11月27日 日馬富士暴行とモンゴル民族について  | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

11月27日 日馬富士暴行とモンゴル民族について
「3記事連続投稿」の一日目の記事となります。
 

 

■日本のメディアがモンゴル人同士のケンカ一色に。
 

 (日刊スポーツ 2017年11月15日、16日、17日、18日、20日、22日、24日)


 私のこの話題に全く興味がなく、今さら月並みな経緯に触れるつもりはない。
 しかし、政治家や官僚、メディア、民間企業、教師と警察官といった公務員の非道徳不祥事が相次いでいるのにも関わらず、道徳を排除してきた社会問題の元凶である日本のメディア、系列局の下世話な情報番組、スポーツ紙は、連日、日本社会にとってさほど重要でない日馬富士暴行の話題一色である。
 
 そもそもが貴乃花親方は対戦する力士同士が仲良くなると真剣勝負に支障をきたすため、「モンゴル人飲み会」を禁止している。
 もちろん、モンゴル人同士のモンゴル語によるやりとりで、親方が知りえない、相撲界にとってよろしくない交流を未然に防ぐというのもある。
 ところが貴乃花親方が自分の昇進以上にその昇進を喜んでいたという、第一の愛(まな)弟子が、たまたま一度だけモンゴル人力士の飲み会、それもモンゴル人以外も交えた飲み会に出席した際、鳴っていた携帯を止めようとしたという些細な理由から執拗に暴行されたという。
 まして、相撲道を「武士道」ととらえて、相撲道に対してひときわ愛着とプライドとを持つ貴乃花の怒りが収まらないというのもわかる。
 事実、貴乃花親方は謝罪に来た横綱日馬富士を完全に無視して車で立ち去った。
 同じモンゴル人である貴乃岩の意向はともかくとして、貴乃花親方が「協会ではなく、警察に一任する」という姿勢は変わらないだろう。
 
 つまり「モンゴル人同士のケンカ」と言っても、日本の中でも一、二を争う「武人」である貴乃花親方が間に入って、協会の聴取と示談とを難しくしているから、この問題は今後も長期化していきそうである。
 また、物を使っての40、50発という執拗な殴打、片耳が聞こえにくい、頭蓋底骨折の疑いなどから、暴行というより、殺人未遂に近いものがある。
 携帯電話をいじっていたことを厳しく注意するだけというなら、一般人でもケガを負わないような、アントニオ猪木の平手一発だけで済む話だから。

 日馬富士の横綱継続を求める声もあるが、結論から言えば引退するしか道はないだろう。
 なぜなら、これだけの事件を起こしておきながら横綱が継続できるなら、「横綱に品格などいらない」という事例を残すことになり、日本の相撲、横綱の品格を全否定することになるから。
 ただ、日馬富士を引退させるとなると、横綱から突如引退させられた朝青龍と日馬富士が、気質も近いだろうから、より近い立場となって、相撲界及び貴乃花親方に批判的なグループとそれを支持する世論がモンゴルにできてしまい、一方で日本に残るモンゴル人力士、横綱の白鵬と鶴竜、そして貴ノ岩など、モンゴル人力士の間でも軋轢(あつれき)が生じそうだ。
 

 そしてその白鵬も、今場所で関脇嘉風に寄り切られて、異例の物言いをつけ、不服の態度を取った。
 だが、そもそもモンゴル民族に品格を求めること自体が、彼らの民族を否定していることでもあり、完全に間違っているのだ。

 なぜ日本社会全体が、政治家、官僚、メディア、民間企業、公務員に「全く完全に」道徳がないのに、世界一の戦闘民族だったモンゴル民族にだけ道徳が求められなければならないのか? 
 そして、なぜ中川俊直や山尾志桜里のような、最上位の公人である政治家、国会議員には不倫が許され、一介の相撲取りだけが道徳的な態度を取り続けなければならないのか?

 そもそも日本人の誰もが髷(まげ)を結わえていないのに、満州族が267年も漢民族に辮髪(べんぱつ)を強(し)いたように、逆になぜ、道徳や伝統が崩壊した今の日本でモンゴル民族だけが髷を結わえているのか。
 

 無論、「郷に入りては郷に従え」であるが、その「郷」である日本の道徳や伝統がそもそも完全に崩壊していて、公人の誰にも道徳もなければ髷(まげ)もないし、サッカーなど、スポーツマンシップ的な競技に参加するモンゴル人が少な過ぎるためわからないが、そういった競技でも、スポーツマンシップを飛び越えて一番熱くなるであろう、世界一苛烈な戦闘民族の血を否定するのは、やり過ぎな気もする。

 

 たとえば、横浜の監督をやっているラミちゃんに、ラテン系の明るさが「球界紳士ではない」として、全面禁止するようなもの。

 逆に日本人も、サッカーの母国イギリスでは、「キック&ラッシュ」の激しさが求められており、シュートを打たない日本人の謙虚さが全否定されるようなもの。また、弱小チームにいながら「優勝を目指して頑張る」という、シュツットガルト時代の岡崎のコメントが、現実主義のドイツでは「ハァ?何言ってるんだ?」という反応だったように、そのような日本人的な意気込みのコメントも否定される。
 

 相撲は日本では神事としても、海外から見れば、スポーツなのか伝統芸能なのか曖昧であり、競技の強さや優越だけでなく、横綱に道徳的な品格まで求めるなら、歌舞伎の世界みたいに日本人純血主義か世襲で行くべきだ。
 

 そもそもなぜ横綱審議委員会の委員長はなぜあんなにもエラそうなのか? 彼の出身母体である毎日新聞の元局長が他人のカードで65万円を引き出したとして、11月10日に逮捕されたばかりであり、それらメディアの側の人間の不祥事の方が、一般国民に対して絶大な影響力を持つ「メディア権力」としては、絶対に許されないことではないか?

 田原総一朗や大谷昭宏もそうだが、客観普遍な社会道徳まで全否定してきたメディアの人間どもが、自分たちの主観を押し付けるのはとんでもない勘違いだ。






■世界一の戦闘民族であるモンゴル民族。

 モンゴル人とは、一言で言えば、「ドラゴンボールZ」に出てくるサイヤ人やスーパーサイヤ人だと言えば、私よりも下の世代にはわかりやすい。それくらい日本人とは違う。
 日本人が古来より聖徳太子の「和を以て貴(とうと)しとなす」の、平和主義的な農耕民族に対して、モンゴル民族は遊牧民であり、戦闘騎馬民族である。
 私に言わせれば、朝青龍に横綱の品格を求めるなぞ、中国史最強の武将とも言われる「三国志」の呂布(リョフ)に、横綱の品格を求めるようなものである。
 私の中では、朝青龍は「人中有呂布、馬中有赤兔」の呂布(リョフ)である。

1992年発行のパソコン雑誌における光栄「三国志III」の広告。中央が呂布。

 

 呂布は現在の内モンゴルの生まれであり、かつ漢民族において支配的な道徳である孔子の儒教倫理が全く微塵も垣間見えず、しかも漢民族と異なる次元の武の強さ、馬術に突出していた点から、モンゴル系、それも朝青龍に近いタイプの武人だったと大いに考えられる。
 そして中国の北西部の異民族と言えば、モンゴル系かウイグル系のどちらかであろうが、ウイグル民族はトルコ系であるので、モンゴル系であろう。
 
 かつてロムルスとレムスの孤児の兄弟がローマ帝国を興こしたように、モンゴル民族のテムジン(鉄木真)の兄弟も、他の部族に親を殺されて孤児同然だったところから始まり、ユーラシア大陸を席巻する広大なモンゴル帝国を興こした―。
 ロムルスは弟のレムスを殺し、テムジン(鉄木真)もまた、異母弟と言われるベクテルを殺すという苛烈さがあった。
 漢民族の中国はもちろん、今の中央アジア、イラン、イラク、トルコ、ロシアを平らげた。
 一北方遊牧民族であるモンゴルによって、広大なイスラム教圏が完全に絶滅、根絶やしの危機に瀕したのである。

 

 (「新世界史」 数研出版 より)

 


 当時のイスラム圏のホラズム朝は、イスラム教の原理主義的な性格からか、啓典の民(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒)ではないモンゴル民族の使節団を皆殺しにした。
 まるで現在のイスラム国を彷彿(ほうふつ)とさせる苛烈な処置だが、当時のイスラム諸国には精強なモンゴル帝国と外交交渉する機会があったにも関わらず、みすみすその機会を逃してしまった。
 
 さすがに十分な統治が効かない中東にまで出張る気のなかったチンギス・ハーンであったが、この悪魔の所業に烈火の如く怒り、そのチンギス・ハーンの代の間のうちに、朝青龍、白鵬、日馬富士といったような、今で言う横綱クラスのそうそうたる武将が率いる、一騎当千の精強なモンゴル騎馬軍を思いっきり侵攻させてホラズム朝をあっという間に滅亡させた。
 そしてモンゴル帝国は東欧に入り、ドイツ諸侯連合軍をワールシュタットの戦いで撃破し、ハインリヒ2世の亡骸(なきがら)を討ち捨てて、ドイツ・ポーランド軍を大殺戮した。
 ポーランド侵攻、ハンガリー軍撃破の一連の戦いによる死者は15万人と言われており、「ワールシュタット」とはドイツ語で「死体の山」という意味である。
 そして当時のドイツは、今の日本と全く同じように、国家としての国防意識が完全に崩壊していて、地方の諸侯が乱立し、皇帝に権限のない、完全にバラバラの分権状態の大空位時代であり、かつ国内の皇帝と教皇の争いにしか関心がなく、モンゴルの来襲を受けたシレジアという地方の公ハインリヒ2世の救援要請も無視されて、ハインリヒ2世と寄せ集めの少数の騎士団だけがその戦いに臨む有様であり、この大敗を受けて、ヨーロッパ世界は大混乱に陥り、戦いに参加しなかった王に対する批判が巻き起こった。

 しかし今の日本に酷似するドイツとポーランドにとっては極めてラッキーなことに、モンゴルの部隊は上杉謙信のように、戦いに勝っても本国から遠すぎる地を占領する意志がなかったので、ハインリヒ2世の遺体を討ち捨てて、15万人を虐殺しながらも、そのままバトゥ率いる本隊と合流するためにポーランドから撤退していった。

 当時のモンゴル帝国は今で言うなら、ロシアや中国のような競合国すらいない、圧倒的な軍事力を誇るアメリカ以上の一大超大国であり、かつFIFAランク1位のドイツにサッカーで圧勝するようなもの。
 時のローマ教皇すら、共通の敵であるイスラム教を抑えるためにモンゴル帝国に和を請うたほど(第1リヨン公会議)。
 またモンゴル帝国は、ハルハ河畔でもロシア諸侯軍を破り、ロシアをも1480年まで支配した。

1992年発行のパソコン雑誌における光栄「元朝秘史」の広告。



■日馬富士暴行こそ、モンゴル民族がモンゴル民族である所以(ゆえん)。

 繰り返しになるが、日本の相撲界、角界が、モンゴル人力士に横綱の品格を求めるのは、元寇の襲来で鎌倉時代の日本が存亡の危機に直面したときの、元寇のモンゴル人司令官である忻都(ヒンドゥー)に、日本古来の優雅さを求めるくらい荒唐無稽(こうとう むけい)で、スキャンダラスなことである。

 そして、13世紀のモンゴル帝国は本来、滅亡のしようがなかった。
 中国もロシアも中央アジアもイラン・イラク・トルコのイスラム圏も、完全にモンゴル民族の版図(はんと)の一部であり、モンゴルよりもはるかに文明の進んでいたヨーロッパ諸国でさえ全く眼中になかった。

 当時の世界と言えば、キリスト教のヨーロッパ諸国による「十字軍」と、イスラム諸国との対立、戦争がメインであったが、モンゴル使節団の無条件の大虐殺に「フザけんなよ、このヤロー」とブチ切れたモンゴル帝国が、「啓典の民も宗教も糞喰らえ」と言わんばかりに両文明とも完膚なきまでに平らげた格好である。
 それがいったいなぜあれだけあっけなく滅亡したかと言えば、ひとえに戦闘民族の悲しい性(さが)、道徳観の違いであろう。
 たとえば、日本で考えれば天皇の皇位継承を揺るがすような日本人なんておおよそ考えもつかないが、モンゴル帝国では、日馬富士暴行の内紛を見てもわかるように、皇太子が必ずしも皇位を継承できるわけではないのである。 

 たとえ皇太子であっても、各地方を治める戦功の大きい君主(ハン)たち、今で言う横綱たちが「オマエ、生意気だな。このヤロー」と言って、内部闘争を起こして、わずか25年の間に8人の皇帝が交替するほどであった…。
 事実、日馬富士暴行の気質がモンゴル民族になければ、モンゴル帝国が何百年も続いて、イスラム圏は完全に滅びていたかもしれない。
 そして無論、日本もいずれは元寇によって滅ぼされていただろう。

 つまり「日馬富士がホントに横綱としての品格があったなら、日本はない」のである。 

 「日馬富士暴行」こそ、日本人がモンゴル民族としての日馬富士を愛さなければならない所以である。

 少なくとも中東よりもはるかに元(モンゴル帝国)に近い日本は、他の国のように一時的に断絶して、天皇や執権もモンゴルに下って、別の歴史を歩んでいたのである。さすがにイスラム諸国みたいに「モンゴル使節団皆殺し」みたいなことはやらないので、従属させられたとしても、完膚なきまでに滅亡させられることはないだろうが。
 戦闘民族で、かつ日本みたいに秩序立って、品格があるんだから、モンゴル帝国の皇位もすんなり継承できて、やがては天皇を頂点に据える戦時の日本のようになって、少なくとも「自滅」によって滅亡する要素もなくなる。
 また、日本とドイツはそれぞれ東と西の端っこにいたため、本当に運良くモンゴルに支配された歴史はないが、それくらい版図を広げすぎたため、内政に疎いモンゴル民族ではさすがに治め切れなかったというのもあろう。
 やがてロシアでは、プーチンの名前でもある「ウラジーミル」大公国が、モンゴル帝国(キプチャク-ハン国)の下で優勢となり、モスクワ大公国となって1480年にようやくモンゴル帝国から独立し、また中国でも粛清・弾圧など、習近平によく似たタイプと言われる朱元璋(しゅげんしょう)によって、元は滅亡した―。

 つまり「横綱に品格がない」と言っている人たちは、本当に物を知らなさ過ぎで、中世においてキリスト、イスラムという二大宗教勢力を駆逐してきたことを誇りとする、一番それらの道徳とは縁遠い、少なくとも宗教的ではない、騎馬民族のエリートたち「だけ」に対して道徳を求めているというのは「的外れ」どころの騒ぎではないのである。

 そもそも相撲を中継するNHKも、横綱審議委員長の出身母体である毎日新聞を始めとするメディアも、相撲の原点である古事記も、内心の道徳とされる品格も、意図的に封殺してきた。

 つまり神事やら品格といった道徳については、当の日本人に全く知らされていないし、日本神話と道徳について、メディアでは絶対に知ることができないようにしているのである。

 日本の相撲界にはモンゴル民族のエリートが来ているし、11月25日のサッカーのAFC決勝には、アラブ世界とイスラム教の盟主サウジアラビアの代表が多数所属するアル・ヒラルのメンバー、アラブ民族のエリートも来日して浦和レッズのイレブンと真剣勝負を行った―。
 スポーツを通じて、世界中の民族とは、それぞれの民族性を尊重して共存、交流し、切磋琢磨していくべきである。
 哲学も道徳も歴史も何も知らなさ過ぎる、メディアに出るような旧態依然の日本人たちは目を覚ますべきである。

 呂布、チンギス・ハーン、朝青龍…。
 「個の武」、ただそれのみの追求こそ、モンゴル民族の真骨頂である。

 行司に対する物言い、不遜な態度こそ、

 一つの戦いもない平和すぎる江戸時代と戦後の日本とは完全に対照的な、
 過酷な大陸での、生き死にを賭けた「勝ち負け」と、
 「一個の武」にこだわる民族の血、アイデンティティーである。
 
■11月29日  追記

 皆様から頂いたコメントにも書かせていただきましたが―
 
 不祥事が相次ぎ、横綱審議委員会がなんら責任を取らない今の相撲は、他の格闘技のような興行(巡業)にせず、お金を取らない「神事」に徹するべきである。
 お金を取ってビジネスにして、強さを競わせる以上は、プロスポーツであるから、外国人にとって、神事というあいまいで、日本的な品格に内心まで服させることは、出身国のアイデンティティを否定することになりかねないので、伝統芸能以上に、帰化した人だけか純血主義にすべきである。
 見た目が同じ黄色人種だから、日本人に近いと勘違いしている人が多いが、歴史的に見ても、白人・黒人よりもはるかに戦闘的であり、野生の虎に、それこそ縄をつけて、無理やり飼い猫として飼おうとしているようなものだ。
 一番言わなければならないことは、「横綱以下は(一段ちがえば)、虫けら同然」という、そんな非道徳がまかり通るなら、相撲は神事だけで十分であり、ましてや神道を全否定するNHKだけを潤わせるような、今の相撲なんてなくてもいい

 そして、そういう相撲界の体質が白馬富士をおかしくしたのだと。

 そもそもが横綱の「品格」という概念は、スサノオであったり、兄を殺したヤマトタケルノミコトを、引いては何でもありの神道そのものを否定することにはならないか?
 日本神道とは「品格」という、書かれた概念・制限を全否定するものであって、形式主義だけの薄っぺらいものでは断じてない。
 なんかイスラム教のような、自由のない、自然ではない、反神道的なものになってはいないか?
 女性でも何でも土俵に上げていいというのが神道だと私は捉える。

 

 

(「蒼天航路 15」王欣太・李學仁 講談社より)

 関羽は、呂布と互角に戦った唯一の武将であり、「道徳天尊」の老子を頂点とする道教の世界において、今でも神として祀(まつ)られている。中国は共産主義化・現代化して、儒教・道教を排しているので、関羽のような精神性の人はもういないが、日本のゲームやマンガの中のヒーロー、そして「道徳」のルーツである道教の神として崇められている。

 

 白馬富士は本日謝罪し、引退を表明したが、相撲が全てでは全くないし、無理に肉を付けずに、若くて細いころの本来の白馬富士の姿に戻って、すでに相撲では頂点を極めたのだから、日本の相撲界という狭すぎる世界から飛び出して、外に視野を広げ、総合格闘技などの新しい人生を歩んでほしい。

 

■12月1日 追記

 

 角界に対しては、大変厳しいことを書いたが、2007年の時津風部屋の力士暴行死事件、2015年の熊ケ谷親方による一般人の付き人への暴行など、極めて重大な不祥事を起こしており、また、YOSHIKIさんが国技館を訪れたときも、YOSHIKIを知らない52歳の世話係に叱責されて、見た目の雰囲気が気に食わないためか、命令口調で怒鳴るなど、外の社会と隔絶された、非道徳的で横柄な態度、無理解な姿勢、体質が目に付いて、正直全く良い印象を持っていない。私個人は、道徳家として、人としての謙虚さがない業界の人たちを好きになることは「絶対に」ない。「絶対に」だ。ただ、私の曽祖父は力士だったらしいという話を高澤家では伝え聞いているので縁がないわけではないが。

  

 また、「横綱から見て下の番付の力士は虫けら以下」という表現も、たとえば日本人なら、演歌界の頂点に立つ大御所、北島三郎さんを思い浮かべれば、楽屋に控える「雲の上の存在」、「威厳のある人」、「オーラのある人」と連想できて、あくまで「ビッグスター」というだけであって、北島さんは威厳はあるが、いい人であり、そういった純粋な意味での「格の違い」だけが印象に残るが、モンゴル人は当然日本の芸能界を知らないので、「虫けら」という表現を聞いて、自分が雲の上の存在、神様のような存在になってしまったら、下の人たちをホントに虫けらだと思って、ボッコボコにしてしまったのかもしれない。

 そういう文化の違いがあるのだと私は思う。そもそも相撲界は歴史を紐解いて見ても、品格のある横綱は相当少ないらしく、よって、朝青龍や日馬富士が手本とすべき横綱もいなかったわけで、わかりようがなく、相撲界を本気で改革したいなら、一番道徳教育が必要な業界なのかもしれない。

 でも、「道徳全否定」の日本のマスコミ関係者が横綱審議委員長をやってるんじゃ望み薄だ。

 

 

 

■12月3日 追記  伊吹文明先生吠える。


(2017年 12月 1日 日刊スポーツより)

 私のプロフィール欄でも、唯一献本のご返事を下さった方として、ご紹介させて頂いている自民党の超大御所国会議員で、元衆議院議長の伊吹文明先生が横綱白鵬の優勝インタビューに苦言を呈した。
 

 10年前。第一次安倍政権の2006年に、社会的な大騒動となった中学校のいじめ自殺問題でヤンキー先生がテレビに出まくっていたとき、私は寝ずに考えた「いじめ加害生徒出席停止案」を当時伊吹文明先生が大臣だった文部科学省に提言して、同省よりご返事いただき、教育再生会議でも本案が一時取り上げられた。
 そして、その旨をご説明して献本し、閉会中審査で多忙の中、ご返事を頂いた―。
 そんな伊吹先生だから、「道徳の必要性」については、人一倍感じていらっしゃるらしい。

 一方で、私は白鵬の行司に対する物言いについては、「過酷な大陸での、生き死にを賭けた勝ち負けにこだわる民族の血」として、弁護した。そして、伊吹先生もその点については声を上げなかった。
 つまり、そういった勝負に対するこだわりの民族性は尊重しているのである。
 

 だが日本人力士は、まして横綱なら、白鵬のような物言いや不遜な態度はまず取らないから、やはり、日本人力士との気質の違いというのは明確にあるのである

 だが、日本の相撲における横綱の品格とは、おしなべて日本人の美徳である「おおらかさ」や「謙虚さ」が求められている。
 だが、白鵬は横綱を、神様みたいな存在だからとして、「権威」や「権利」と勘違いしている。
 これは、琴欧州のような優しい性格の力士でなければ、日本以外のすべての外国人がそういう思いを持つのかもしれない。
 私は横綱白鵬の優勝インタビューを聞いて、まるでプロレスラーのマイクパフォーマンスだと思った。
 無論、プロレスでも、協会や理事会の存在意義を無視するような非道は許されない。
 また、観客に万歳三唱をさせて、日馬富士の引退を回避させようとする自己本位的な行為は、完全に横綱の品格以前の問題である。
 百歩譲って、「日馬富士を引退させたくない気持ち」はわかるが、暴行の場に同席していて、暴行を止めなかった白鵬の監督責任は極めて重いものがある。
 また、暴行を止めなかったことから、白鵬が黒幕という噂も出ているが、もしそうなら、日馬富士は先輩である白鵬の意向によって、貴ノ岩に対して暴行をしたということであり、数十発殴っても、あれだけ俊敏な動きと腕力のある白鵬が全く暴行を止めなかったことも、つじつまが合う。

 但し、もしそうなら、これはモンゴル人同士の内ゲバ、私刑(リンチ)事件である。
 元より、週刊文春によれば、貴ノ岩は高校の恩師主催の会合に出席したところ、その席に3横綱がいて、「おびき出された」のだという。
 いずれにせよ、貴ノ岩と、その師匠である貴乃花親方が真相を知っているのかもしれない。
 

 私個人としては、せめて日本の力士に、道徳教育を徹底させて、品格が身に付くまでは、日本人純血主義を貫き、手本となる品格のある横綱が多数輩出されてから、そういう伝統を今から作り上げてから、せめて10年の間をおいてから、外国人力士を受け入れるべきと考える。
 モンゴル民族は大いに賞賛し、レスペクトするが、神事という前提がある相撲界にはやはりそぐわないのかもしれないし、今回の事件は相撲全体に関わることであり、極めて深刻である。

 他方、モンゴル民族は、相撲における「品格のリスク」を見据えて、そういう気質の違い、文化の違いから、何らかの事件や、突如横綱引退を余儀なくされたときのために、相撲以外の他の格闘技にも、視野を広げるべきだと思う。

 

 

 

 

 

三日連続投稿となります。

→ 三日目の記事は更新が遅れます。


明日11月28日は、「日本滅亡と『平和』という地獄/日本再生の道(仮)」投稿予定です。