筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                      近世の遠賀川 その1  (8)


  戦国時代の、 日本統一のため豊臣秀吉 は、九州に入り南下し 大隈益富城 に入り策をめぐらせ農民に命じ戸板・障子を集め一夜にして見事な仮城を造り (一夜城) さらに城より白米を滝のように流す (白米滝流し) ことにより 見事戦力をなくし一戦を交えることなく 秋月種実父子は軍門 に下ります。 


このことにより 飯塚地方の戦国時代は終 ます。  近世の飯塚地方は、黒田長政 が関が原の偉功により、豊前12万300石から、筑前52万300石大名 となりました。 慶長5年(1600)12月に中津を出発し、飯塚の太養院に寄宿し、八木山を経て博多に至り、さらに名島城に入り 黒田家入国となりました。

名島は、天正15年に、小早川隆景 が築いた城でしたが、地の利を得ていないことから、那珂郡警固村に城郭を構え、四方に堀をめぐらし要害を固め城の名を 長政の祖先の備線国福岡の地名をとり 福岡城 としました。


黒田藩は、藩政の基礎固めの為、土豪達の 検地を厳重 に実施し年貢・百姓を自立した本百姓に取り立 とし村役人を任命し幾多の業績を残しました。 筑前六宿(長崎街道筑前六宿で掲載済み)・ 遠賀川の改修工事・ 高取焼等の商工の発展 も行われました。 飯塚村・徳前村・菰田村の66村が福岡藩領で (享保5年(1720)長崎街道の直方町(東蓮寺藩))(9) で以前説明済みですが再度閲覧をお願いします。)一時、直方藩の時もありますが福岡藩領として組み込まれます。


黒田藩は、本城のほかに (嘉麻市大隈益富城に後藤又兵衛)・  (鞍手郡鷹取城に母里太兵衛)・  (上座郡左右良城(真寺城)に栗山備後) ・ (上座郡小石原城に黒田統種) ・ (遠賀郡黒崎城に井上周防)・ (若松 若松城に三宅若狭) を城主とし それ以外にも黒田25騎 といわれた幼少から黒田家に使え忠節を尽くした人達もいました 特に飯塚地方で25騎の中の一人であった 野村太郎左衛門祐勝は、豊前時代に3000石の領地を与えられましたが、慶長2年(1597)36歳の若さで死去しその息子 野村隼人正祐直の墓 飯塚市鯰田晴雲寺の近くに 野村大学の墓 として土地の人からあがめられています。


当時の遠賀川は、福岡城や博多の町の整備の為、遠賀川上流の山林では大量の森林が伐採され 筑前領内の山々は禿山 となり少しの雨で 洪水 を発生し雨が降らねば 旱魃 を起こすようになり治水工事が必要となりました。 特に当時の遠賀川は直方下流は蛇行 して流れ また 遠賀川河口 は潮流の関係で 三里松原の砂丘 が形成され見るには白砂青松の美しさですか 住む者にとっては大変な存在でした。


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