道徳のないメンタリストDaiGo ―批判と赦(ゆる)し― | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

「純粋メンタリストDaiGo批判」

道徳のないメンタリストDaiGo  ―批判と赦(ゆる)し―

 


 カリスマユーチューバーであるメンタリストDaiGoの言い放った言葉。
 

 「ホームレスの命はどうでもいい。

 映画「この男、凶暴につき。」のオープニングで、ホームレスを袋叩きにする中学生のグループを思い出した。

 刑事役で監督のビートたけしは、主犯の少年の家に乗り込んで、白(しら)を切る少年に激しい暴力を振るっている。
 しかし、大昔の心ない中学生が今、人気絶頂のカリスマ・メンタリストとして、出版界やバカな若者たちによってあがめられている。

 無思想、無哲学、非道徳極まりない。

 そして、メンタリストDaiGoが心理学のスペシャリストであるから、「心理学が全く大したことがないこと」がここに証明されたのである―。
 
 確かに心理学は、医学と同じく科学的で外部観察的な学だが、普遍的な真理というものではなく、あくまで、「そりゃ、そうだよね」というような感想しか出てこない夢占い的な、事後的なものであり、哲学的な道徳・倫理を排除して、心理学一辺倒である今の日本が、児童虐待の激増やいじめ自殺、あおり運転など、悪くなり放題であるように「社会衰退を克服する力なんてない」。

 

「…一見自発的に望まれたかに見える能力ですら、じつは社会が促して、はじめて個人が求めるのであり、個人は社会が命ずるがままにこれを求めるのである。

 以上述べたところによってみても、教育学者にとって、心理学だけに頼る方法がいかに不充分なものであるかが、理解されよう。」(社会学者 デュルケイム著 「道徳教育論」講談社)


 また、道徳そのものに否定的なホリエモンや立花孝志氏が、メンタリストDaiGoに対する批判そのものを封じ込めるような論調で擁護に回っているが、全く説得力がない。むしろ、こういった道徳クソくらえ的な、他者を配慮しない人たちが力を付けてきたからこそ、道徳の必要性を知らないメンタリストDaiGoみたいな、若いインフルエンサーが出てきたことも否めないためだ。

 逆に言うなら、美輪明宏さんが「人生哲学を学んでみては」と言うように、大半の日本人が苦手だからと言って、いくら心理学に詳しくなっても、社会性と直結する人生哲学や道徳を避けて通ることなんてできない。

 

   


 メンタリストDaiGo本人やN党の立花さんのように彼を信じて心理学を勉強してきた人たちには、道徳倫理という、すべての人間が歩まねばならない、非常に長い道のりが残されている―。

 人生にはメンタリストDaiGoが指し示すような簡単な答えや近道などない。
 むしろこのような無知から来る優生思想は、植松 聖(さとし)死刑囚と同じく、完全な逆走である。

 また、メンタリストDaiGoと親しいひろゆきは、「不潔なホームレスが、あなたの家の前にいられたら嫌でしょう」と言って、暗に「誰もメンタリストDaiGoを批判する資格がない」という主旨の発言をして、多くの若い人たちをたぶらかしているが、完全に彼特有の詭弁(きべん)かつ、論理のすり替えであり、なぜなら、たとえば豪雨災害は、誰も自分の家には起きて欲しくはないが、一方で、豪雨災害の被災者は必ず救済されるべきであると誰もが思っているから―。

 

 このように貧しい者に対する姿勢が、「不潔で臭い」とするひろゆきなど、日本であがめられているインフルエンサーと宗教倫理とでは、全く違う。

 
 ネットやテレビで支配的な彼らにとっては「お金を持っている人がすべて」なのかもしれない。

 だが、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい、余分の食べ物を持っている者も同様にしなさい」(ルカ三・11)など、貧しい人に救いの手を差し延べる全宗教の道徳を真っ向から否定することになる。

 逆に天国に行くのは何も所有、占有しないホームレスの側なのである。
 「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしい」(マタイ一九・23)

 逆にこうした人たちは、多くの日本人の富を収奪する竹中平蔵が天国に行けると本気で思っているのか?

 また、私はこの話題について、以下のようにツイートした。

 「私はホームレスに遭遇する時、申し訳ないという気持ちがある。
 なぜなら日本の金持ちの多くは生まれた環境で決まる。
 A生太郎など、ボンボンがすべて優れているとは限らない。」

 

 逆に生まれながらにして東京23区に土地とビルを持っていて家賃収入のある大金持ちや、A生太郎さんのようなボンボンの世襲政治家がホームレスになることは物理的にできない。

 

 この国では、生まれた環境で、その人の人生が大きく左右される。

 

 たとえば、電通の高橋まつりさんが若くして過労自殺されたが、これが一流企業の御曹司なら、たとえ同じ電通の社員でも、生まれ持ったコネだけで広告の仕事を取れるので、ほとんど働かなくていいのである。

 逆に麻生太郎が、自分一人の力だけで、生まれた時の恵まれた環境を一挙に手に入れるわけではない。

 また、本人の努力以外に、宗教倫理のような救いのないこの国では、運不運や社会情勢も大きく左右する。


 宗教倫理のない世俗の大半の日本人も、いい加減、マスコミが礼賛するような外部観察や、1億分の1のヒューマニズムでしかない心理学ブームや自己啓発ブーム(HリエモンやHろゆきの本など)から目覚めてほしい。
 

 マスコミが決して受け入れない哲学や道徳とは、「1+1=2」のように理論的で簡単なものだ。

 だが、日本のネットや書店では目の付くような所には売られていない。
 

 もし哲学や道徳に興味があるなら、反日、売国と化したマスコミから完全に意図的に迫害されている私の元に来ることだ。

 また、私は自民党の政治家や、道徳を全否定する田原総一朗、竹中平蔵、メディアの似非(えせ)知識人を軽蔑することはあっても、メンタリストDaiGoのようにホームレスを軽蔑したことは一度もない。

 つまり私は、「ホームレス」と聞くと、街中でキャンプをしている人や無人島に住んでいる人をイメージして、また、「道徳のない人たち」から成る日本の人間関係から逃れたり、定時に会社などの勤務場所へ通うことが苦手で、「ノマド」という遊牧民的な自由な生き方を志向する人がいてもおかしくないのである。

 無論、意図的ではなく、経済的に困窮している人がホームレスの大多数であって、そもそもが選挙の人気取りのために、早い段階でコロナ対策に2兆円を支出したが、結果的に飲食に対するそれらの協力金は、家賃、賃料として、23区に土地とビルを持つ大金持ちだけに行ってしまっているのであって、貧富の格差を拡大させつつ、東京都の潤沢な財政を枯渇(こかつ)させた小池百合子が、しっかりとホームレス対策を行うべきなのである。

 子育てや教育、介護などもそうだが、「人間を生かすことが人間の使命に他ならない」。

 そんなことすら、あなたがたが尊敬する心理学のスペシャリスト、メンタリストDaiGoはわかっていないのである。
 

 そして残念ながら、こういう人たちは日本中にいる。

 高齢者相手に特殊詐欺を働くヤカラである。

 また、彼は福祉国家である日本の成り立ちも全く理解していない。

 

 「幕末から維新の大きな変動のなかで、多数の生活困窮者が発生した。

 これに対して新政府は、恤救(じゅっきゅう)規則を制定して救済にあたった。」

  (松本保美編 「理解しやすい政治・経済」 文英堂)

 

 「恤救」の「じゅっ」とは、「あわれみ」であり、つまり、「社会契約論」で有名なルソーの言う「憐(あわ)れみ」の道徳と同じなのである。

 つまり「あわれみ」の道徳から成る恤救(じゅっきゅう)規則によって、日本はホームレスを救うことから始まり、世界に名だたる社会保障の歩みを進めてきたのである。

 そして、今話題の渋沢栄一も道徳を重視して、生活困窮者を救済するために養育院を設立して、人助けに生涯を捧げたのである―。

  

 よってメンタリストDaiGoの失言は、日本の社会福祉の歴史と精神を踏みにじるものなのである。

 


 メンタリストDaiGoは「ホームレスの命は猫の命よりも軽いし、どうでもいい」という主旨の発言をしているから、率直に言って人類の敵である。
 なぜなら、コロナ禍とデフレ不況で、かつ全く道徳のない今の時代、誰がホームレスになってもおかしくない。
 それくらい飲食、小売、酒類販売、ライブハウスなど、不振の業種があって、格差が拡大している。

 つまり、「メンタリストDaiGoは猫と一緒に無人島に住め」と言われても文句は言えないのである。

 ここでメンタリストDaiGoに対して、一つだけ大ヘーゲルの哲学的な真理を示したい。

 「思いあがった個は社会によって襲撃され没落する」
 ( 放送大学 「ヘーゲルを読む」  高山守(東京大学教授・日本哲学会会長。当時)  )


 また、ヘーゲルは、「個は社会的なものの下にしつけられなければならない」と言っている。

 

「意識において自らの個性は、それ自体正しく善きものである普遍的なもののもとにしつけられるべきである。

…そして真のしつけとはもっぱら、個人的な性格のすべてを犠牲にするということである。

 つまりそれは、意識が実際もはや個々のものに囚われたままではないということを証示することなのである。

 徳の意識にとっては、…個人は廃棄されるべきものである。

 つまりこのことは、個人の意識そのものに関しても、また、世の流れに関しても、当てはまるべきなのである。」

 (放送大学 高山守 第11回「精神現象学」を読む III)


 北野武さんは、「ネット・SNSはバカのための拡声器」と言ったが、日本ではバカじゃなきゃテレビにも出れないし、有名になれないし、本も出せない。
 新聞社や出版界が推しているのは、私から見て、「全く何も知らない人たちの商業的な何か」でしかない。

 だから、無名な私のブログに来て下さっている方々は、非常に有意義であると確信する。
 

 私は20年前の若い頃に、心ない発言をして、当時は全く批判されなかった小山田圭吾や小林賢太郎が、今になってマスコミから叩かれて、謝罪も受け入れられず、IOCから一方的に排除されることは行き過ぎと思うが、逆に今、34歳といういい年をして、意図的に心ない発言している道徳のないメンタリストDaiGoに対して、立花氏やひろゆきなどの擁護を受けて、「批判自体をするな」という風潮が起こりつつあることに対しては、私は、このような絶対的なインフルエンサーに対しては、子ども・若者に対する悪影響が大きすぎるため、批判はしなければならない。
 

 「批判を欠くと、理性はいわば自然状態にあるようなもので、その主張や要求を貫徹し或(あるい)はまたこれを確保するには、戦いによるよりほかに途はない。
…このような批判こそ、我々に平安な法的状態を与えるところのものである。」
(カント著 篠田英雄訳 「純粋理性批判」 岩波書店 )


 だが、メンタリストDaiGoをネットで批判するだけではなく、赦(ゆる)しもなければならない。
 しかし、人を短い言葉で傷つけるだけの、ツイッターの世界では当然、ナイナイ岡村さんを糾弾した望月衣塑子(いそこ)を筆頭に、「赦しがない」。

 私がメンタリストDaiGoくんに言いたいのは、「直さなければならない所があるから、人間は生き続けるのである」。

 だが、今までの人生はほとんど無駄のような気がするし、私のようなタイプの人を認めることは未来永劫、絶対にないだろうから、多くを知る私から見て、非常に道のりは長く、また、浅はか過ぎて、不毛な失敗の繰り返しになると思う。

 そしてマスコミのカモになってしまい、多くのバカ本を集めて、ネットでその気になって粋(いき)がっている人たちも同様だと思う。
 

 とにかく「道徳がない」。

 とにかくネットにいる人たち、特に影響力のある人たちは、右も左も、メンタリストDaiGoの信奉者も自己啓発の信奉者も「道徳がない」。

 

 

 江原啓之さんの著書の第2章に「今こそ必要な道徳と修身」とあるように(↑画像参照)、私が唯一出せた道徳の本は、江原啓之さんの類書である―。


 日本のネットは、特にツイッターは、不毛である。
 何を言ってもわからない。
 そもそも謙虚さがない。

 逆に今メンタリストDaiGoを批判している人たちの中には、左の人たちも多くいるが、今あなたがたがやっていることは、山本太郎など、左の人たちが否定している「道徳」的なことなのである。

 無論、メンタリストDaiGoは政治家などの公人ではないから、内心まで縛られる必要はない。
 ただ、卓越した心理学者が、全く道徳倫理の下地すらないという底が見えてしまうのである。
 

 美輪明宏は若い頃にホームレスだったことを誇らしく語るが、人はすべて人様である。

 日本の哲学者、西田幾多郎も次のように言っている。
 

「カントに従えば、…即ち人格は絶対的価値を有している。

…他人の人格を敬し、目的其者(そのもの)として取扱えよ、決して手段として用うる勿(なか)れということであった。」 

(西田幾多郎 著「善の研究」)
 

 そういうふうに簡単に人様を切り捨てるような人を、人は信用すると思うか? 

 社会は、世界は、ハイデガーの言う他者配慮関係から成り立っている。
 顧慮、配慮が重要なのだ。

「世界・内・存在は、本質的に現存在に属しているから、世界に対する現存在の存在は、本質的に配慮なのです。
…人間は、…「世界」への存在関係「である」のでもなければ、これをもつのでもないのです。
…世界への関係を時おり取る…自由な存在するものでは決してないのです。
世界への関係を、このように取り入れることができるのは、…そのまま存在するからです。」
(ハイデガー著 桑木務訳 「存在と時間」 岩波書店)


 そして「人からどう見られるか?」 が重要である以上、「人としてどうあるか」が重要になってくるのである。

 メンタリストDaiGoや、日本の多くの未熟な社会の構成員には、未だに「他者をなきものにする」(ヘーゲル)という悪魔が潜んでいる。

 そして、哲学を一括(くく)りにする人も日本には多くて困るが、私は社会を顧みないバカニーチェにはならない。

 無論、ニーチェにも優れた側面はあるが、哲学的な真理や社会性の観点では、大ヘーゲルには遠く及ばない。

 私はメンタリストDaiGoを厳しく批判するが、彼個人を全く嫌ってはいない。
 

 彼は今、いい反面教師となった。
 

 なぜなら私に、若者を救うための言論の場を与えてくれたのである。

 

「万人がまた各人のために働いている。だから、各人の『自分のため』は共同性とつながっていて、…だれの役にも立たないことなどできはしないのである。」(ヘーゲル 著・長谷川 宏 訳「精神現象学」作品社)



 私は聖パウロとスピノザとの共通点が非常に多く、哲学的なこの二人の流れを汲(く)むが、両者の道徳は「赦(ゆる)し」である。

 

  

 (昨日の謝罪を撤回いたします【改めて謝罪】 /メンタリスト DaiGo より)

 

 こちらの動画では、非常に真面目かつ真摯(しんし)かつ神妙な面持ちで深く謝罪されているので、非常に好感が持てた。

 

 メンタリストDaiGoさんはまだまだ若く、この動画を見る限り完全に道徳的であり、これからは今回の失敗を教訓に、自らを戒め、ホームレスに対して同情的になり、支援的な活動をされるに違いない。

 また、個人的にはメンタリストDaiGoさんを応援していきたいし、「ホンマでっか!?TV」などに出演して、心理学の面白さを伝えてほしいとも思う。

 

 逆に今回のメンタリストDaiGoを擁護しつつ、いい歳こいてほとんど謝罪したことのないHリエモンと、T花さんと、Hろゆきが心配である…。

 

 「悔い改めよ。」

 

 

 

 

 

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