5月31日 川崎19人死傷事件に見る道徳の必要性と朝日新聞などの「メディア権力」の罪 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

5月31日 川崎19人死傷事件に見る道徳の必要性と朝日新聞などの「メディア権力」の罪

※ 19人→ 20人


■2019年5月28日  川崎殺傷事件
 トランプ大統領の訪日中に、また痛ましい事件が起こってしまった。
 神奈川県では、暴力団などによる組織的な犯罪や金銭目的の犯罪ではない、個別的な道徳の欠如による重大な凶悪事件が相次いでいる。
 

 

 

<近年に神奈川で起きた主な凶悪犯罪>

2012年11月6日 逗子市 「逗子ストーカー殺人事件」 40歳男 
2014年11~12月 川崎市幸区  「川崎老人ホーム連続殺人事件」 23歳男 
2016年7月26日 相模原市  「相模原障害者施設殺傷事件」  26歳男
2017年10月30  座間市  「座間9遺体事件」 ツイッター連続殺人 27歳男 
2019年5月28  川崎市多摩区  「川崎19人死傷事件」  51歳男 

 


 本事件の発生に際し、幻冬舎以外のメディアからは15年来無視され続けているが、「1+1=2」の理性があれば誰にも理解できる、理論的な道徳による新しいモデルを作ったのでわかりやすく説明したい。
 テレビなどでも報道されている通り、犯人は刃渡りの長い複数の刃物を持ち、朝7時に家を出て、乗降客数の多い登戸駅を狙い、また犯行時刻も、多くの小学生がスクールバスを待つ時間帯であることから、計画的な犯行である。
 また犯人は、51歳にも関わらず、中学生の時の写真しか公表されていないことから、引きこもりの人物とも報道されている。
 戦後一貫して道徳を排除してきたテレビでは、しきりに「安全面の必要性」だけが取り上げられるが、24時間365日、1人の人間をガードしたり見張ったりすることは不可能である。
 もちろん監視カメラの設置によって、渋谷のハロウィンの騒動などで、より早く犯人を特定できるようになったが、「これから先何が起きるか?」という未来の「いつ、どこで、誰が」を的確に予測することなど不可能である。

 

 これは相模原障害者施設殺傷事件の時にも書いたが、津久井やまゆり園にはすでに16台の監視カメラが設置されており、同様の施設の中では万全の態勢を敷いていたが、事件を未然に防ぐことはできなかったのである。
 そして、5月8日に大津市で起きた園児死傷事故もそうだが、通園・通学・散策する日本中の幼い子どもたちですら、四六時中ガードすることは不可能であり、もしやるならば、ちょうど訪日していたトランプ大統領のように、莫大な予算を投じて警護を徹底しない限り、すべての不測の事故に備えることは不可能である。
 また、人を見た目だけで凶悪犯罪を起こしそうな人と判断するのは不可能であり、全く知らない普通に見える人がいつ、さらには、どこで凶行に及ぶかなど誰にもわからないし、また犯人も人間である以上、防犯する側の隙(すき)を当然衝(つ)いてくるのである。

 つまり、「徹底的に防犯体制が敷かれているところを襲うはずがない」のである。

 今回の事件では、若い外務省職員と小6女子という痛ましい犠牲が出てしまったが、このような事件を未然に防ぐには、むしろ、「なぜこのような、ねじ曲がった性格で、他人に対して赦(ゆる)しのない人間が日本中に多くいるのか?」という道徳の問題の方がまったく先なのである。

 報道によれば、近隣に対して「(飼い犬の鳴き声が)うるせえんだよ。ぶっ殺してやろうか」と言ったり、「木の葉が目に入った」と言って朝の6時に近隣の家に怒鳴りこんで30分も抗議するようなクレーマーである。
 これは今年の元旦に原宿の竹下通りで車を暴走させて8人をはねた21歳の男もそうだが、日常生活において極端に社会性(哲学・社会学で言う「道徳」)がなく、自己本位的であり、「自分のことしか考えていないタイプ」である。
 

 残念ながら、戦後一貫して影響力を持ってきたテレビが道徳の必要性を全く知らせない(朝日新聞に至っては否定してしまっている)以上、日本社会にはこのような人がそこかしこにいると思った方がいい。
 現に人格障害、統合失調症の人の中には、人に対する慈しみの心はおろか、これらの犯人のように他人に対する配慮が皆無であり、極端に自己中心的な考え方しかできない人を私はたくさん見てきている。
 

 否、日本の場合は統合失調症でなくとも、「極端に自己中心的で社会性のない人」に限って言えば、団塊ジュニア~80年代生まれの女性に至っては、「ちーがーうだろー」の豊田真由子(以下、敬称略)や「くたばれ、レッズ」の上西小百合など、国会議員にすらこのような人たちが存在するのである。
 これは彼女たちだけが悪いというのではなく(まして私はこの世代で彼女たちよりももっと道徳のない女性たちを見てきたから)、むしろ道徳を排除してきたメディアによって、社会全体が「道徳退廃による混沌状態(アノミー)」となり、そうなっているのである。 

  そしてこのような事件を未然に防ぐには、国民に対するその場のアピールの自己満足に過ぎない「防犯」よりも、むしろ道徳の問題の方が先なのである。 

 確かに防犯に関して言えば、銃や爆発物で言えば、「犠牲者を最低限にする」という観点からは重要であるのだが、日本のこうした道徳のない人たちによる刃物を使った通り魔的な事件の場合は、それはあまり当たらないのである。

 

 つまり家で雨漏りがしているのに、家の中で無限に雨水を受けるための桶だけを増やすようなこと(防犯)をしていて、雨漏りの原因である屋根の修繕をする(社会道徳)ということに対して、日本人の誰もが「全く」関心がないのである。

 

(防犯の必要性だけを強調する政府とメディア 2019年 5月29日 TBS 「ひるおび TBS NEWS」)


 日本の政治家、自治体、官僚、メディア、学界のすべてが道徳に否定的であり、事後的なことにしか興味がない以上、こうした事件は後を絶たないのである。
 これらの人たちが、口だけでは犠牲者に哀悼の意を示すつつも、何ら道徳的な対策を打たず、つまり犠牲者の死を無駄にしてし、時間が経てば忘れてしまうのである。

 そして、私が言いたいのは、これだけ用意周到に計画性を持って犯行に及んでいる以上、犯人に「理性はある」のである。
 よって、「理性的な最低限の社会道徳の必要性」を植えつけていない日本社会、とりわけメディア権力の責任であり、失策である。

 「戦後教育に謝ってほしい」と言い、道徳に否定的なメディアと戦ってきた曽野綾子さんの言う「子どもは悪いから学校に行くんです」という言葉をもう一度思い出してほしい。


 逆に言うなら、もし犯人が自らが、凶刃を加えた子どもたちが通っていたキリスト教カトリック系のカリタス小学校に通っていたら、学校で学んでいて頭の片隅にある道徳倫理、キリスト教のベースである「赦しの心」と良心の呵責(かしゃく)から、このような事件は起こさなかっただろう。

 また、犯人にはカリタス小学校に対する歪んだ嫉妬があったとも報道されている。
 

 この事件は、普遍的な道徳を放棄した戦後教育とメディアによって、起きるべくして起きてしまったのである。

 アメリカでどんなに凄惨な銃乱射事件が学校で起きても銃規制に全く取り組まないの同じくらい、日本の政治家、自治体、官僚、メディア、学界は道徳には取り組まない。 

 

 

 

 

■「戦後の道徳退廃と社会衰退のモデル2」
 

   


 それでは図を解説していこう。

 戦後以降は、西部邁(にしべ すすむ)が指摘しているように、メディア権力と、田原総一朗を始めとする左派のジャーナリストや戦後知識人による道徳排斥が顕著となった。
 中でも朝日新聞は一貫して道徳を攻撃し、犬猿の仲だった橋下徹も「道徳嫌い」という共通点で系列のテレビに出すほどだった。
 ただ朝日新聞だけが悪いというのではなく、私が記憶する限り、道徳を排除していない大手メディアは存在しないので、「すべてのメディア権力に責任がある」と考えていい。
 私が知る限り、テレビで道徳の必要性を言った(言うことができた)のはナベツネさんだけである。

 曽野綾子さんや美輪明宏さんですら、テレビで道徳という「言葉」をあえて使わない(使えない?)のである。

 これによって日本人の道徳崩壊は一気に進んだ。
 

 それは道徳を否定する人が大半である70代の全共闘世代・団塊世代による高齢者犯罪が激増している事実を見ても明らかだろう。企業によるこれらの世代のパワハラも後を絶たない。
 鳥越俊太郎(79)、広河隆一氏(75)など、人権派ジャーナリストによるセクハラも多い。

 

(2018年 12月27日 日刊スポーツ/2019年 5月30日 TBS 「ひるおび TBS NEWS」)

 

 5月30日には元在イラン大使である72歳の男が在職中に部下にセクハラをして、強制わいせつで書類送検された。
 このように、日本ではほとんどすべての哲学者が重視する「道徳」が敗れ去って、右寄りの少数派で道徳を重んじた三島由紀夫が腹を切り、マルクスの唯物主義を信奉する左翼の全共闘世代が天下を取ったのである。
 そしてカラーテレビの普及に伴い、「人格障害という病気が突如として現れた」と宮台真司は指摘する。

 但しテレビの悪影響については、それに関する統計を持たないため、宮台氏は否定しているが、作家のカレ・ラースンは、テレビの悪影響についてアメリカで取られた統計を元にその悪影響を指摘している。

 その後、日本はアノミーという混沌状態に突入した。
 アノミーが顕著になったのは「80年代の終わりから90年代の初め」と私は見ている。
 つまりバブルが崩壊してデフレに突入し、日本経済が一気に停滞して、大企業が労働者を安く買い叩き、リストラや夜逃げが相次いで、また宮台真司いわく「女性がコミュニケーションの主導権を握ってしまった(稀少価値があって道徳をしつけられていない女性が、自らの好悪の情によってしかコミュニケーションを取らなくなり、社会性が希薄になった)」あたりからである。

 稀少価値のある一部の女性による「排他的自由」が完全に確立してまった時代である。

 文化人類学で「関係の宝」とされる女性がその役割を果たさなくなり、社会が閉鎖的になり混沌としてきた。
 児童虐待もその頃から急激に増加し始めている。
 自殺が増え、いじめ自殺が社会問題となり、極端な少子化になっていったのもこの当たりからである。 
 つまり平成であり、原発事故と度重なる震災とで、「完全な悪夢の時代」と言える。

 

 道徳が退廃した今の日本社会は「法治国家である」というだけで、他の国のような宗教倫理が何もないため、「バレなければ何をしてもいい」という、欲望だけの自然状態に等しい。
 すべての人間が、日本人が、道徳を否定し、「限りなくゴキブリみたいになってしまった」世の中である。
 そう言えば、「なんだ、ヒドイじゃないか」という人がいるかもしれないが、それは完全に他人事の考えなのである。
 なぜなら、川崎の事件で刺し殺された小6の女子や外務省の職員にとって、サイコとも呼べるこれらの残忍で自己中心的な犯人や、社会から道徳を排除することによって、サイコを放置・助長してきた無知・無思想・無哲学な左寄りの戦後知識人やメディアをゴキブリと形容するのはあまりにも生やさしいから。
 そして、これくらい人としての最低限の社会性や行動規範のない、道徳の全くないやつはゴキブリだとか、あるいはベンサムの快楽主義の豚だと言って、少しでも道徳の必要性を強調しないと、何も知らない若者が簡単に特殊詐欺に走って、簡単に警察に捕まってしまう世の中なのである。

 事実、昨年上半期の特殊詐欺の摘発者全体に占める少年の数は、前年の上半期の倍になっている。
 なにせマフラーを改造したバイクに乗って未明の住宅街で騒音をまき散らし、ゴミの入ったコンビニ袋を道路やトンネルにまき散らしている筋骨隆々な少年たちに対しても、体罰は「法律で一切禁止」なのだから、前途ある彼らの未来のためにはこれくらい言うしかない。

 
 「他者に配慮し、人を愛する慈しみの心を持とう。」
 だが私も哲学に触れ、30代になるまではそのような心は皆無だった。
 若い頃は、他人をかわいそうと思うとか、いたわるよりも、「自分が認められたい」という気持ちの方が強かった。
 若いうちには口で言っても、そのような心は全く芽生えないものだ。
 美輪明宏さんの言うように、「本人の気づき」がなければダメなのである。
 ―であるから、他者に対しては、理性的で普遍的な道徳を説く以外ないのである。

 日本のメディアが日本をこのような世の中にしてしまったのである。
 つまりは今回の川崎殺傷事件も哲学者の私から言えば完全にマッチポンプである。
 なぜなら「報道しているテレビや新聞が起こしたも同然」だからである。
 現に彼らはそれを飯の種にしている。そういう商売なのだ。
 「ジャーナリズム」と言えば聞こえはいいが、国民の目と耳をふさぎ、道徳を封じて、そうした事件を起こしてくれた方が彼らには得なのである。
 次の項でも論じるが、日本のテレビ、新聞ほど、この世界で日本人にとって不謹慎で不利益なものはない。
 そして、このモデルから、川崎殺傷事件と児童虐待が同じ「アノミー」、つまり道徳退廃による混沌状態が原因で起きていることが容易に理解できると思う。
 

 ここで児童虐待について「貧困が原因だ」とするNPOの湯浅誠さんに対して反論したい。
 私は朝日新聞や他の左派論客のようには偽善的でなく、つまりイスラム国のような「自己正当化」をしない、道徳的な湯浅誠さんを尊敬している。

 だが児童虐待と貧困は100%関係ないと断言できる。
 

 なぜなら、児童虐待の原因は親の道徳の欠如が原因だからである。
 

 まず、飢饉のあった江戸時代に、今日のような児童虐待が多かったというデータはない。
 また、日本よりもはるかに貧しい国、ブータンでは児童虐待がほとんどないどころか、その逆であり、むしろ「幸福度ナンバー1」とまで言われている。
 つまりブータンには国教である南ドゥク派の宗教倫理があり、したがって日本よりもはるかに道徳倫理が行き渡っているので、児童虐待がほとんどないということがここに証明できる。
 日本のメディアの大勢(たいせい)を占める人権主義者並びにそれを盲目的に支持してしまっている人たちにも改めて道徳倫理の必要性を再認識してもらいたい。
 

 日本に必要なものは道徳であり、日本だけの社会秩序を破壊しようとして日本の各地で反対デモが起きている倒錯した「子どもの権利条例」や国連の内政干渉による体罰の法規制では断じてない。

 ポピュリズムや間近に迫る選挙のために「懲戒権を見直そう」という山下貴司法務大臣は万死に値する。

 この男は親が子どもをしつけることをやめさせようとしているのだ。
 

 但し、道徳のない社会や労働環境に苦しむ親たちが児童虐待を行っている可能性は十分にありうる。
 それはこのモデルにもあるように、道徳のない社会、アノミーの社会に生きることによって、つまり道徳的ではない人たちだけと接することによって、自らも道徳的でなくなってしまい、多くの親が児童虐待をしてしまうような「悪感情」に容易に支配される環境にある。
 今日の日本社会そのものが理性も道徳もない「悪感情」そのものだと言えなくもない。
 感情、つまり理性の反対である。スピノザは次のように言っている。

  
「感情を宥(なだ)め、抑えるうえでの人間の無力を、私は「奴隷状態」と呼ぶ。
 じっさいもろもろの感情に服する人は自分を支配する立場になく、偶運の支配下に置かれているからである。」

(『スピノザ エチカ抄』 佐藤一郎 編訳 みすず書房)


 それは、とりもなおさず、日本国民が働いている大企業自体に道徳倫理がなくなっているためである。
 また、大企業自体がテレビ・新聞のスポンサーでもあり、マスコミに道徳を封じ込ませている。
 だが日本のメディアや田原氏を始めとするジャーナリスト、戦後知識人自体が、最初から道徳を否定していて、また左傾化してしまっているため、すべてを大企業の影響と捉えるわけにもいかない。
 いずれにせよ、大企業やメディアに潜む全共闘世代の影響があまりにも大き過ぎたのである。

 また、確かに児童虐待の原因には、価値観の多様化や娯楽が増えたことも挙げられるが、但しこれらは「道徳のない価値観の多様化や道徳のない娯楽が増えた」と言うべきであり、価値観の多様化や娯楽に道徳があれば問題はなく、結局は道徳なのである。

 


 

 


■メディア権力は国民の敵 「露骨な偏向報道」

 

 

 

 道徳を否定するメディア権力によって、道徳のない電通の「鬼十則」による高橋まつりさんの過労死や、道徳のない企業でパワハラやセクハラが相次いだことで、法によって「企業の自由と裁量」が狭められてしまった―。
 無論、パワハラ防止を義務化した改正労働施策総合推進法に罰則はないが、部下の主観によっては、正当な指導が違法行為とされる恐れがあることに変わりはない。


 「リベラル」なはずの大手紙が戦後70年道徳を攻撃し、道徳に否定的な御用(ごよう)学者の能書きしか掲載せず、日本社会の道徳を破壊して、企業のパワハラやセクハラを社会問題化することで、法権力の拡大に寄与し、結果的に日本人の自由を阻害している。
 「自由」を第一義とするはずの朝日新聞が、恥ずかしげもなく、厚顔無恥にも、自由を狭める国家権力の拡大を堂々と掲載している。
 朝日新聞は自由やリベラルを「自己正当化」に使っている偽善的な新聞であり、辺真一(ピョン ジンイル)さんは「(韓国の)東亜日報と朝日新聞が姉妹関係である」と言っているように、朝日新聞は純粋な日本の新聞社ではない。
 ましてや東亜日報が日本を批判することはあっても、朝日新聞が韓国を批判することは絶対ない。

 日本の海自のP-1哨戒機が韓国の駆逐艦にレーダー照射された時も、朝日新聞は韓国を批判しなかった。
 そんな朝日新聞に比べれば、東亜日報の方がまだ親日なくらいであり、「大の日本人嫌い」という金漢一さんという記者も朝日新聞にはいるが、朝日新聞はどんなに控えめに言っても「東亜日報の反日的な日本支社」である。
 
 そして、今「メディア権力は国民の敵である」という最たる事実をここに示そう。

 それは4月21日に衆院沖縄3区補欠選挙で当選した屋良朝博衆議が、沖縄タイムスの編集部長だった当時、部下だった女性の契約スタッフに対して、2002年からの長期間に渡って悪質なパワハラ、不倫、セクハラを続けてきたことが明るみに出て、同氏の若い女性に対する飽くことのないパワハラの嵐に、電通の高橋まつりさんを思い出すが、否、それよりも悪質と言えるような編集部長の契約スタッフに対する性的関係の強要があり、まさに現代版の「性奴隷」と形容しても過言ではない。

 立場の弱い若い女性の人権を踏みにじる、誠に以て許し難い、道徳のない話であり、彼を選んだ沖縄の有権者の責任は重く、真実に目を向けてもらいたいのであるが、なんと主要メディアでは一切報道されていないのである!

 その原因は取りも直さず、屋良議員が辺野古基地移設に反対しているためだ。

 そして彼は辺野古基地移設反対で山本太郎議員と盟友だったが、私が山本議員に言いたいのは、もしこのような事件を「反緊縮増税・反グローバリズム」でメディアと経団連、財務省を敵に回している山本太郎が起こしていたら、メディアで連日多くの時間を割いて報道されているだろうということだ。
 朝日新聞などの大手紙はもちろん、フジテレビの「バイキング」で坂上忍にも「僕も一緒に仕事したことありますけどねー」と公共の電波でネチネチと悪口を言われ、「グッディ」、TBSの「ひるおび」、「ゴゴスマ」…などの情報番組では、連日の山本叩きのメディアスクラムを仕掛けて、宮崎謙介議員のように議員を辞職するまで長く取り扱われるだろう。

 それくらい「同じ辺野古基地移設反対」の国会議員に対しても、メディアの不公平、偏向報道というのはすさまじい。屋良議員には全く何もしないのである。
 
 山本議員は本当に屋良議員と親しいので、悪く思われるかもしれないが、これが私が尊敬する道徳的な弁護士である宇都宮健児氏であれば、鳥越俊太郎氏の女子大生に対する淫行スキャンダルを知れば、被害女性の人権を重視して、都知事選ではあえて味方である鳥越氏の応援に入らないのである。
 そして、屋良議員によって長期間パワハラとセクハラを受けた女性の立場に配慮できるなら、山本議員も私情を挟まず、彼も尊敬している宇都宮健児弁護士の道徳的な姿勢を理解してほしい。
 そして日本の皆さんにはいかに日本のメディア権力が腐っているかを再認識し、大企業、経団連の言いなりであるテレビや新聞に好感を持っては「絶対に」ならない。
 
 無論、私は辺野古基地移設には賛成の立場であり、事実、中国は多くの核ミサイルを日本に向けており、また、5月26日のニュースでも、機関砲を搭載した中国海警局の船4隻が45日連続で尖閣周辺の接続水域を航行しており、連続日数の過去最長を更新しているのである。

 つまり多くの国民にとって、辺野古基地移設反対であり、反緊縮増税・反グローバリズムでもない屋良朝博議員の存在は重要ではないのだが、メディア権力はそのような政治家だけを守るのである。
 そして、日本の皆さんがそこまで人権主義やフェミニズムを言うなら、深刻なセクハラが、野党や人権主義者側に多いことをぜひとも肝に銘じてもらいたい。

 

<主な左派著名人、人権派ジャーナリストのセクハラ、性犯罪>
国会議員: 初鹿明博(立民)、青山雅幸(元・立民)、屋良朝博(ほとんど報道されず)
ジャーナリスト: 鳥越俊太郎、広河隆一、菅野完(著述家、書類送検)
 

 しかし、彼らに対しては朝日新聞、テレビ朝日、野党の女性議員プラス柚木道義が仕掛けた「Me Too運動」は起こらないのである。

 このタイミングで人権主義のメディアは、ヒステリックに桜田元五輪相の失言ばかりを追いかけ回して、かたや部下にセクハラをして強制わいせつで書類送検された元在イラン大使の72歳の男とほとんど同様のことをしている屋良朝博議員の罪を完全に免除しているのである。

 

 人権主義のメディア権力が、沖縄タイムス中部支社の契約のスタッフだった女性の人権を守ることは一切ない

 

 

 

 

■堤未果さんの名著を読んで「日本終了宣言!?」 日本国民は完全に切り捨てられた。

   
 (堤 未果 著「日本が売られる」 幻冬舎)


 自民党や維新の若い支持者には未だに理解されていないが、国会では山本太郎以外は全員「職業政治家」というのが嘘偽りない真実である。
 政局だけに関心があって、政治に関心がない人たちの中には、「山本太郎」という人間だけで彼や彼の支持者を叩く人がネットには余りにも多いが、山本太郎はすでに三橋貴明、安倍政権の内閣参与だった藤井聡、そして自民党の安藤裕議員と対談し、日本を売らないという「反グローバリズム」と日本国民の貧困化を食い止める「反緊縮増税」という政策面において意気投合している。

 確かに自民党は、日本を守ってもらうことの日米同盟の強化や憲法改正のために、バーターでアメリカ企業や日本の大企業の言うことを聞いているのかもしれないが、このままで日本は完全に終わってしまう。

 

 彼らの怒りの矛先は私のような山本支持者ではなく、むしろ小泉進次郎に向けられるべきものである。だが残念ながらその中には頭が良くない人たちも多い。


 「日本が売られる」の著者、堤未果さんによれば、このまま行けば、労働者の誰もが、国会議員でもない竹中平蔵らの産業競争力会議によって進められた「高度プロフェッショナル制度」によって、「過労死」にすらカウントされずに、労働時間の「規制なく」働かされる奴隷となり、さらには「令和おじさん」が大企業のために推進する「外国人労働者50万人計画」が進められれば、日本の労働者もそれに合わせて低賃金になるという。
 また、安倍政権による日本国民の消費と日本国内の内需とを無視した、このような移民政策と、観光政策が続いて、外国人がたくさん流入すれば、窃盗などで治安が悪化するのはもちろん、日本中の歴史的建造物や神社仏閣、公共施設などの落書きも至る所で散見されるだろう。物理的にも日本が破壊されていきそうである。

 

 そして菅義偉にはたらきかけて外国人労働者を入れることで得をする大企業の法人税だけがガッツリ減税されて、つまり消費税のある一般国民よりも圧倒的に優遇されて、もっと言えば法人税減税の穴埋めを一般国民がすることになり、格差が拡大しつつ、利益を上げている大企業だけが446兆円もの莫大な内部留保を貯め込む事態となってしまった。

 

 そして、このままでは「日本が終わる」ことを誰も知らない。
 

 それは西田昌司議員によれば、大企業だけにお金が貯めこまれているので、デフレが永遠に終わらず、さらには大企業がお金を借りる必要がないので、投資も増えず、いずれお金を貸す先のない銀行が連鎖倒産して、かつ永遠にデフレから脱却できないのだという。

 それならば法人税を増税するか財政出動するしかないのだが、お金を貯め込む大企業、経団連の言いなりである安倍政権は、当然法人税は増税せず、また財務省の言う「ありもしない国の借金問題」、つまり日本国民を破滅へといざなう「PB黒字化目標」によって、緊縮財政と消費増税の路線を維持していく―。

 

(2019年 4月13日 朝日新聞)
 

 そして三橋貴明によれば、それはすべて外国企業や竹中平蔵のようなグローバリストのためなのだという。

 つまり、本当は日本はいくらでも財政出動できるのに、「緊縮でお金を使えない」という状態をあえて「でっち上げて」おいて、竹中平蔵などの民間議員が「じゃあ規制緩和して、小さな政府で、お金がかからないように民営化しよう」と言って、自社の利益のためだけに、国や自治体が運営してきた公共サービスに、民間企業がPFIの公共ビジネスとして喰らい込み、競争原理を持ち込んで、弱肉強食にして、公共サービスから貧しい人を切り捨てて、かつ企業の利益追求のために高コスト化しようというものである。
 また、橋下徹の「身を切る改革」で、市役所の窓口が竹中のパソナの派遣となり、日本人の賃金を下げて、さらには新自由主義の橋下徹によって関空が民営化されてしまい、おいしい蜜を吸いに来ただけのフランス企業が日本語を学ぶ気もなく、台風の対策ができずに、結局は国交省が出て来る羽目になり、支障をきたしているというのである。

 4月13日の朝日新聞でも、竹中平蔵は「社会保障費を削れ」と言っているが、つまり政府がお金を使わずに「緊縮」で、「民営化、規制緩和」に持ち込もうとしているのである。

 民営化と言えば聞こえはいいが、ただ単に公共を無視した「企業の金儲け」である。

 水道民営化では、たとえ人が住んでいても、採算の取れない地方に水道管を引くことはない。

 そして、このままの流れで、日本の消防署が外国企業によって民営化されれば、民間企業はお金を払っていない家の火事を消さないと三橋貴明は言う。

 また、少子化と水道管の老朽化で、ただでさえ右肩上がりで値上げされている水道まで民営化されれば、情報開示義務のない外国企業がコンセッション方式で、しなくてもいい日本の水道の運営と管理「だけ」を担うことによって、日本の水道料金はいいように急騰するだろう。

 

   

    (2019年 4月27日 朝日新聞)


 そして自民党が野党時代には断固反対していた、「グローバル企業に日本の主権を譲り渡す」TPPを推進し、つまりTPPの規制整合性小委員会が日本の憲法の上に立つことになり、種子法廃止、小泉進次郎が難癖(なんくせ)をつけて「改革」を進める農協の解体、農業の株式会社化、さらにはカーギルによる全農グレイン買収で、日本の農業は大きな打撃を受け、地方も疲弊して、日本の食料安全保障は完全に崩壊するだろう。
 

 また、グローバリズム以外の分野でも、無国籍の左翼が跋扈(ばっこ)する国連の内政干渉によって、左翼メディアを席巻する人権主義の知識人の下、各地で反対デモが起きている「子どもの権利条例」に続いて、日本だけが「体罰が法で禁止」されて、クレヨンしんちゃんの両親のような親が逮捕されて、しつけられない若者が道徳をしつけられず、視野が狭いまま、次々と特殊詐欺に走って一網打尽に逮捕される。
 安倍政権は一言で言って「ナイトメア(悪夢)」であり、売国に加えて、自国通貨を発行できるにも関わらずギリシャを目指しつつ、未曾有の貧困化と格差社会とをまっしぐらに目指している。
 

 大企業の役員か所得税の累進が弱められる年収1億円の収入がある人でもない限り、日本国民が自民党に投票することは「完全に」自殺行為である。

 

 そして、安倍首相によって年金が海外の株式市場に投入されてしまい、かつてのような財政投融資もできない。ゆうちょ、年金、NHKの受信料(ロシアワールドカップの放映権料600億円)が海外にプレゼントされてしまっている。
 

 そして正直、財務省と竹中平蔵のために緊縮の「でたらめ」ばかりを書く朝日新聞には開いた口がふさがらない。

 新聞業界だけが恩恵を受けるたかだかの軽減税率のために、財務省におもねって、財務省のスポークスマンに成り下がり、「国民の味方ヅラ」をしながら、日本国民の絶望的な格差拡大と貧困化へとこの国を誘(いざな)おうとしている。

 今どき、「自国通貨建ての国のデフォルト」を否定している財務省がでっち上げた「国の借金問題」という与太話に「便乗」して、あるいは真に受けて、政府を家計と同じに見るなんて、朝日新聞は完全に頭がどうかしてるんじゃなかろうか?

 すべての新聞業界は財務省を敵に回したくはないのだ。

 

  (2019年 5月15日 朝日新聞)

 

「日本は家計と同じような…仕組みじゃないんですね。

国家ですから、…そもそもお金自体を自分で刷れるんですよ。

中央銀行が日本の円という通貨を発券…発行する権利を持っているんですけれども、「日本銀行の資本金は1億円(日本銀行法)」の会社ですが、その100%財務省が持っているわけですね。

つまり財務省の子会社なんですよ。

つまり政府と一体と言ってもいいわけなんですが、そこが通貨発行権を握っていると。

かつ財務省自身には…必要なお金は国民から有無を言わさず、徴税できる権利がある。

一般のサラリーマンのように「50万円のお金で、50万円の生活をしなさい」じゃなくて、そもそも今国家に必要な物があれば、それは自由に通貨を発行することによって用立てすることもできるし、また必要な財源があるなら、民間からそれを回収して、また用立てることもできる。」

(「財務省はなぜ日本弱体化させるような政策を強行するのですか?」 週刊 西田一問一答 2018/05/08)

 

 そして、西田昌司によれば、「消費税はバブルの頃のような好景気とインフレが前提でないと意味がない」という。

 デフレ期の消費税自体が国民を苦しめて「終わり」である。
 三橋貴明も、「消費税増税は需要縮小、物価低迷、経済のデフレ化をもたらす」と言っている。
 

 消費税は100%「ゼロ」しかない。

 

 それでも財務省と安倍首相は「10%に上げる」と言っているから、日本は確実に終わる。
 安倍政権は新自由主義で「小さな政府」を目指しながらも、経団連が掲げる消費税19%を目指している。

 国民を豊かにする「経世済民」とは180度完全に真逆である。
 

 そんな中、5月27日に日本国民をさらなる格差と貧困の地獄へと誘おうとする大企業群、経団連の中西宏明会長が体調不良で入院したという。

 国民の怨嗟(えんさ)の声が神に届いたのだろうか。

 

 小泉純(ゆうちょ)、安倍(年金)、麻生(水道)、小泉進(農協)の世襲はホントろくでもない。
 日本では世襲批判はタブーだが、プラトンとルソーは世襲政治を批判している。
 私は官僚出身の町村信孝と、弁護士出身の谷垣禎一を支持していたが、哲学的真理は曲げられない。
 

 あと、これまで述べたように、国政だけではなく、テレビも新聞も大企業の利益しか伝えないから、「日本にはもはや山本太郎しかいない」と言っても過言ではない。
 ただ、ネットをやらず、テレビと新聞の情報を信じて、完全に目と耳をふさがれている高齢者が3500万人もいて、投票率も高いから、高齢者が選挙前のお祭りに顔を出す自民党のろくでもない国会議員に投票して、このままでは日本は完全に終わる
 

 その事実を知っているから、自民党もマスコミも大企業も余裕でいられる。

 特殊詐欺を見抜けない高齢者が未だに多いが、「道徳のない政治」も新手の特殊詐欺と化してしまったのだろうか。

 

 

 

■道徳に関する三橋貴明・山本太郎への提言

 

 私は三橋貴明の政策をおおむね支持しているが、やはりどうしても腑に落ちない点がいくつかある。

 まず、それは社会保障の介護である。

 三橋氏は「生産性向上だけで終わり」という淡白な議論に終始してしまっている。

 それではあまりにも話がお粗末ではないか。

 そしてもし介護の問題がそんなにも単純で容易なら、介護の人手不足はとっくに解消されている。

 まず彼は介護を製造業と混同している節(ふし)があり、介護が直面する道徳倫理の問題点を考慮できていない。

 次に介護の「生産性向上」の中核である介護ロボットだけでは物理的に到底限界がある。

 

 

(2017年11月24日 TBS 「ひるおび TBS NEWS」)

 

 介護は人間を相手にするため、福島原発の廃炉のデブリ取り出しのための電気を使えない筋肉ロボットよりも生産性向上が難しいのである。

 2017年11月24日に老人ホームの25歳の男性職員が、83歳の入所者を風呂に入れていた時に排便したことに腹を立てて殺害して逮捕された。

 つまり、いろんなタイプの介護ロボットが開発されているが、入居者を効率よく入浴させるロボットはあっても、お風呂の中で排便された場合は、今ある介護ロボットでは全く手の打ちようがないのである。

 もちろん、いろんな方法論を駆使して、そうした事態を解消できるロボット(?)が登場してくるかもしれないが、お湯の張った浴槽に排便した状況(他にもこのような面倒な事態なら何でもいいが)を生産性向上によって元に戻すには相当無駄な開発費が費やされるだろうし、全国津々浦々の介護施設にこの設備を導入するには莫大な費用がかかってしまうのは言うまでもない。

 

 結果としては、生産性向上よりも「介護士の忍耐力」という対応に帰結してしまうのである。

 その方が話が早いのであるから。

 

 介護職とは、そうしたことの重労働の積み重ねなのである。

 私が言いたいのは、介護とは、「生産性向上」と一言で片付けられる話では断じてなく、入所者が人間である以上、「マンパワー」が必要なのである。

 まして、若い介護職員の場合は、道徳を教わってないため、悪感情を抑え切れず、自らの職場で取り返しのつかない、短絡的な犯行に走ってしまうのである。

 つまりは生産性などでは断じてなく、「道徳と忍耐力のあるマンパワー」であり、敷居がとても高いのである。

 また、介護福祉士だけで約50万人が介護業界を離れ、資格を生かしていないが、介護福祉士も人間であり、ベンサムの快楽主義の豚ではなく、「お金を積めば復職する」という単純な話ではない。

 つまり上述したように、介護職、否、介護そのものが敷居が高くて、キツい仕事であり、誰もやりたがらないのである。

 

 次に根本的な道徳の必要性について述べたい。

 まず前提として、三橋・山本両氏にわかってもらいたいのは、「多くの国民を苦しめる」と分かっていながら、竹中平蔵が派遣や「高度プロフェッショナル制度」でピンハネをしようと、レントシーキング(我田引水)をしようと、財務省の官僚が緊縮増税をしようと、完全に合法であるので全くどうすることもできないというのが事実である

 ましてや、誰もが道徳の必要性を認めないこの国においては。

 

 つまり、三橋氏がいかに正しいことを言おうとも、あるいは批判しようとも、官僚がそれに従わなければならないという法的権限はなく、まして官僚とは「人をアゴで使うために官僚になった」と言うように、「自分たちこそが一番優秀である」という信念を土台にして成り立っているような存在であり、すべては民間の有識者の声に耳を傾けるかという「官僚の道徳の問題」なのである。 

 

 そしてそうした、社会を顧みない自由を制限するのが、哲学、社会学、社会思想で論じられる「道徳」である。

  

「ある個人の行為が、…法定の権利を侵害するという程度には至らないにしても、…他人の幸福に対する当然な配慮を欠いている、という場合はありうる。
このような場合には、…世論によって処罰することは正当であろう。

…他人に対する優位を不当に、もしくは無慈悲に行使すること、…これらの行為は、当然に道徳的非難を受くべきものであり、また重大な場合においては、道徳的報復と刑罰とを受くべきものである。」
(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」岩波書店)

 

 無論、これは卑劣にも国民だけに消費増税を強いて、自らの法人税の減税を政府に「命令」する大企業、経団連にも言えることである。

 

 まず官僚と大企業とに社会を顧みる「道徳」を求め、それを逸脱するならば、道徳的に非難していかなければならないというプロセスそのものが日本では否定されている。

 

 つまり日本では有識者の誰もが、根本的な道徳の必要性をまったく無視しているので、全く何も変わらないというのが実情である。


 そして、安倍政権は446兆円の内部留保を持つ大企業の言うことしか聞かないので、これは社会思想家のルソーが批判する「特殊意志」による政治である。


 また、5月21日の参議院文教科学委員会で、山本太郎議員が厚労省の役人にキレていたが、戦後から一切の道徳が学校とメディアから排除されてしまったため、国一試験に受かった「優越感」という非道徳しか知らない官僚は、どこを切っても金太郎飴であり、その役人個人の責任とも言えず、つまり他の役人もすべてそのような回答をするのであり、事実「生活保護を受けている人は大学に行く必要がない」と言っている他の厚労省の役人もおり、また、和田政宗や蓮舫のような、無機的で道徳のない「官僚叩き」だけでは、官僚を敵に回すだけになってしまい、日本の政治を良くすることはできない。

 

 私が言いたいのは、一役人を叩くことは建設的ではなく、日本を良くするためには、哲学者が官僚に「道徳」を諭して、正しい仕事をやっていただく以外ないということである。

 

 

■6月2日 追加  「2019年6月2日までに起きた官僚による犯罪、不祥事」

 官僚もまた人間であり、彼らを叩くだけではなく、一般国民よりも先に、国民に影響を与える官僚、政治家、大企業、メディアに道徳教育することこそ、この国が瀕する社会衰退を克服し、かつ官僚に正しい仕事をしてもらう唯一の解決策である。

 日本の社会衰退の元凶は影響力のあるメディアとそのスポンサーである大企業であり、官僚一人一人はその影響下にいるに過ぎない。

  

 また、アメリカの大企業やグローバル投資家を批判する哲学者のサンデルや、同じくそれらを批判して、「ウォール街占拠」で有名な作家カレ・ラースンの二人が主著で強調しているのが「道徳」である。
 

 

■6月2日 追加

 

「『道徳は市場に勝てるか』
 …市場の論理が社会の隅々に入り込み、道徳や価値の議論が押されっぱなしでいいのかと問う。
 …危機はとどまるところを知らない。
 …市場については現実に迎合してしまった。
 共同体のつながりや道徳が損なわれてしまうという危機感は薄かった。
 …左派は公の場に道徳や価値の議論を持ち込むことにためらいがあります。」
(マイケル・サンデル 朝日新聞 2012年 6月7日)

「『怒り』が道徳感覚から生じているのなら、それは『大きな正義』を実現させることもあるだろう。」
「企業にはこころがない。魂も道徳心もない。
企業は、ひとびとを傷つけたり環境にダメージを与えたりしたとしても、後悔などしないし、自責の念にとらわれることもない。」
(カレ・ラースン著 加藤あきら訳 「さよなら、消費社会」)