筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                        古代の遠賀川 (6)


斉明天皇の時代、日本でも 中国の唐 を手本として 律令制の中央集権国家 が整い始めました。  しかし朝鮮半島では660年日本との友好国であった 百済 が 新羅と唐 の連合軍 により 白村江の戦いで敗北(663) し日本軍は百済の亡命者とともに朝鮮半島から引き上げることになります。


さらに国内においても 唐・新羅 に対する防衛の強化が必要になり 対馬・壱岐・大宰府付近に水城・ 大野・ 基肄に城(664)  防衛のための神籠石 (飯塚市頴田鹿毛馬の神籠石) は北九州・瀬戸内にかけて14ヶ所がありますが 山城説・牧場説 との説がありましたが百済からの帰化人が深く関わった 7世紀中ごろの古代山城説 が有力となっているとのことですます。


6世紀の終わりころには、日本最初の仏教寺院 飛鳥寺が奈良飛鳥に造られ と古墳の時代から寺院へと変化し全国へ広がります。   この遠賀川流域でも 7世紀末に 大分廃寺(飯塚市大分) 上伊田廃寺(田川伊田)建立 され、朝鮮半島の新羅系瓦などが使用された渡来人と深い関係のあつた寺院だと言われています。 

(大分廃寺については、筑豊風土記の竜王山東山麓の自然と歴史と観光の大分廃寺跡(3)で説明済みです。再度の閲覧をお願いいたします。)


田川郡香春 においては、朝鮮半島からの 帰化人による銅の採掘・精錬や機織り の技術を伝え。 香春神社に祭られる「辛国息長大姫大命」  「新羅の国の神、自ら渡り来て、この河原に住み着き」 と記されているように新羅系帰化集団の守護神だったことがよくわかります。


聖徳太子摂政(593)の時代になると、 遣隋使の派遣(607)・ 17条の憲法(604)・ 官位12階の制度(603) さらに 大化の改新(645) や 班田収受法 に伴う 戸籍簿の作成・ 平城京の建設 (710) とさらに 大宰府を結ぶ駅路の整備 がされこの筑豊にも 伏見駅(飯塚市高田付近)・ 綱脇駅(飯塚市庄内)・ 田河駅(田川市)・ 遠賀川流域に筑前国遠賀駅・  鞍手駅 の計5駅が置かれ 律令制の時代へ と発展していきます。


この時代に筑豊地区で忘れてはならないのが、「万葉集」の歌人 大伴旅人(大宰帥727から730) 山上憶良(筑前国の国司) などの人達が遠賀川の流域で生活し歌をうたを詠んでいる事です。 香春(香春町)・ 岡の湊(芦屋町) 憶良は、筑前の国内を巡視のため 嘉麻の郡家(嘉麻市稲築)の地で 「惑へる情を反さしむる歌」・「子等を思ふ歌」・「世間の住り難きを哀しむ歌」 の三首と 「貧窮問答の歌」 も貧困の民との の歌としてよく知られています。


   筑豊風土坊のブログ-鹿毛馬神籠石1    筑豊風土坊のブログ-鹿毛馬神籠石2
          鹿毛馬神籠石                     鹿毛馬の列石

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         上伊田廃寺説明版                     香春神社

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          嘉麻三首の碑                     香春岳葦ペン画

   


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