高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立。

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Platao, Aristotle, Descartes, Rousseau, Kant, Hegel, J.S.Mill, Nietzsche,
Durkheim, Nishida, Heidegger, Bataille, Sartre, C.Levi-Strauss, Derrida, Lasn,


2016年12月21日発売「いま僕らに必要な道徳」 高澤 一成 著 幻冬舎MC

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2018年9月6日  無世界論 1 / 国滅びて  / 9月10日  国滅びて 2


以下の著書の出版を目指しています!


「真の哲学者とは」(2019年ごろ)
メディア批評など。2017年以降の本ブログをベースにした内容。


「普遍的な道徳 (仮)」 (2020年以降)
未来永劫残る普遍的な道徳の大著を執筆予定。諸哲に基づく万民のための真の道徳書。

「無世界論」 (2020年以降)


関心のある出版社さまからの連絡(メール)お待ちしています。





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 無世界論 1


 今になって80年代の雑誌を読めば、「がんなんて病気は90年代になれば、すべてなくなっている」という希望的観測が踊っている。
 だが、がんという病気がなくなるどころか、依然として死因のほとんどががんであり、小林麻央さんは乳がんでわずか34歳で亡くなっている。
 

 それだけ80年代の日本人には医科学に対する「行き過ぎた慢心」があったし、戦後70年はそのようにあって、むしろ医学の進歩によって高齢化社会に拍車を駆け、人口の世代間バランスが著しく悪くなって、莫大な社会保障費で首が回らなくなって、高齢者ドライバーによる事故も多発し、自分で自分の首を絞めるような状態になっている。
 がんはおろか肝臓にもこれと言った薬はなく、美輪明宏さんに言わせれば白髪すら治すことはできない。

 また、東日本大震災による原発事故は記憶に新しく、そして1.1兆円もかけた高速増殖炉もんじゅの廃炉。廃炉作業は30年にも及ぶという。故いかりや長介さんが「だめだ、こりゃ」と言って済む話ではない。
 もんじゅ廃炉で「日本は終わった」と。

 まさに日本はかつての繁栄を極めたローマ帝国のように著しく凋落しつつある。
 そりゃあ、日本のスポーツ選手や芸能人など、個々人では国際舞台で頑張るのかもしれないけれど、そんなことを言ってしまえばどの国も同じである。

 人類の歴史はおおまかに言って、宗教の時代から科学の時代へと推移した―。
 それだけ宗教には道徳的な役割があったものの、著しく衰退したのは、それを笠に着て利用しようとした後世の人たちのまがまがしさがあったためである。
 カトリック教会の聖職者による男児に対する性的虐待は記憶に新しい。
 一方、哲学的な神社神道は、教義を持たず(一部おかしな神主はいるものの)、それ自体のあり方を保っている。

 そして戦後の日本は科学技術によって発展したが、その科学技術にも完全に陰りが見え始めているということだ。
 少なくとも極端な緊縮路線の財務省がある限り、日本がさらなる成長を遂げることは難しい。

 「科学だけがすべて」として盲信することは、ピタゴラスのように「一切は数字で成り立っている」と考えることと同じくらいナンセンスな空想である。

 また、スピノザによれば人間の理性とは完璧なものではなく、理性や科学とは道具に過ぎない。
 つまり忍耐弱い人や性に合わない人が、理性で決めたからと言っておいそれと与えられた役割を実践できるわけではない。
 「どうしたって、意志と運動とに理路は何も与えられないので、精神と体の力、…体の勢いはけっして精神の勢いによっては決められないわけである。」(スピノザ著「エチカ」)
 「我々が感情に対して絶対の支配力をもたない…。」(スピノザ著「エチカ」)

 
 つまりそろそろ我々は、科学や理性というただの道具を人間の上に置くという誤った考え、料簡(りょうけん)を改めるべきである。
 そして、今日の文明の利器とは、すべて戦後の唯物主義の日本人が全否定する「戦争」によって生み出されたという経緯も踏まえておくべきである。
 

 第二次世界大戦のレーダーの電波技術がテレビの開発に、また、大砲の弾道計算機がパソコンに、核兵器が原子力発電へと応用され、とどのつまり絶対に敵国を出し抜かなければならない戦争という極限の状況でもなければ、これらの科学の進歩はなかった。
 

 無論、戦争は絶対に二度とあってはならないが、今日の日本の高度経済成長も、文明的な、現代的な生活も、朝鮮戦争の特需も含めて、すべて「戦争」あっての結果でもある。
 
 ところで一切の世界のあり方とは、スピノザの言う汎神論、すなわち無世界論である。
 それはほとんど日本の神社神道と同じであり、また、真理ゆえ日本の神社には強大な力がある。
 無論、東京23区に住む心ない悪人たちにも「余計な力」を与え過ぎているため、日本全体で考えた場合、それはそれで「神社神道の問題」でもあるのだが。
 

 つまり私がいじめ自殺や児童虐待をなくそうとして、東京23区に普遍的な提言する場合、これら東京23区の神社たちとも戦わなければならなくなってしまう。 

 美輪明宏さんは永田町の政治家を「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」と言ったが、逆に言えば、神社の力がなければ彼らなど何者でもない。

 それは、たとえて言うなら、「ウィザードリィ6・7」に出てくる最後の敵(6は災いの王ドラキュラ、7はダークサヴァント)
が、宇宙の力を悪用しているに近い。

 

 また、道教も日本の神社神道に近い。
 そして、道教には「道」という、スピノザ-ヘーゲル哲学の「必然」に通じる概念がある。
 これ即ち神である。
 そして各人の「道」を「道徳」とした点にも一切の哲学的な真理が隠されている。
 「道徳」という言葉を生み出した道教の役割は大きく、また、神道と同じく多神教である。

 また、我々はこの世界を生き物や個物として分裂、またヘーゲル的に言って「制限」として捉えているが、一切は「すべてつながっている」。
 ただ、生き物や個物として制限されたかたちになっているのは確かである。
 しかし、それは理性(ヘーゲル哲学でいう悟性)による限られたありかたでしかない。 

 我々は物そのものを、理性や科学によってとらえているように見えて、完全にはとらえていない。

 それは理性によって制限されたかたちでとらえているに過ぎない。

 つまりは数学的な「大きさ」などの表面的な要素である。
 

 また、命そのものと魂そのものも全くとらえられていない。
 

 命と魂は未だに混同されるが、全く別のものである。
 端的に言えば、魂とは時間的に言って「後のもの」であり、命とは無が生の実体としてのありかたを保持する、肉体によって閉じ込められた制限のようなものでもあるが、そこには最初、無からのエネルギーが取り込まれている。

 人は死ねば、命が無に帰ってしまうため、生き返ることはできない。

 体の中にある一滴の水が、海に戻ってしまうようなものである。

 江原啓之さんも、一滴の水がグループソウルという概念の「コップの水」に戻るという同じような表現をされていた。

 そして、無も命も非常に表現が難しいが、基本的に同じものである。
 無とはヘーゲル哲学で言えば、絶対無であり、神であり、命そのものであり、不可知であり、またバタイユにおいては連続性であるが、無とは当然ゼロや存在しないことではなく、∞、もしくは ブラックボックス、不可知のものである。
 無論、無とは、科学的には存在するしないとは判別することはできない。

 無それ自体は、生命の誕生と共に、命それ自体として「成立」するが、生まれたころから30代前半くらいまでは、赤子の鳴き声から、疲れ知らずの高校球児、暴走族の爆音に至る「沸き上がる泉」、「エネルギーのほとばしり」があるが、老いると無のほとばしりは失われる。
 

 そして、30代前半までは道徳的ではなく、無のエネルギーのほとばしりによって生きる。
 キリストが30代半ばから活躍して、磔刑(たっけい)にされたことからも、まさにそのようである。
 釈迦も35歳だから全くその通りである。

 つまり人が道徳的になることは、死であり、また、道であり、必然である。

 また、魂とは時間的に言って「後のもの」と述べたが、時間的な概念は哲学的に言って非常に重要である。

 それはヘーゲル-ハイデッガー-サルトルの系統で長々と語られるが、スピノザが「神はすべてのものに先立つ」と言うように、魂もまた、科学で解明されないあらゆる心霊現象がそれを暗示しているように、時間的な経過によって神(いっさい)の中において刻まれている。

 魂は、アカシックレコードやアーカイブと言ってもいい。
 心霊現象の一つの傾向としては、死者の自殺や事故といった過去の瞬間を、それの起きた場所など、死者と関係のある空間で繰り返しているが(それは「ジョジョの奇妙な冒険」のレオーネ・アバッキオのムーディー・ブルース、あるいはヴェルサスのアンダーワールドの能力ように、無論、そのように現実的なものでは全くないが)、地縛霊という表現があるように、そのような傾向が見られることは万国共通である。
 

 事実、ヘーゲルは死者の霊を「地霊」と表現する。

 また、時に死者は、ファンキー中村さんのように心霊体験に遭いやすい人に付きまとったり、金縛りにして「なんでそんな恐いことをするんだよ」、「言いたいことがあるならはっきり言えよ」という話があるが、非業の死を遂げた霊とは、言うなればただ単に無念の思いであって、現実的な存在ではなく、理性がないので、逆に理性的にふるまうことを要求することはできない。

 死者とは、霊とは、全く一様でない。つまり、まるで寝ている時の夢の中にいるような全く理性のない霊もあれば、理性のある知性としての霊もあるようである。霊による暗示やメッセージそのものが神の一部、この世界の一部としての何かである。

 無論、写真に映るオーブとしてひとくくりに見ることもできるかもしれないが、人間の悟性(対象を理解するだけの能力)では全く捉えられないものである。

 魂は、時間的にすべての物に先立つ「神」という全体の中の、一部のアカシックレコードやアーカイブである。
 それは現実的な空間を占めているようで占めていない。 
 つまり私はエネルギーとしての無や命とは別物ととらえている。

 無や命は空間によって左右されない。

 ただ、思念は魂の側にあり、それもまた空間によって左右されたり、されないが、当然時間によって左右される。

 魂、地霊は時間的に言って「後のもの」である。

 そして魂は、神という全体の中で、足跡、刻み目、ルッセ-デリダで言う「差異」を残すか、あるいは残そうと試みる。

「言語とエクリチュールの領域では、…魂との関わりが深いので、大いさ、形象、運動の概念は、…明確なものではなく…。…意味するものからまた意味するものへと向かう無際限の送り渡しであるのは。…意味されている意味には一ときの猶予も休息も与えられず、…なおも記号となり、かつ差異を産む(differer)…。」(デリダ著「エクリチュールと差異」)

 

 

 また、世界の一切は神であり、バタイユ哲学における儀式、祭りや、バタイユに心酔して、割腹自殺した三島由紀夫が入り込んで行った「連続性」のように、いっさいがつながっているのであって、そのような非業の死を遂げた霊の思いに迂闊(うかつ)に同情することはそれにとりこまれてしまうことであり、大変危険である。

 それが悪霊とは言わないものの、自分以外の悪霊にとりこまれて精神錯乱するような状態、また、科学的に説明がつかないなら、そのような妄想にとりこまれてしまうと考えてもかまわないが、そのようなことにならないために、道教で言う各人の道、道徳、つまり「自分の道」を持つことが生きることの、まぁ、言ってみればニーチェの「力の意志」に近い、各人の道を持った一人の人間が、他者にとりこまれてしまわず、この生において自らの為すべき事を達成するための道、道徳の必要性であることは言うまでもない。

 道徳とは、「動じないこと」である。自分の道のためなら、その道をさえぎろうとするいかなる悪霊や人間にも動じない。いかなる悪意も、依存も、呪いも追い払う。「微動だにしないこと」である。しかし、そのためには己の中のテレオロジー(目的論)がはっきりとしていなければならない。いかなる他人にも決して呑みこまれてはいけない。

 悪霊は無論、死者のことばかりではない。友人もである。8月31日に奈良市の高速高架橋で、10代の若者6人が死亡するバイク事故があったが、そういった「グループ」もまた、各人の「道」をさえぎる端的な悪霊である。

 ここまで書けばおわかりと思うが、道徳とは、他人を峻厳(しゅんげん)に切り離す各人のものでもある。

 非行グループ、暴走グループには早死にする人も多いが、どんなにワルであっても、他人やグループ、仲間内に流されず、自分の生き死にを他人に委ねず、自分の道を持って生きることこそ道徳なのである。それがわからない連中がまた、自分の道を見つける前に「生きている悪霊」に巻き込まれて、特殊詐欺を起こしているが。

 まぁ、道と言っても、法律がすべてでは全くないので、逃亡を続けている樋田容疑者のように、他人に呑みこまれないかたちで悪の道を進むたくましい悪い者もあるが、無知・無思想で道徳のない官僚、メディア、知識人から成る日本とは、まさに悪だけの道を突き進むこのような若者、人間を輩出するに至っているが。

 

 但し、若い人たちが、私の知っているようなことを知ってしまうと、若者ではなくなってしまう。

 すなわち、西田幾多郎の「至誠」でもそうだが、道徳的であるということは若いということではない。若者あるいは純粋に「生」には「未熟」という意味合いがあって、つまり生きていることの「過程」でなければならず、時間的な終わりや結果を包摂してはいけない。

 ただ、道徳を知らなさ過ぎても、バイク事故のように友人という悪霊にとりつかれて突発的に死んでしまう。

 道徳とはヘーゲル哲学において、矛盾をはらむものであり、「道徳的でありつつ、道徳的でないこと」が私が語ろうとする無世界論の一端なのかもしれない。

 それゆえに、そういう哲学的なことを知らないで済むために、「宗教」というオブラートが存在するのだと何者かから言われているような気がする。

 科学だけを信奉する東京23区の日本人にとって、宗教ほどバカバカしいものはないかもしれないが、普通の人間にとって宗教の役割ほど大きいものはない。

 但し、今の時代の宗教はほとんどダメだが。

 そして、外部からの影響を受けずに生きることなんてできないが、哲学的な概念を以てそのようにするのが道徳である。

 「老子道徳経」はまさに哲学である。他者に身を委ねて道を踏み外すことは道徳ではない。ニーチェが嫌いなニーチェ的道徳とでも言おうか。
 日本は道とも道徳とも縁遠い「村社会」という均質的な監視社会であり、「村八分」という言葉があるが、まぁ、デュルケム的に、この村が「進歩の概念」と、「個性」と、「個性の否定」の三概念を包摂しているなら、その村とやらを認めてやってもいいが、今日の道徳退廃した日本には、村には、各スポーツ連盟や各地で不祥事を起こす地方議員のような、無知・無力な者の優越感によるいじめという意味合いが強く、つまり「村社会で村八分にならないこと」が必ずしも道徳的であるとは全く限らないんだな。

 

 日本の場合は、村全体がすでに完全にバカである。

 

 とにかくそんな日本の村から「いじめ」を受けても、私みたいに自分の道を信じて、生きることであると。

 いじめとの戦いは日本の多数派のバカとの戦いでもあるのだな。

 このように道徳とは、一見して、「自分以外の他人だけのためのもの」と誤解されがちであるが、全く完全に逆である。
 

 人はどんなに道徳的に他人のためだけに生きようとしても、自分のためにならないように生きることなどできない。
 「各人の「自分のため」は共同性とつながっていて、…だれの役にも立たないことなどできはしないのである。」(ヘーゲル著「精神現象学」 )
 ヘーゲルはこのように言ったが、当然「逆もまた真なり」である。

  事実、道徳を信じない、科学だけを盲信する大多数の日本人とは、率先して自らの道にフタをして、組織に呑みこまれ、隣人に呑みこまれ、進んでうつ病になり…、言ってみれば自分に近いような他の霊に付き合わされてその生涯を終える―。
 
「自己意識は、本当は、運命に呑みこまれてそれでおわりというのではない。というのも、運命の必然という、世界に行きわたる純粋な力は、自己意識そのものの本質なのだから。」(ヘーゲル著「精神現象学」 )

「この(彼岸と此岸に分割されて展開された世界が還ってきた)自己意識は、「道徳」のなかで、自分を神に通じる存在ととらえ、神を現実の自己ととらえることによって、…みずからは良心をよりどころとする確信に満ちた精神となる。」(ヘーゲル著「精神現象学」)


 人間各人にはそういった道、おおまかな青写真、必然が各人には与えられているが、そういった自分自身に与えられた、目に見えない道、必然、道徳を信じるか信じないか、まっとうできるかできないかで、大きな違いが出てくる
 だから科学だけを盲信して、道徳を信じないと言っている人たちは自分で自分の首を絞めているようなものなのである。

 また、日本神道やスピノザが言うように、いっさいが神であり、物でさえも神であるというのは、日本はまさにモノ作りの国であり、人の手によって作られた物はもちろん、パワーストーンなどなんでもいいが、たとえば心霊の世界で語られるような、変化していく人形や心霊写真、面なども、当然ただの物であると断定することはとてもかなわないのである。

 すべてが神であり、つながっているのだから、面やお地蔵さんに対して、それが一体何者なのかもわからないまま、現代社会的な価値観、感覚だけで、バチ当たりな行為をすれば、それがそのまま自分に返ってきたり、場合によっては、その因果関係の説明はできなくとも、その直後に亡くなることさえ多々あるようである。

 
「個体は程度に違いはあってもみな霊(アニマ)をそなえている。なぜかといえば、どんな物でも必ず神のうちにその観念が与えられているから…。」(スピノザ著「エチカ」 )
 

 若いうちは道徳的ではないことが青春そのものでもあるため、人として成熟するまではいろんな経験をしてみるべきであるが、「道」を踏み外すような、取り返しのつかないことは避けるべきである。
 

 また、これまで述べたような無に向き合わない限り、これ以上の日本のめざましい進歩はありえない。

 そう言えばオーバーに聞こえるかもしれないが、私たちが80年代に夢見た2000年以降の世界のような、もちろんタイムマシーンもつくれず、月にも住めず、空も飛べず、がんすら治せない、スマホしかないような、夢のない、セコい進歩しか見通せない、事実、1970年代に作られた日本中のインフラは老朽化していて、団塊世代がいなくなるとともに、日本中が、ジェノアの高速道の橋崩落のような憂き目を見るというのである―。

 無論、それは科学を全否定するということではなく、特に20世紀以降の科学は有効であるが、それが脳のメカニズムや尿療法すら解明していないように、全く万能ではなく、それどころか外部観察的で表面的な道具に過ぎないという認識に立つべきである。

 そして神の一部である人間様がそんな道具の風下に立ってはいけないのである。

「人間は企業のために生き、ますます現在時において生きなくなったという点では、ものが人間を支配したと言えるだろう。…しかし一種の芝居にすぎない。…いっぽう恰好な暗がりの中では、新たな真理が嵐を準備しつつあるのだ。」(バタイユ著「呪われた部分」)

 日本には2タイプの人がいて、一つは官僚や大手企業、マスコミなど、科学しか信じない人たち、マニュアル人間。
 そしてもう一つは美輪明宏さんやYOSHIKIなど、完全に科学以外の力で成功した天賦の才能を持つ人たち。
 無論、99%以上は前者であり、無哲学、無思想、無道徳のマニュアル人間だけが何ら具体的な国家像なく、国民に耳ざわりのいい、抽象的な綺麗事だけを並べてこの国を動かしているのである。
 そして多くの日本人とは、東京のマニュアル人間によって、受験勉強や司法試験などの資格という「一本道」の無駄な努力を延々と強いられて、「自分の道」は封印され続けたまま、うつ病と戦いつつ、不遇の生涯を送る―。

 つまり神社神道の、すべての物に霊(アニマ)が備わった多神教、汎神論と、「和を以て貴しとなす」清き明(あか)き心の道徳を是とする日本にあって、大半の人は「日本人ではなくて」、道徳のない悪霊とそれに付随した、各人の「道」を忘却(Oblivion)させられた「なにか」なのである。

 そして現代的な、テレビ的な、道徳のない、科学しか信じない価値観によって、天性の才能や特徴、自分の道を削り取られて、何もなくなって、テレビの中の才能のない人たちのためにお金を払い続けるだけのための何か(市場)なのである。

 私たちの多くは精神とも呼べない科学的な不純物である。

 そこにさらに、いつでも国家の寝首を掻こうとする恩知らずの下賤(げせん)な意識が集まって、これに行き過ぎた人権を付与して、人権主義を煽(あお)り、国内に対立と分裂とを招いているのである―。
 

 哲学をやっている私から見れば、科学もまた宗教の一つである。

 

 道徳の必要性を信じず、神仏を信じず、うつ病になって、毎日のように抗うつ剤を飲んでいる隣人を見れば、科学教の信徒である。

 

 だが、いくら私が説得しても、美輪明宏さんの言うように「本人の気づき」がない限り、どうしようもない。

 逆に本人に気づきがあれば、どうとでもなるし、私が道徳教室を開設しても、そこに参加して道徳に関心がある時点で、その人はすでに道徳的なのであって、あとは各人の「道」なのである。

 

 そして私がここで提示したいことは、「神は過去も未来も包含する」。

 神は世界のすべてのもの、いっさいであるということは、神道やスピノザ哲学で言われていることであるが、神が時間軸としての過去も未来も包含するということはあまり言われていない。

 

 ところで、私はこの無世界論を書くにあたり、突如、土偶の夢を見たが、その夢によると、縄文時代の太古の昔に、日本に土偶タイプ(?)の宇宙人が下りてきて、今も宇宙から人類の進化を見ているようである。そしてネットで調べてみると、どうもそのような説があるようである。土偶はそれからかなり後の、3世紀以降の弥生時代において、当時の文明を反映している埴輪と比べても複雑、奇妙、突飛であり、共通点、連続性がない。そして私は土偶のことを考えたことなど何十年もなかったが、突然夢に土偶が、X JAPANと共に出てきたのであるが、まぁ、ただの夢として。

 

 心霊現象は往々にして近未来を予言していて、たとえば日本でも、阪神大震災から夫を救ったという亡き妻の幽霊の話や、子どもができて父親になる直前の男性が電車待ちをしていたときに、実在しない老婆が現れて彼を電車に乗せず、その直後に彼が乗れなかった列車が大事故(福知山線脱線事故?)を起こして、結果的に彼を救ったという話などがあり、また、過去性においても、世界各地の事故や事件の現場では、100年くらい前までの過去を繰り返したりする。昔に建てられた建物に、昔に生じていたような音が発生するという現象もある。 

 

 「神」と言ってしまうと、宗教的であったり、大袈裟であったり、私が言うと嘘っぽく聞こえるかもしれないが、神を「世界」という言葉に置き換えてみると、この世界とは、少なくとも遠くない過去と近未来とを包含する領域を部分的に持つのかもしれない。

 

 (中略)

 

 

 子どもから30代前半くらいまでは、道徳はゆるめでちょうどいい。

 お釈迦さまもキリストも、本格的に活動したのは30台半ばだし、悪人正機で、人間は若いころに失敗して、成長するものであるし、人間各人がどう生きるかは、特に若いうちの道徳から解き放たれたところにあるのもまた真理である。

 

 無論、この国自体が社会道徳を全否定しているものだから、児童虐待とか特殊詐欺のような本当にバカなやつらもいて、そうした人たちを生み出さないような啓蒙はあって然るべきであるが、価値観が多様化し過ぎていて、それが非常に難しい。

 

 ちびまる子ちゃんの作者であるさくらももこさんが亡くなったのが象徴的であるが、児童虐待がなかった、ゲームもなかった昔は、ほとんどの家族が全国一律的にサザエさんを見ていたような時代もある。もっと昔だと月光仮面とかね。

 

 つまり道徳退廃と核家族化が一つの象徴であって、一概にこれがすべてとは言えない部分もあるが、少なくとも道徳退廃が今日の児童虐待の原因のメインストリームであるにも関わらず、道徳を排斥してきた団塊世代からオレ流世代にいくら「1+1=2」と言っても、傲慢かつ洞察力がなさ過ぎて、全くこれを理解しよう、耳を傾けようとはしないんだな。

 

 道徳とは、道であり、必然であり、つまり時間軸であって、無論、道徳嫌いな日本のメディアや知識人が人間ではないなら道徳でなくてもいいんだけど(昔、田原総一朗が共産党の笠井亮に「あんた、人間じゃないよ」と言って問題になったが)、そこに精神、自己意識として関わるのが人間のものである以上、道徳という概念がヘーゲル哲学においても非常によく出てくる。

 

 つまり我々が人間をやめられるなら道徳をやめてもいいが、我々が人間である以上、残念ながら道徳はやめられない

 

 ―戦争に話を戻すが、我々が今日現代的で快適な生活が送れるのは「戦争」を経た結果である。

 事実、日本の生活水準が江戸時代のままでいることもできた。

 そして欧米列強や中国共産党に支配されて、植民地になって奴隷にされたり、アヘン漬けにされたり、投獄されたり、拷問、強姦を受けるという可能性もあった。

 そして日本は戦争をする道を選んだが、そうした血の歴史の生々しい夢ばかりを見る。

 

 そしてそれは広島もそうだ。

 私が言いたいことは無論、ニーチェの言う「戦争の美化」ではなく、そうした事実、時間軸を忘れないでおくこと。

 お偉方は平和式典などで「私たちが今あることは戦争で亡くなった人たちのおかげ」と、漠然的に言うが、そうではなく、現実的に、明治維新の近代化や帝国主義による軍事技術の開発、戦争の特需がなければ、今日の日本の繁栄はありえない。

 つまり時間軸としての広島、長崎、東京大空襲などの、そう遠くない「過去」のおかげで今日の日本の生活水準がある。

 たとえば、テレビ、パソコン、それに付随するゲーム、その三つのない戦後の日本なんて考えられない。

 そしてそれは、私が日本人であることを知るためには、具体的で生々しい血の歴史を心に刻むことでしかない。

 少なくとも私はそのように「言われている」。

 たった50~60年、生まれるのが早かっただけで、私の人生は大きく変わっていた。

 

「ウォール街占拠」で有名な知日派の社会活動家カレ・ラースンは、「一〇〇〇年以上の歴史を持つ伝統的文化がわずか二世代で消滅してしまった!」と言ったが、着物を着て琴と三味線を弾く私の母はゲームはおろか、アニメも見ないし、マンガすら読む習慣がない。

 私よりたった一つだけ上の世代でも、完全に全く別の時代の人間のようである。

 

 これだけ激変した時代にあって、わずか2世代上の祖父の世代は、生活水準どうこうではなく、戦争によって20歳くらいまでしか生きられない。

 そういった生々しさを、私はインダストリアル音楽という分野において、作品にしてきた―。

 

 美輪明宏にYOSHIKI。

 人間の、道徳の向かう方向において、「文化」という道は正しい。

 日本の道徳水準を上げるためには、道徳よりも、文化を優先すべきかもしれないが、道徳的基盤が完全に崩れているため、どうしようもない。

 

 たとえば、日蓮宗でお祓いをする三木大雲住職に対して、勝手にお寺に侵入するなどして、何らお金を払わずに、いらなくなった人形などを勝手に投棄する心ない人たちが山ほどいて大変困っているという事実を知って、そのような「文化」による婉曲的な情操教育以前に、もはや人としての最低限の道徳的基盤のない社会、国民性に変わったのだと。

 

 だが、私の音楽は「文化」というほど高尚なものではない。

 文化は有意義なものであり、多くの人を巻き込むものである。 

 「創造」という意味においては同じであるが、私の場合は「道」であり、メッセージや暗示に近い。 

 つまり商業ベースやテレビの世界で、誰でも彼でも明るく楽しくというものでは決してない。

 つまり社会に向けて、すべての年齢の人に受け入れられるように、最大公約数とするために手を加えることは一切なく、哲学や真実を隠さない。

 文化とは習い事になる。だが、私が今までやってきたことは習い事ではない。

 すべての音がプリセット(工場出荷時に最初から入っている音)ではなく、シンセサイザーで自分で作る。

 まず日本の音楽はすべてプリセットに聴こえるから全く聴かない。

 歌モノは歌モノで素晴らしいものも過去にあったが、そういう時代は終わったような気がするし、正直、私と同世代以下のミュージシャンの歌に共感することはない。

 日本独特のいやな商業的な匂い、悪臭がするというのももちろんある。

 つまり、そもそもの私は音楽に関心がないのかもしれない。

 すでに頭の中で書かれていたようなことを書く。

 それは哲学よりも、道徳よりも、はるかに時間をかけてやってきたようなことである。

 

 そして、ヘーゲル哲学における国家や共同体のための生とは、先の戦争によってさんざんに打ち破られた。
 

 そして、バタイユはそうした戦争による原爆投下とは、有用な富の総体のなかから取り除かれる余剰エネルギーの「蕩尽」(「呪われた部分」)であると考えた。

 

「(資本の)保有者はめいめいその資本から利益を要求する。…生産力の無制限な成長を想定する。…忘れ去られているものは、…法外な富を戦争のなかでばらまかねばならなかった事実である。…過剰エネルギーを休みなく破壊(消尽)せねばならぬ生命集団の本質が常に浮かび上がるのである。」(バタイユ著「呪われた部分」)

 

 そして、ヘーゲル哲学の次に来る哲学とは―。

 

 

 ここで急きょ無世界論を中断して、台風21号と北海道地震に関する記事になります。


■9月6日 国滅びて  

 児童虐待を撲滅すべく8月2日に安倍首相宛てに投函した道徳提言。
 「やはり返事が来ないかな」という思いが確信となってきたちょうどその頃に、関西空港に台風21号が直撃してその高潮によって大規模冠水し、また、私の生まれ故郷である北海道の道央に大地震が起きた―。

 総裁選のさなかに、頻発する甚大な災害の対策に追われる安倍首相。
 
 村山政権時の阪神淡路大震災に、菅政権の東日本大震災と、徳のない政権に激甚災害は起きやすいというジンクスがある。

 無論、安倍首相は道徳を重視する政治家であったが、今回の「児童虐待対策としての道徳の必要性」のスルーによって、徳がないことが私にとって決定的となってしまった。
 その失意と一致するタイミングでのこの国難。

 現に道徳を重視する上田清司埼玉県知事や伊吹文明元文科大臣からは返事が来た。
 確かに国のトップで忙しい身。
 また、私のような無名の人間からの提言は周りの官僚に阻まれるということもあるだろう。
 しかし、やはり世襲というか、貴族というか。私は所詮、在野の無名の人間。一庶民。
 その辺は切り離して考えられているらしい。
 この夏、安倍首相は友人とゴルフに行き、私は苦々しい日々を過ごしていた。

 台風21号が直撃して、停電と港湾や六甲アイランドに大きな被害が出た神戸には3ヶ月前に学会で初めて行ったばかりであり、山と海に挟まれた美しい町並みから源平合戦に思いを馳せ、平家ゆかりの神社にも参拝し、「東京23区嫌い」の私としては、引っ越したいと心から思うほどの感動的な旅だった。

 そして札幌、新千歳空港のある道央の私の生まれ故郷の大地震。
 札幌を始めとする私の生活圏だった道央は壊滅的な被害を受けた。
 それは台風に遭ったばかりの関西空港の被害が報道できなくなるくらい、立て続けの大災害だったようだ。

 私個人の主観、思いとしては、「児童虐待をなくさん」とする私の普遍的な人文諸学に基づく投書、提言がスルーされたちょうどその頃に私とゆかりのある場所で甚大な災害が起きたというまさに「痛恨」、「無念」のものである。

 甚大な災害により、すべての地方が滅びて、やがて日本は絶対に滅ぶ。

 ジンクスと言えばジンクスだが、こういった思いは過去にも経験がある。

 それは「広島の雨」である。

 この話は大変長くなるので省略するが、私はちょうど10年前に広島でパウロに近いかたちで「声」を聞き(少なくとも私にはそのようにしか捉えることができない)、その日の平和記念公園の「奇跡の雨」(晴れの予報で雲一つなかったにも関わらず私がいる時間だけ、平和記念公園だけに雨が降った)に際し、音楽的なインスピレーションを得て、その後、私が専門とするインダストリアル(テクノ・インダストリアル、もしくはエレクトロ・インダストリアル)というジャンルの「Retrieval/リトリーバル」という曲を作った。

 私は広島で体験した雨、被爆された方々の思いを、どうしても音像にしたかったのである。

 数年後に完成し、YouTubeに上げたところ、何人かのインダストリアルを聴く海外の方から良い感想を頂いたのであるが、「広島の方に聴いてもらわなければ意味がない」と感じ、その時はちょうど8月ということもあり、また、広島市のホームページには私的、商業的な広告を出すことができたので、何万円かの費用を出すなど、すべての条件をクリアして申請したのであるが、官僚出身である松井市長個人の「本人都合」という理由だけで却下されてしまう。

 当時広島では、よくわからないような芸術をやる若者が広島でもテレビでももてはやされていたが、無論、それはテレビの情報番組の時間を埋めるだけのような一過性のものに過ぎず、そういう流れの中で、私だけは「全く」相手にされなかったのである。

 そして、広島市名義で松井市長から申請却下の封書が届いたちょうどその日に、10年前に広島で私が平和記念公園で体験したような、まるで人の意志があるかのような集中的な雨、線上降水帯による「広島土砂災害」が起きて74人もの尊い命が犠牲となって、当時は「松井市長による人災だ」という非難の声が上がった。

 そして失意の中、それ以降も有名な音楽SNSの「SoundCloud」で細々と海外の人には聴いてもらっているものの、商業音楽一辺倒の日本で私の「広島の雨の曲」を広めることは全くかなわず、そうこうしている今年になってまた起きてしまった西日本豪雨という雨によって、多くの広島の方々が亡くなられてしまった・・・。
 私はすべてを結びつけて考えてはいないが、「雨」というものに何かしらの暗示を感じる。
 そして私は音楽活動をしている中で、必ずしも日本の戦争や広島に対する思いが先に来るものではなかった。
 それは取りも直さず、被爆された美輪明宏さんがいたからである。
 しかし、彼は長崎で被爆された方であって、やはり広島には別に私の曲が必要であるという思いに至ったのである。

 しかし、日本人には「全く」受け入れられなかった。

 ところで広島の原爆を題材にしたエレクトロの有名な曲には、OMD(Orchestral Manoeuvres In The Dark )の「エノラ・ゲイ」と、ソフトバレエの「エスケイプ」があるが、どちらも「狙った」明るい曲であり、純粋に広島で亡くなられた方々の視点に立っているとは到底言い難いので、私としては「原爆の子の像」に捧げられるような真の広島のための曲が作りたかった。

 つまり後世の人間が、戦争で得た今の時代の恩恵に対する感謝のために、先人の犠牲を知るためには生々しい描写がなければ意味がないのである。

 それは確かに「はだしのゲン」でもいいのかもしれないが、あれは犠牲になられた方々の肉体に与えられたダメージを視覚的に見せるものであって、子どもにトラウマを与えるものであり、私としては音楽という形で、犠牲になられた方々を恐ろしくするのではなく、どうしても精神的なものとして昇華させたかったのである。

 メロディを全く排除し、私のアルバムの中でも音楽性は低いが、私が20年来やってきたテクノ・インダストリアル独特の、コードを無視した無調主義的なアルペジオ奏法が、この雨のイメージにはしっくり来たのである。

 私と広島の雨との関係は、偶然と言ってしまえばそれまでだが、私個人の主観に立ってみれば、あまりにも皮肉というか、ジンクスを感じてしまうのである。

 そして今年も8月より、日蓮上人よろしく、政府、スポーツ界など各所に道徳提言を出したが、未だ返事は全くなく、「返事が来ないな」という頃合いに大災害ラッシュに見舞われているというジンクスがある。

 There's nothing at all to do for Japan.
 新しい元号を迎える来年に向けて、私にできることは何もないのだろうか。

 まさに一人の日本人も私を必要とはしていない。

 だが、心ない日本の政府、官僚、メディアを制してでも、いじめ自殺や児童虐待だけはなくしていきたい。

 「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和しうるわし」
 まさにヤマトタケルノミコトのような、孤立した、やりきれない心境である。



■9月10日   国滅びて  2

◆地震災害、「中国のように国が介入すべき」

(2018年9月7日 朝日新聞より)

 人権のない中国では観光スポットに住む住民を簡単に立ち退きさせるが、日本でも大地震が起きた場合は、積極的に国が介入すべきである。

 つまり、国が、被災地の被災者を、まとめて生活インフラのある場所に移住させる制度である。

 無論、経済力のある人や、別に住居のある人などは自由に拒否できる。

 避難所生活や車中泊を強いられる多くの被災者が、民族の大移動ではないが、当面の住み家として人口の少ない地方などにまとまって移住できる仕組みが必要である。

 つまり現状の、国が被災地に拠点を置かず、復興の拠点が東京にある限りは、ほとんど他人事であり、すべては無慈悲な「自己責任」に帰せられ、あまりにも理不尽である。

 「全力を挙げての復興」など、政治家からは抽象的で月並みな言葉だけが踊るが、何日も水道を使えないであるとか、現実的に不便な生活を強いられるのは被災者である。

 首相は被災地を視察して回るが、もし、それだけならば天皇陛下もされている。
 国民の民意で選ばれた政治家、公人が、被災地を視察して回るだけで本当に良いのか。

 私個人、こういう時だけでも、中国のように、国が積極的に介入して、被災地単位での移住ができるような都市開発計画が必要であると考える。

 提言の目的としては、これからの日本は、「避難所生活、車中泊」という状況自体を完全になくすことである。
 そのような状況を強いられている人が日本全国の地方にいて、「経済大国」などとはとても言えない。

 無論、そのためには、大金持ちの助けが必要であるが、今は完全にグローバリズムの時代であり、つまりナショナリズムが崩壊しているため、「国際的な企業主義・個人主義」だけが優先され、地方や一般国民は完全に置き去りにされている。

(中略)

 そして自民党には安倍晋三に代わる人材がいない。
 彼が悪いわけではないが、首相の在任期間がアメリカの大統領の二期よりも、長くなってしまうのは本人にとっても良くないことである。
 「輪転機をグルグル回せ」と言っていた安倍首相が緊縮に回り、デフレ脱却に失敗して国民を貧困化させたのはもちろん、一般国民を顧みないグローバリズム政治と、官僚政治の悪い所だけが随所に出てしまっている。
 かつ領土問題でロシアに大幅に譲歩し、国益も守れていない。

 無論、政権担当能力のない野党は問題外であるが、自民党でも人気のある安倍政権で大災害が立て続けに続いているのは、時代の転換期を予感させる。

 無論、安倍首相は三橋貴明氏と会うほどであり、彼が政権の中枢にいるのは関係ないが、安倍政権は野党やメディアの言うように「強い政権」ではなく、真逆であり、「圧倒的に力のない政権」であり、緊縮増税路線の官僚やグローバル政治家の影響下にある感は否めない。

 長期政権となり、マンネリ化して、国家観、ビジョンも欠けている。
 麻生太郎などの人事も一新されていない。

 昔は自民党には私くらいのことを言う政治家などいくらでもいたが、今は私のようなことを言う政治家は一人もいない。

 自民党が破滅の道に進んでいることが確かならば、私は日本を自民党から救わなければならないと考える。



◆震災直後にウラジオストクに出発したのは全く理解不能

 私はジャック・アタリ氏が言うように日本がNATOに加盟して、ロシアを孤立させて牽制すべきだったと思う。
 NATOに入れば、米国との連携も強まり、国際社会を巻き込んで北方領土問題を俎上に乗せれる。
 イギリスやウクライナとも連携できる。
 経済的に厳しいロシアは、北方領土で妥協して、日ロ関係を改善させて経済支援を得ようと考えるに違いない。

 

 ところが安倍首相は「国」よりも「私」、つまりプーチンとの間柄を優先させてしまった…。
 公私混同である。
 そして北海道地震にも関わらず、北方領土を自国の領土と主張するロシアへ旅立ってしまった…。
 いったいどっちの味方なんだと。
 プーチンは死ねば必ず後世の人たちからヒットラーのごとく極悪人として扱われる。
 それは米国のみならず、暗殺されたネムツォフの支持者、ホドルコフスキー、ナワリヌイらロシア国内からもである。
 日本には、安倍首相を「猛獣使い」として絶賛する風潮があるが、完全にいいなりになって利用されているだけである。

 簡単に言うなら、日本にはネムツォフ、ホドルコフスキー、ナワリヌイほどの政治家すらいない。

 日本の政治家は全員完全に「自分のためだけ」である。
 また、ロシア主導の共同経済活動で、出身者が北方領土に墓参に行ってもロシア当局によって、墓参に同行した日本政府関係者や報道関係者の携帯電話は没収される。
 皆さんはニュースを見るだろうか? 天気予報はご覧になられるだろうか?
 毎日当たり前のように見る日本地図は嘘である。
 なぜなら、日本国民が毎日見る日本地図にある北方領土は実質的に日本ではない。
 
 安全保障の問題で日本とロシアが折り合う所以(ゆえん)はない。
 安倍首相は鈴木宗男氏と同様、最後の独裁者プーチンに取り込まれてしまっている。

 そして、プーチンとのコネを自慢する八方美人の安倍首相の態度に同盟国アメリカが良く思うはずはないのだが…。
 諸手(もろて)を挙げての全面妥協、北方領土の完全放棄という降伏に、プーチンが喜ばないはずはない。
  なんで日本はこんなことになってしまったのだろう。
 外務省は今から北方領土が日本に返還されると本気で思っているのだろうか? 
 憤りを禁じえない。
 ロシアとトルコの関係は近年良好であるが、プーチンは、トルコのエルドアンのように、あえてロシア軍機を撃墜させて、プーチンとラブロフを沈黙させて彼らに「トルコと戦争をするつもりはない」と言わしめたような、国家のために命をかける男気のあるリーダーしか認めない。
 日本には政治家が「いない」。

 アメリカの属国、ロシアの属国、中国の属国では、高い技術力を誇る日本人は浮かばれない。
 

◆科学・学力は重要である。

 科学至上主義を批判してしまったが、日本が今日の先進国足りえたのは、寺子屋から始まる学力の高さである。
 そして、自分の道を見つけていない多くの若者は、若いうちは勉強するしかない。
 そして教育とはそういうものであるので、私が口出しすべきことは少ない。
 だが官僚や大手企業の不祥事が相次いでいるように、学力がすべてでは全くない。
 そこからはカントの言うように文字通り道徳が重要になってくる。

「人間の理性が真に原因性となり、理念が作用原因(行為とその対象とを生ぜしめる原因)となるところと言えば、それは道徳の領域である。」(カント著「純粋理性批判」)

 自分の作用原因がわからぬうちは、その準備のために勉強するしかない。
 



 

 

 

 

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