#524 (gootama 40) 金原明善の業績 | コトバあれこれ

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子ども作文教室、子ども国語教育学会の関係者による
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  昨年の大河ドラマの「どうする家康」は、先月にその一生を終えましたね。彼の先人である二人の英雄に比べて、その人柄の違いがよく描かれていたと思います。この話の縁もあって、昨年5月に熱田神宮のある宮宿から桶狭間、岡崎を経て、御油宿まで歩きました。続けて、11月に豊橋の二川宿から掛川宿まで旧東海道を歩きました。これは、家康が東進した道筋でもあります。”歩いた”といっても、体力が落ちている年齢だし、お仲間もいるので、途中鉄道やバスを利用してショートカットもしました。

 

 この後半の旅の中で初めて知り、大きな感銘を受けた金原明善という人の業績をお話しいと思います。この人は、天竜川にほど近い浜松市安間町というところで、造り酒屋の子として天保年間(1832年)に生まれ育った人です。当時から、度重なる洪水被害に苦しめられたところで、成人すると私財をなげうって”暴れ天竜”の治水事業に挑戦しました。天竜川から1Kmくらいのところに、建築後約200年を経た金原明善生家が資料館を兼ねて残されています。無料で公開されており、当時の地籍図、工事図や工具類、関連書籍などが保存されていました。

  天竜川は、諏訪湖に端を発して、伊那谷を通り、南アルプスと中央アルプスの山々からの水を集めて、遠州灘まで 213Kmを流れ下っています。途中には、戦後に作られた佐久間ダム(多目的ダム)もありますね。「恵みをもたらす母なる天竜」と言われる一方、「暴れ天竜」とも言われて、昔から洪水の被害が頻発していました。家康が岡崎から東進して遠江に進出する拠点として見附(今の磐田市)に城を築こうとした折、天竜川が氾濫したら退路を断たれるという恐れからやめるように意見されて、浜松を拠点にしたという話も伝わっています。

 

 明治元年の堤防決壊による大被害を機に、洪水対策のための事業を立案・実行に邁進しました。明治新政府の財政基盤がまだ確立されていない中、私財を投じて新堤防や川線変更の開削などを行ったのです。彼は、災害克服のためには長い年月と住民の協力が必要であると訴え、諏訪湖から河口までの流域の基礎調査や測量も地道に行いました。特に、彼が目をそそいだのは、森林の重要性でした。木材の伐採で山々の荒廃が進んでいたのです。荒廃した民有林を次々買取り、植林を行ったのです。雑草を刈って人工林を育てるのには多大な労力と時間を必要とします。その時、立ったまま雑草や小枝を刈れる長手の鎌(“金原鎌”と言われる)も考えだして、効率をあげたといいます。55歳から92歳の半生かけてこの植林事業に取り組みました。歳を取って歩けなくなった後は、駕籠を担がせて山林を見回ったそうです。今もこの森林の荒廃、消失は、世界中で深刻な問題になっています。治山・治水は言うに及ばず、森林は地球環境の要です。この他に、彼は刑を終えた人々の救済活動にも携わったそうです。

 

 その後も天竜川の洪水はやむことなく、堤防決壊による被害が続いています。昭和20年10月には、堤防に掘られた防空壕から決壊して、浜松市南部に未曾有の被害を与えたという悲劇もあったそうです。昭和57年、58年にも洪水が起こり、これからも異常気象による豪雨も心配されます。治山・治水活動はやむことがありません。

  それにしても、明治の時代、身命を投げ打って地域のために働いた人がいたのですね。稲むらの火で人々を救い、私財で津波対策の堤防を築いた和歌山の浜口儀兵衛の話も思い出します。今もどこかに、まだこういう方がいらっしゃるのでしょうか?

                                                                                       以上

  出典:

       ① 『天竜川物語』 浜松河川国道事務所 (2018年10月)

     ② 『天竜川 大洪水の記憶』 国交省 中部地方整備局 浜松河川国道事務所
                   (昭和20年10月の洪水記録)

    ③  「金原明善翁生家のパンフレット」