先週末、本棚の整理をして、読み終わった文庫本やもはや聞かないであろうCDなどを大量にブックオフに持っていった。だから、というわけではないのだけれど、そのあと、久しぶりに漫画=単行本をいくつか買ってまとめ読みをした。
星野之宣の「宗像教授伝奇考」と続編の「異考碌」、森薫の「乙嫁語り」、それに佐山哲郎原作高橋千鶴絵の「コクリコ坂から」です。(あ、そういえばその前に●●●●の「○○と○○○」も買ったな)
星野之宣は知っている人も多いはず。現代日本漫画界でSFを描かせたらこの人の右に出るものはまずいないといわれる巨匠。その巨匠が想像力の源泉を歴史に求めたシリーズが「宗像教授~」物である。デビュー作の「ブルーシティー」の印象は強烈だったなあ。個人的には奇っ怪な宇宙生物を生け捕りにするのが仕事の「べムハンターソード」が好きだったけれど。
森薫さんの「乙嫁語り」は偶然書店で見つけ、想定の美しさと"19世紀の中央アジアで、12歳の少年に嫁いだ八つ年上のお嫁さん"という設定に惹かれて買った。(「○○と○○○」もだな……)
この二つの作品についてもいろいろあるけれど、今日は時流に載って「コクリコ坂から」から。
この話をジブリが取り上げようと思った理由は、読み始めてすぐにわかった。少女漫画であるから主人公の海ちゃんはじめ、重要なキャラクターはみんな女性なのだが、それぞれがそのまんま「ジブリアニメのキャラ」なのである。
船乗りのお父さんが消息不明でお母さんはカメラマンとしてアメリカで仕事中という主人公は弟妹との三人兄弟の一番上でしっかりもののお姉さん。高校の勉強はもちろん、家事や下宿人の世話もしっかりこなし、ちゃんと恋もするという「いかにも」な女性。そのお母さんは美人で才能もあるがかなり「天然」が入った乙女チックな人、それゆえにいまだに街の男たち(といってももう60近い、いいオジサンたちだが)の憧れの的。極めつけは主人公やその恋人になる男の子が通う高校の先輩であり、女子大生でアルバイトに芸者をやっているという「金太ねえさん」。この金太ねえさん、麻雀で現役高校生をカモにしたり、酒を飲ませたりという豪傑で、あるとき学校にオープンカーで乗りつけたりする。
「崖の上のポニョ」のお母さん、「紅の豚」のジーナ(だっけ、あのヒロイン)、ナウシカ、ラピュタのシータ、「トトロ」のさつきちゃん、etcetcによく似ている。
で、気がついたのは、ジブリアニメというか宮崎駿のお話には「父の不在」あるいは「父権の喪失」という設定が非常に多いということ。ナウシカの父はトルメキアの侵攻時に殺されており、シータとパズーには両親がいない。サツキとメイのお父さんは都心の大学に行っていて不在が多く、メイちゃんの迷子という物語中の最大事件の時にもまったく登場せず、一件落着の後お母さんと診療所で語り合っているだけ。宗介くんのお父さんも船乗りだからほとんど家には帰ってこない。「千と千尋~」のお父さんはお母さんと一緒に豚になっちゃうし。
父がいない、あるいはいても不在が多くて頼ることができない、そんな中で自立してたくましく生きるヒロイン、あるいは「父親代わり」をせざるを得なくて「強くなった母」(その母に育てられた少年)がジブリのキャラクターの中心なのである。
昔、雑誌『ユリイカ』でジブリ特集が組まれた時、宮崎アニメの世界には「少年少女」があくまで中心でおとなの女性は「母」や「婆」が出てくるのみで、「女」が登場しない、という指摘があった。そのときには「なるほど」と思ったりもしたが、性的に成熟した「おとなの女性」が登場しないのは実はジブリ作品に限らない、日本のアニメの特徴の一つである。「宇宙戦艦ヤマト」にせよ「エヴァンゲリオン」にしろヒロインはいるが、決して「おとなの女性」ではない。(だから、未だにこの手のキャラクターとして人気があるのは『ルパンⅢ世』の峰不二子だったりする)だが、他のアニメにはほぼ必ずといって「父」、あるいは父的存在が目立つ。ヤマトの艦長とか「エヴァ」の碇ゲンドウの存在感は主人公をしのぐ。
思うに、こういう「父親喪失感」というのは、宮崎駿さんたちのある種の「世代感覚」ではないか、ということ。
宮崎さんたちの父親世代は「団塊世代の父」よりももう少し年上であり、戦後の価値転換の中で、いわば自分たちの「権威性」を一度完全に否定された世代である。いくら戦前から戦中に苦労してきたことを語ろうともその「権威」は戦前のそれとは比較にならないほど低下している。それでも「父親」たらんとしていたら、それはそれは子供たちにとってはうっとうしい存在だったろう。しかも世の中はどんどんそういう「戦前的なもの」から離れていこうとしているのである。そうした「父」あるいは「父権」へのネガティブイメージの広がりが、「父親はいなくてもいい」⇒「父親がいない方が子供は自由闊達に自立して育つ」という価値観、あるいは父親とは「外で働いてお金を稼いでいるのが仕事であり、家庭とは母親と子供が営むもの」という、「戦後的核家族の中の父親像」を作り出していったのではなかろうか。
ジブリのアニメにはそんな戦後社会のありようが非常に色濃く投影されているように思う。おとなの女性という点でいけば、特徴的なのは「母」よりもむしろ「婆」というか、「老女」のもつ重要性である。経験と知恵を持ち、若者に過去の教訓と未来への道を教えるのは、ジブリアニメでは「老女」の役割である。そのあたりになると、経験的なものではないものが入っているようにも思うけれども。
ただ、父性の希薄な作品を作る宮崎さんがいまや「厳父」のイメージを強烈に放ちながら存在感を増しているのは、なんか皮肉な気もする。蛇足ですが。