筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                    秋月街道を 知る   (1)


 私達が住むこの筑豊には三本の昔の街道が通っています。 それはもちろん以前に お話した小倉から木屋瀬・飯塚宿を通り長崎に向かう 長崎街道。 今からお話の始まる 秋月街道・ 三ヶ所目は、木屋瀬から赤間を通り博多・唐津に向かう 唐津街道 この三本の街道です。 それでは今回より 秋月街道 についてをお話していきます。 


秋月街道は、筑前小倉から筑後久留米に至る 旧街道で、宿場は 小倉宿--呼野宿--採銅所宿--香春宿--猪膝宿--大隈宿--千手宿--秋月宿--野町宿--松崎宿 の合計10宿があり 全延長 約90kmの街道で 秋月藩5万石の城下町秋月を通 ため 秋月街道 と呼ばれる街道です。 ドライブをよくされる方は お分かりかと思いますが 現在の、一般国道322号線 にほぼ一致します。

秋月街道は、小倉の都市部 を除いてほとんどの区間で 旧街道の雰囲気をのこしています。  この点でも 街道歩きの好きな方にとっては楽しめる 秋月街道 です。  この秋月街道と言う名称も 江戸時代には公的な名称ではなく 「小倉道」・「香春道」・「八丁越え」・「松崎道」 など多くの呼び名が 各地区ごとに呼ばれている場合も ありますが 今回の説明では 秋月街道 で説明していきます。 



秋月街道の歴史・起こり については、 香春・田川付近では、延暦22年(803)ころ 官道 として使われたように 大和武命や最澄のお話が 秋月街道筋 には多く残っています。

一般的に 秋月街道 と言われるのは 南北朝の末期、豊前・筑前国の平定に 応安7年(1374)大内義弘は、筑前守護職を幕府よりいただき 秋月街道 などの交通路の確保・整備を進めています。 

その後、天正14年(1585)日本統一のため九州に入った豊臣秀吉 は、秋月種実を攻めますが この道が 馬ヶ岳城(犀川町)・岩石城(田川)・八丁峠 を越える 秋月街道 を通行しています。 

慶長9年(1604)には、鍋島直茂が大阪よりの帰国に通行し。 それ以後も久留米・柳川・肥後の大名達が 参勤交代 にこの 秋月街道 を利用しています。


街道としては、この秋月街道と長崎街道は並行しています。 そのため秋月街道のほうが古い歴史があるのですが江戸時代には利用が減ります、 そのため 旧街道歩き楽しむ現代の私達には 古い暖かいかたちで 秋月街道 は迎 てくれます。 


それでは次回から 小倉常盤橋より 秋月街道 をたどります。


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       秋月街道宿場路線図              20万分の1地図



         次回は 秋月街道 小倉常盤橋 より 呼野宿 へ