筑豊風土記 | 筑豊風土坊のブログ

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筑豊風土記 の名称は明治前期の石炭採掘より 筑前の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡と 豊前の田川郡の5郡の石炭組合の設立によって 筑前・豊前の頭字を取り 筑豊 の名称が使われました。 この 筑豊の歴史・生活を知って頂ければの 筑豊風土記 です。

 

                近世の遠賀川 その2    (9)


 遠賀川の原始・古代の流れは、はっきりとしていませんが、縄文時代においては直方天神橋付近・鞍手町付近まで古遠賀湾といわれる海が湾入 していたのは以前、遠賀川と縄文・弥生の時代(3) で すでに記しています。 豊臣秀吉が朝鮮出兵で 芦屋に船を集め渡海の準備した頃は 三熊ツ頭の上流猪熊(現在遠賀郡水巻町) あたりまで大船が自由に航行できたと言われています。

慶長5年(1600)、黒田長政が藩政の新田開発・治山治水についての重要検討した地区が 遠賀川大改修工事 と 堀川 の掘削でした。  慶長17年(1612)、延工事人数は約13万人  工事現場は、芦屋・垣生・奈良津・底井野・赤地・尾崎・兵丹  工事人は、御牧・鞍手・宗像・嘉麻・穂波の五郡の百姓で多くの農民 がこうした工事にかり出され営々と藩政を支えたと言われています。

下図の説明図参照 遠賀川の流れ図A--黒田長政筑前国入藩時(1600)、  図B--寛永5年(1628)に 図中のB-1(芦屋湾と洞海湾に注ぐ)、 図中のB-2(本流と猪熊村より芦屋湾へ)、  図中のB-3(荒水吐の排水路)、  図C--延享元年(1744)立屋敷村庄屋 入江喜太郎(喜太郎土手) による延享の治水の流れが記してあります。 (国土交通省九州地方整備局遠賀川工事事務所 竹下真治氏資料を使用させて頂きました。)


遠賀堀川 は、元和6年(1620)の洪水の被害を避けるため、黒田長政は自ら視察し 遠賀川本流東部 の諸村の灌漑の為に新しい運河、 遠賀堀川(一般的には、堀川) を開削する計画を立てました。

堀川は、中間から岩瀬・吉田を経て折尾にさらに洞海湾に流れる水路 を造る事により遠賀川の水が分流され水害の防止と途中の田畑の灌漑にも利用出来る予定で計画され 家老 栗山大膳 が命ぜられ、 元和7(1621)に掘り始められましたが2年後に長政の死去により工事は中止となりました。

その後も、幾度かの工事が再開されますが 宝暦5年(1755)車返しの切貫工事により4年後完成となります、 宝暦12年(1762)堀川の通水、宝暦13年(1763) 中間唐戸 の完成となりますが正常には使えず。 文化元年(1804)寿命の唐戸の完成で長政の堀川計画より、実に180年の経過で開通 となりました。 その後は、五平太舟での石炭運送で利用される時代もやってくるのですがこの舟輸送の時代もすぐに鉄道輸送に変わられてしまいます。 このお話は次回に 譲らせていただきます。


     筑豊風土坊のブログ-図A     筑豊風土坊のブログ-図B

           遠賀川の流れ 図 A                 遠賀川の流れ 図 B

      筑豊風土坊のブログ-図C     筑豊風土坊のブログ-堀川略図
          遠賀川の流れ 図 C                      堀川略図

    
筑豊風土坊のブログ-大膳堀      筑豊風土坊のブログ-大膳堀作業
           大膳堀作業1                     大膳堀作業2

    
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           寿命唐戸                       現在の寿命唐戸

   
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           現在の堀川                      五平太舟


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