遠賀川 と 縄文・弥生の時代 (3)
約2万年前 に私達の祖先は、中国大陸から ナウマンゾウ・オオツノジカの動物といっしょに遠賀川流域 にやってきました。 この時代には、まだ土器が使用されおらず、先土器時代 と呼ばれ八幡区辻田遺跡・若松区椎木山遺跡・八幡西区紅梅A遺跡・茶屋原跡・鞍手郡若宮の汐井掛遺跡など 低い丘の上での生活 がおこなわれていました。
上流域では田川市の寺の上遺跡・猫迫1号墳、香春町の湯無田遺跡などからも細石刃 が発見されて 飯塚市立岩遺跡では刃先を磨いた石包丁・石斧 が発見されています。
約12000年前ころ、網目の文様で飾られた縄文式土器時代 となり 山野では鹿・猪・鳥などの動物を 浜辺では貝・魚 をとり貝塚もつくられました。 自然の食料を求めて移動の時代から 定住の時代 となりました。
約5000から6000年前 になると海水面が現在より3から5m上がる 「海進」 の時期に入り、遠賀川下流域は 古遠賀湾 と呼ばれる複雑な海岸線と浅い湾となりました。
直方市下新入天神橋貝塚・中間市・鞍手町・水巻町・遠賀町・岡垣町・芦屋町の 現在の水田部は、当時は海 で 北九州市若松区は島 だったといわれています。
直方市植木の光田貝塚・北九州市八幡西区の楠橋は、古遠賀湾の東側にあり貝殻塚でヤマトシジミと縄文式土器が発見されています。
新延貝塚は鞍手町新延にあり 古遠賀湾の最も西奥 で 約7000年から約3000年 の間に作られた貝塚でヤマトシジミ・ 鹿・猪の骨・クロダイ・スズキ・骨製のヤス・釣針・石銛も発掘 されています。 その他にも鞍手郡木月の木月貝塚・芦屋町大字山鹿の山鹿貝塚・夏井ケ浜貝塚・北九州市八幡西区黒崎貝塚など多くの 古洞海湾に面した貝塚も発見 されています。
約5000年前から遠賀川流域 の芦屋町山鹿貝塚・鞍手町新延貝塚・飯塚市鯰田遠賀川河床・彦山川上流の添田町ズイベガ原遺跡では一般的な縄文土器ではない 櫛目文 という、朝鮮半島の櫛目紋土器 の技法が 海を渡り物々交換などの交流 により生まれた土器といわれています。 九州と韓国の漁労文化は この時代に朝鮮半島と西北九州の海峡を挟んでの交流 が行われたそうです。
中間市の垣生遺跡・直方市の天神橋遺跡・飯塚市の目尾遺跡・鯰田遺跡・川島殿ヶ浦遺跡においては 遠賀川の川底から埋もれた 土器や石器が多く発見されています。
鯰田遺跡は、約6000年前の曽畑式土器は朝鮮半島の櫛目土器 と川島殿ヶ浦遺跡は約4000年前に瀬戸内海方面の土器 と近くの場所でありますが時代により 朝鮮半島と瀬戸内海の縄文文化が交流 がわかるそうです。
遠賀川上流にある台地上では 2400から2500年前 になると、中国大陸から朝鮮半島を経て稲・麦・アワなどの穀物を作る新しい文化も伝わり 大変豊かな生活の時代 になりました。
石器・縄文時代の遺跡 弥生時代の遺跡
立岩遺跡付近地図 人骨とかめかん
石包丁 日有喜鏡
殿浦遺跡付近 殿浦付近葦ペン画
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