
赤川次郎作『セーラー服と機関銃』読了。
36年ぶりに「続編」が映画化されるということで、話題になっているこの小説。それを記念して出された「3」を読んで、そういえば第一作を僕は読んでいなかったのではないかと思い付き、本屋に平積みしてある文庫本を買って読んだ。そして、驚き、次に納得した。
『セーラー服と機関銃』といえば、誰もが思い浮かべるのが薬師丸ひろ子さんの映画である。この映画をリアルタイムで見たことにある50代以上の人はもちろん、それより若い世代でも主題歌の「夢の途中」を歌っている薬師丸さんを見たことがあるだろうし、そこからDVDなどで映画を見た人も多いのではないか。あの映画は確かに映画として面白い。監督である相米慎二氏は10代の男女を取らせたら天才的に上手い人だが、この映画でも彼の力は充分に発揮されている。その彼の力によって、「女子高生が弱小ヤクザの組長になり、ヘロインをめぐって大立ち回りをして、最後には機関銃をぶっ放す」というとんでもないストーリーは、実に爽やかな『青春映画』『アイドル映画』に生まれ変わった。そして、主演の薬師丸ひろ子さんはあの甲高い声と年齢相応の初々しい演技で監督の意図によく応えている。彼女の「アイドル」としての映画は角川から何本も作られたが、これが最高傑作だといってもあまり反対する人はいないだろう。
だが、あの映画の世界は、あくまでも「相米監督の世界」である。それは赤川次郎の世界とは相当に異なる。そして、その落差は赤川次郎という作家の他の小説を多数読み、かなりの程度赤川さんという作家の「本当の姿」を知っている僕にしてさえも驚くほどのものだった。
僕は赤川次郎という人は「冷酷・非情」の人だと思っている。最近NHKのBSで「サイコパス」についての「白熱教室」が放映されていたが、赤川さんという人は、その「講義」で言われていた「暴力性のないサイコパス」か、さもなくば自らの内にひそむ「暴力性」を「小説」というものに吐き出すことで、人格の均衡を保っているのではないか、とさえ思っている。
なぜそう思うか。赤川さんは実に簡単に「人を殺す」からである(もちろん、作品の中でですが)。また、主人公たちに実に過酷な試練を強いるからである。その「殺し方」は実に論理必然的でぶれがない。ヒーローやヒロインに匹敵するくらい存在感があって、魅力的なキャラクターだが、話の筋からいうとどうもこの人は無事では済まないな、と思う人はまず間違いなく「殺される」。読者が、あるいはまたおそらくは編集者も「このひとは殺さないで」と懇願したくなるような人も、ストーリーの持つ流れや赤川さんがあらかじめ立てているプロット上での必然があれば、有無を言わさず「殺される」。あるいはまた、論理的に考えると「真犯人」と思えるが、そうだとすると、それは主人公に対するひどい裏切りになるような時でも、プロットがそうなら、その人物は裏切る。どんな作品でもそれはほぼまちがいない。
36年ぶりに「続編」が映画化されるということで、話題になっているこの小説。それを記念して出された「3」を読んで、そういえば第一作を僕は読んでいなかったのではないかと思い付き、本屋に平積みしてある文庫本を買って読んだ。そして、驚き、次に納得した。
『セーラー服と機関銃』といえば、誰もが思い浮かべるのが薬師丸ひろ子さんの映画である。この映画をリアルタイムで見たことにある50代以上の人はもちろん、それより若い世代でも主題歌の「夢の途中」を歌っている薬師丸さんを見たことがあるだろうし、そこからDVDなどで映画を見た人も多いのではないか。あの映画は確かに映画として面白い。監督である相米慎二氏は10代の男女を取らせたら天才的に上手い人だが、この映画でも彼の力は充分に発揮されている。その彼の力によって、「女子高生が弱小ヤクザの組長になり、ヘロインをめぐって大立ち回りをして、最後には機関銃をぶっ放す」というとんでもないストーリーは、実に爽やかな『青春映画』『アイドル映画』に生まれ変わった。そして、主演の薬師丸ひろ子さんはあの甲高い声と年齢相応の初々しい演技で監督の意図によく応えている。彼女の「アイドル」としての映画は角川から何本も作られたが、これが最高傑作だといってもあまり反対する人はいないだろう。
だが、あの映画の世界は、あくまでも「相米監督の世界」である。それは赤川次郎の世界とは相当に異なる。そして、その落差は赤川次郎という作家の他の小説を多数読み、かなりの程度赤川さんという作家の「本当の姿」を知っている僕にしてさえも驚くほどのものだった。
僕は赤川次郎という人は「冷酷・非情」の人だと思っている。最近NHKのBSで「サイコパス」についての「白熱教室」が放映されていたが、赤川さんという人は、その「講義」で言われていた「暴力性のないサイコパス」か、さもなくば自らの内にひそむ「暴力性」を「小説」というものに吐き出すことで、人格の均衡を保っているのではないか、とさえ思っている。
なぜそう思うか。赤川さんは実に簡単に「人を殺す」からである(もちろん、作品の中でですが)。また、主人公たちに実に過酷な試練を強いるからである。その「殺し方」は実に論理必然的でぶれがない。ヒーローやヒロインに匹敵するくらい存在感があって、魅力的なキャラクターだが、話の筋からいうとどうもこの人は無事では済まないな、と思う人はまず間違いなく「殺される」。読者が、あるいはまたおそらくは編集者も「このひとは殺さないで」と懇願したくなるような人も、ストーリーの持つ流れや赤川さんがあらかじめ立てているプロット上での必然があれば、有無を言わさず「殺される」。あるいはまた、論理的に考えると「真犯人」と思えるが、そうだとすると、それは主人公に対するひどい裏切りになるような時でも、プロットがそうなら、その人物は裏切る。どんな作品でもそれはほぼまちがいない。
赤川さんといえばこの『セーラー服~』や『三毛猫ホームズ』シリーズなどが有名であるし、なんとなくイメージが少年少女向きの「明朗闊達な推理小説」の書き手だと思われているが、それ大きな間違いである。彼は日本の推理小説家の中でももっとも冷酷な人であり、よくよく考えると実に残酷な「連続殺事件」ばかり書いている人なのである。
この『セーラー服~』にもそういう赤川さんの「サイコパス性」は如何なく発揮されている。なにしろ、物語の冒頭であっというまに数人の人間が死んでいくのである。そのうち一人はヒロインの父親だ。しかもご承知の通り主人公である「星泉」が組長となった「目高組」の組員は全員死んでしまう。それも多くはひどい死に方である。最近では推理小説が犯罪を誘発するとかいう馬鹿げた言論がまかり通っている影響で、「人の死なない推理小説」なんていうものが流行っているが、それからすると赤川さんの世界は真逆もいいところだ。
その上、主人公である女子高生「星泉」に課せられる「試練」というか「危機」の度合いはちょっと度が過ぎている。物語のクライマックス、黒幕である「ふとっちょ」のアジトに囚われた星泉は、ヘロインのありかを白状させられるためにいろいろと「拷問される」のだが、最後にはなんと「全裸にされて手術台に縛りつけられて」しまうのである。そのまま「生体解剖」されてしまうという「危機一髪」のときに目高組の面々に救出されるのである。これには僕も驚いた。薬師丸さんは映画の前にこの原作を読んで「主演」を「志願」したそうだが、それは絶対に嘘だろう。
この『セーラー服~』にもそういう赤川さんの「サイコパス性」は如何なく発揮されている。なにしろ、物語の冒頭であっというまに数人の人間が死んでいくのである。そのうち一人はヒロインの父親だ。しかもご承知の通り主人公である「星泉」が組長となった「目高組」の組員は全員死んでしまう。それも多くはひどい死に方である。最近では推理小説が犯罪を誘発するとかいう馬鹿げた言論がまかり通っている影響で、「人の死なない推理小説」なんていうものが流行っているが、それからすると赤川さんの世界は真逆もいいところだ。
その上、主人公である女子高生「星泉」に課せられる「試練」というか「危機」の度合いはちょっと度が過ぎている。物語のクライマックス、黒幕である「ふとっちょ」のアジトに囚われた星泉は、ヘロインのありかを白状させられるためにいろいろと「拷問される」のだが、最後にはなんと「全裸にされて手術台に縛りつけられて」しまうのである。そのまま「生体解剖」されてしまうという「危機一髪」のときに目高組の面々に救出されるのである。これには僕も驚いた。薬師丸さんは映画の前にこの原作を読んで「主演」を「志願」したそうだが、それは絶対に嘘だろう。
にもかかわらず、赤川さんの作品がコミカルで「軽い」、まるで「ジュニア小説」のように扱われることがあるのはなぜか。
それは、赤川さんの小説の登場人物たちが自分の「感情」に重きを置かないからである。赤川さんの小説に出てくるキャラクターはやはり作家の分身であり、「論理性」と「合理性」を重んじ、それを貫くためには余計な「感情」を排除する。感情に流されず、状況を実に的確に判断し、実行する。そこには「迷い」がない。「ハードボイルド」そのものである。
その「感情の負荷」の「少なさ」が、まるで「漫画の主人公」のようなリアリティの喪失を生んでいる。それが軽妙な文体と相まって、「軽い」印象を与えるのだと思う。この小説のヒロイン「星泉」もまた、17歳の女子高生には普通できないような「合理的判断」を次々とやってのける。生死を分けるようなとんでもない状況でも、作者の感情描写は実に淡白である。喩えていえば彼女がデザートに何を食べようか選ぶシーンと、どうしたら殺されずに危地を脱することができるかを選ぶシーンで、感情描写の重みが等価なのだ。それは、作者にとってそれくらい「人の生き死に」の比重が「軽い」からである。この軽さはある意味「異常」である。
それは、赤川さんの小説の登場人物たちが自分の「感情」に重きを置かないからである。赤川さんの小説に出てくるキャラクターはやはり作家の分身であり、「論理性」と「合理性」を重んじ、それを貫くためには余計な「感情」を排除する。感情に流されず、状況を実に的確に判断し、実行する。そこには「迷い」がない。「ハードボイルド」そのものである。
その「感情の負荷」の「少なさ」が、まるで「漫画の主人公」のようなリアリティの喪失を生んでいる。それが軽妙な文体と相まって、「軽い」印象を与えるのだと思う。この小説のヒロイン「星泉」もまた、17歳の女子高生には普通できないような「合理的判断」を次々とやってのける。生死を分けるようなとんでもない状況でも、作者の感情描写は実に淡白である。喩えていえば彼女がデザートに何を食べようか選ぶシーンと、どうしたら殺されずに危地を脱することができるかを選ぶシーンで、感情描写の重みが等価なのだ。それは、作者にとってそれくらい「人の生き死に」の比重が「軽い」からである。この軽さはある意味「異常」である。
これに比べれば大沢存昌や東野圭吾の人物描写なんて全然「甘い」。というか「湿度が高い」。『新宿鮫』の「鮫島」は事件という「悲劇」にいつもどこかで「泣いている」。また「論理必然性の鬼」として登場する「ガリレオ」こと湯川教授は、犯罪を暴きながら、どこかでその担い手を「赦す」。当代きっての「推理小説のヒーロー」は、みな感情豊かであり、犯罪者もまたそうである。「推理劇」の中心は「謎」というよりも「動機」にあり、「どうしてその犯罪は行われたのか」を探究するところにポイントは置かれる。それがドラマにつながっている。
だから彼らヒーローは迷い、苦しみ、そののちに決断する。その姿は「合理性」という面からする限り「星泉」の足元にも及ばない。だが、役柄的にいえば、鮫島や湯川は、若さゆえに「人の生き死に」を軽く考え、聡明で勇敢だが、時に嬉々として死地に赴こうとする「星泉」を「お嬢さん、命を粗末にするんじゃない」と諭す「大人」なのである。つまり、「赤川キャラ」の「軽さ」は「少年少女」がもつ「精神の未成熟」と重なっている。だから、赤川作品は『青春小説』にみえるのだろう。
振り返ってみれば日本の推理小説の元祖ともいうべき江戸川乱歩もまた常に「精神の幼児性」を抱えた人だった。彼は多数の推理小説の他にそれに匹敵する量の「猟奇小説」「怪奇小説」を書いた。乱歩の「怪奇・猟奇小説」の主人公たちはみな「知情意」の均衡が崩れている。「感情」が未発達で、自らの欲望の「反社会性」を認識せず、それが人にどんな影響を与えるのかを想像できない。そのくせ「知力」と「意志力」はある。その不均衡が「猟奇的事件」を起こすのだ。『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『パノラマ島奇談』などはその典型である。
戦後発表され、乱歩の名をポピュラーにした「少年探偵団」シリーズは、こうした「感情の幼児性」を基盤とした「怪奇・猟奇小説」と表裏一体のものである。名探偵明智小五郎と共に活躍する小林少年の「スーパー少年」ぶりは痛快だが、その「命知らず」なところ、そして「少年という身体性」を武器に二十面相と闘うシーンはどこか赤川次郎のヒロインに、たとえば「星泉」に似ている。二人には、自分自身を含めた人間の「命の重さ」への実感がどこか欠損している。そのくせ、自らの「身体性」が「大人たち」に対してある種の「武器」であることを知っている。そういう「恐るべき子供たち」を造形できるという意味でも、赤川次郎さんは本当は乱歩的猟奇性の継承者であり、決して『青春小説』の書き手ではない。それはとんでもない勘違いのように僕には思える。
戦後発表され、乱歩の名をポピュラーにした「少年探偵団」シリーズは、こうした「感情の幼児性」を基盤とした「怪奇・猟奇小説」と表裏一体のものである。名探偵明智小五郎と共に活躍する小林少年の「スーパー少年」ぶりは痛快だが、その「命知らず」なところ、そして「少年という身体性」を武器に二十面相と闘うシーンはどこか赤川次郎のヒロインに、たとえば「星泉」に似ている。二人には、自分自身を含めた人間の「命の重さ」への実感がどこか欠損している。そのくせ、自らの「身体性」が「大人たち」に対してある種の「武器」であることを知っている。そういう「恐るべき子供たち」を造形できるという意味でも、赤川次郎さんは本当は乱歩的猟奇性の継承者であり、決して『青春小説』の書き手ではない。それはとんでもない勘違いのように僕には思える。
ということで、本当はこの三人の誰にも似ていないのが「星泉」なのだが、殺伐として話を少し和らげるために、写真をのっけます。しかし、長澤まさみはおっかないな。

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