筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

             秋月街道  大隈宿  その2 (8)


  秋月街道 大隈宿は、街道の中で 一番賑わいのある 姿を残した宿場 だと思います。 本陣であった横町の 「玉の井(造り酒屋で最も古い建物) や 福円寺・ 麟翁寺・ 光円寺 などのお寺 が 街並みに溶け込み 静かなたたずまい の中で 刀を差した武士が現れても 違和感のない街かもしれません。


鮭神社(北緯33度32分39秒 東経130度44分55秒 標高68m) は、国道211号を嘉麻峠方に向い 銘酒「黒田武士」 の先、左側の銅製の鳥居を入ると 鮭神社が鎮座しています。 この 鮭神社、全国でも珍しい鮭を祀つた神社で 鮭の上る南限の遠賀川上流で、鮭は海神の使いとして崇められ、祀られています。 遠賀川源流サケの会の青木宣人氏達の努力により 毎年3月、筑豊の各地でサケの稚児放流 が子供達の手 で行われ 「4年後には 帰っておいでと」 放流 されています。


銘酒 黒田武士販売所(北緯33度32分42秒 東経130度44分48秒 標高65m) には銘酒 黒田武士の販売と鮭の資料展示がされています。 (酒 と 鮭 年寄りの駄洒落です。 銘酒黒田武士もよろしく これも地元PR )


販売所 横の交差点を西方に曲がり約750mで原田の交差点があります。 交差点の西側に 原田遺跡(北緯33度32分17秒 東経130度44分29秒 標高73m) と説明版と花崗岩の標柱2本がどんと建っています。

弥生時代の中期(約2100年から1800年前)の遺跡で 全長約1.6km 面積にして約30ヘクタールに及ぶ大集落遺跡 で 佐賀の吉野ヶ里遺跡に匹敵する広大 なもので台地中央部が住居郡、その周辺は墓地が造られています。 近くの 鎌田原墳丘墓 は原田遺跡が一望できる東側の丘陵上にあると説明版に記されています。


原田遺跡より北西へ約600mにて西側に水門の記念碑があります。 これが 正人どんの一鍬堀の史跡(北緯33度32分33秒 東経130度44分19秒 標高55m)で 江戸時代のこと上西郷は、黒田秋月藩の100町歩の領地の中で水不足 でいつも旱魃に悩まされていました。 

正人どんは中益から(長田井堰) 水を引き水路を造ることを直訴 しました。 「鍬一幅なら掘ることを許す」 との約束をもらい幅3尺(約91cm)の大鍬で溝を掘りましたが 「鍬の3尺とは われらを欺くか」 と水路はできましたが 正人どんは石橋の上で殺害・妻も子も殺 されたそうです。 村人達は殺害された石橋で墓標をつくり 小高い丘に三人を葬りました。 水門の横には 正人どんの一鍬掘りの史跡 として今は紹介されています。


更に北西方に進むと 善照(浄土真宗のお寺 北緯33度33分07秒 東経130度43分40秒 標高54m) があり 大永年中(1521~1527)より 元亀年間(1570~1572)まで下益村にありましたが 天正年中(1573~1591) この地に移りました。 寛文8年(1668) 廃城となった 益富城の大手門 を寺内に移転し 現在に至っていると記されています。

 
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            鮭神社                         鮭神社の銅鳥居 


 
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     黒田武士酒販売店と古処山                 黒田武士店内部

 
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      原田遺跡よりの大隈の町                 原田遺跡説明版


 
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        一鍬堀の記念碑1                    一鍬堀の記念碑2


 
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         善照寺全景                     善照寺の益富城大手門 

        

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