筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                  中世 の 遠賀川  (7)


 中世の時代、 延暦13年(794) 桓武天皇は、平安京(京都) に都を移します

仏教は、延暦23年(804)に 遣唐使 を派遣し 最澄(伝教大師は、比叡山延暦寺)天台宗  空海(弘法大師は、高野山金剛峰寺)が真言宗 を伝えました。 しかし寛平6年(894)には、唐の国の衰退もあり 遣唐使も廃止 となりました。


中世(平安時代)に入り、律令制は仕組みが揺らぎ始め 全国に存在した貴族や大寺院・神社などの大規模な私有地の庄園が多くなり 国家財政の基本であった班田収受の制度も原則道理にはいかなくなります。

 天平15年(743)に 墾田永年私財法が公布 され、開墾や再開発の 土地の永代が認められるとますます大寺院・神社の所有の土地、庄園 が多くなり遠賀川流域では、九州最大の寺院大宰府の観世音寺が開発に乗り出し大きな力をも持 つことになります。


特に遠賀川の上流域には 碓井郷(嘉穂郡桂川町臼井) ・長尾庄(嘉穂郡桂川町長尾) ・高田庄(飯塚市高田 ) そして 犬鳴川には金生郷(鞍手郡若宮町) などは租税よりも次第に田地が重視され 庄園へと移 します。 


初期の庄園は観世音寺(東大寺) の庄園は碓井郷・長尾庄・高田庄 であったのですが、南北朝期を境にして 宇佐領庄園 、綱脇 ・椿 ・大分宮 ・菰田 ・忠隈 ・吉隈 ・加毛馬 ・漆生 山野 等に存在していた。  天満宮・安楽寺 の庄園は、土師 ・長尾があったが次第に観世音寺領に勢力 をのばしました。


文永11年(1274) には中国を統一し 元 としたフビライ・ハンは日本へ最初の 元寇 をさらに 弘安4年()1281) 2度目の 元の襲来で 九州の御家人たちの防衛と神風  の為 元軍は退却しましたが幕府は衰退し 正慶2年(1333)に鎌倉幕府 滅びることになります。


南北朝の時代 に入ると、足利尊氏が北朝を支持し、後醍醐天皇の南朝とが対立したのが 南北朝時代 で地方においてもそのいずれかに属して戦いましたが その当時では 遠賀川流域では北朝方・山田安国寺それに対し 南朝方が秋月氏・千手氏・菊池氏・阿蘇氏 と複雑に別れていました。 正平の年号は南朝方で使ったものですが 嘉麻市稲築平に残る石塔は 正平8年2月の年号があり南朝方であったことが推定できます。


文明10年(1478)大内政弘が筑前・豊前を支配 していましたが 天文20年(1551)大内義隆 が 家臣陶晴賢 の謀叛似合い大内氏は滅亡します。  この後 筑前の嘉穂・穂波(飯塚市・嘉麻市・桂川町)の 戦国時代である秋月氏と大友氏の 八木山石坂・潤野の戦い となるのですが 以前掲載の 竜王山東山麓の自然と歴史と観光シリーズ 八木山石坂・潤野の戦い(11) で説明済です、再度の閲覧をお願いいたします。



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                 次回は   近世の遠賀川 へ