月側石畳                        だんご庵出口



                   次回は  秋月の城下 へ