5月30日 日本哲学会・総会報告/具体的な道徳教育と、いじめ撲滅について | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

5月30日 日本哲学会・総会報告/具体的な道徳教育といじめ撲滅について

■日本哲学会批判 ~形骸化した日本哲学会~

 

 5/19(土)・20(日)と国立の一橋大学において日本哲学会・総会が開催され、自宅から近いということもあり、今年は出席して有意義な時間を過ごさせてもらった。

 学会ネタはアカデミックで、とっつきにくいので、写真を入れてみました。
   

[JR国立駅前。私の住む西多摩からそう遠くないが、メチャクチャ人が多い。土曜は30℃超の真夏日で、大学のエアコンもまだ運転しておらず、暑かった。私の住む五日市線沿いとは違い、中央線沿いはオシャレだ(飛び込み自殺が多いけど)。あと、国立には私の大好きな稲川淳二さんのご実家があり、北口には人魂(ひとだま)が出るという怪談が…(省略)]


 日本の哲学界はぜい弱であり、本学会も法人ではないため、非常によくやっているが、近年、※男女共同参画推進を表明した政治性はいかんともし難い。
(※自著において問題点を指摘。男女共同参画だけに年 5,835億円もの予算を計上し、千葉の財政を著しく悪化させた堂本暁子知事の問題もあった。さらには80年代以降は「女性がコミュニケーションの主導権を握った」(宮台真司)と言われ「男対女」の構図ではなく、「モテる女VSモテない女」という女性間の構図と言われている。)

 また、学会のシンポジウムで主流となりつつある著名な古典哲学者の「研究者」の研究や、「哲学史家」の研究も、出席者のほとんどがその専門ではないため意義が薄く、その専門(?)の2、3人の先生が質問しても、その内容は実にマニアックなものであり、哲学者研究者や哲学史家のとりとめもない、本旨ではない「一語一句」にこだわって、過度に重視したり、重箱の隅をつつくような議論に終始してしまっている。

 研究発表もシンポジウムも、第三者から見て、大学の論文に相違なく、医科学などと大きく異なり、実社会に全く還元できない。
 実際、還元できる領域もあるにはあるが、道徳や宗教について同じことを言うにしても、近年増加した人格障害や「うつ」に言及した三島由紀夫やカレ・ラースンなら一般の方でもわかるが、学会は文体がアカデミック過ぎて、かつ社会情勢を無視して切り離した、無味乾燥した「学問のための学問」に相違なく、提題者が「哲学に未来はあるのか」と言われて笑いを取っていたが、一般の方にブログをお読みいただいて、かつ道徳のために本を出版させていただいた私の哲学には未来(道徳の必要性という意味で)があると確信するが、一般の人を全く巻き込めていない皆さんではとても難しいと思う。
 ただでさえマルクス主義やサルトルの時代と違い、民間での哲学に対する関心(必要性?)は皆無である。
 また、それぞれの先生方は私のようにプラトンから三島が心酔したバタイユまで何十人もカバーするという人はほとんどなく、諸先生方の専門とする古典哲学者の数が少なく、せいぜい4人である。
 無論、私は「広く浅く」であり、諸先生方は「狭く深く」なのだろうが、著名哲学者の研究者や哲学史家まで深く研究している時間がある人(今大会で言えば哲学史家ゲルーなど)がこの世にどれくらいいるだろうか。つまり研究の深さがそのまま視野の狭さと一般社会との乖離に直結している側面は否めない。
 

 一方、本ブログは一般の方にガンガン読んでいただくため(読まれてないか…)に、さまざまな工夫を凝らしている。
 ほとんどの教授が「卒論を書くだけのため」にてきとーに選んだ古典の哲学者一人だけをテーマにした※2 大学生のように、「専門」と称する特定の古典哲学者一人(もしくはその系統数人)に凝り固まっていて、哲学体系全体を見渡せていない。
 ※2 人種差別主義者のフリースの研究を発表している人もいたが、もっと重要な哲学は五万とあるだろう。
 たとえば、ヘーゲルを全く知らない諸先生方が哲学者と呼ばれていて、またヘーゲルを専門としている先生方でも、団塊世代という事情からヘーゲル哲学の核心である道徳を重視せず、「文学部に入って哲学を専攻するゾー」と考えたことなどただの一度もなく、全くの天性で自然に哲学書を読んで、ヘーゲル哲学の核心である道徳に精通して重視する私だけが(読む前から頭の中にある程度ヘーゲル哲学があったような私が)、「※市井の人だから哲学者とは呼ばれない」(少なくとも「学位がすべてダー」という日本の若者からそう罵られてしまう)ヘンテコな現実がある。

 私自身は学位にも哲学にも両方興味がないが、なぜか自然と哲学をやってしまっているという必然がある。 ※西洋の哲学者・思想家には市井の人も多い。

 今の日本哲学会は社会学者デュルケムが唱えた「道徳的・哲学的に社会衰退を克服する」というような社会的なテーマが全く皆無であり、よって私は本会の会員ながら「政府が援助すべき」とはとても大声ではいえない状況である。そう主張する先生もあったが、社会に還元されない学である以上、一般国民から見たら税金のムダ遣いに相違ない(皆さんは怒るでしょう? 天下りよりはマシだけど)。
 無論かつてのドイツやフランスみたいに同時代の政治に影響を与えて直結していれば話は別だが、歴史学に毛が生えたものというか、「哲学史をやるんだ」と自ら言ってしまっている時点でダメのような気がする。
 「アカデミック」や「専門性」と言えば聞こえがいいが、社会に全く少しも還元できないなら、日本哲学会それ自体の事実上の「疎外」につながってしまっている。
 また、橋下徹氏が「思想家、語る人は、語るだけで何もできない」と言ったが、こと日本哲学会に至ってはそれが当てはまってしまうのかもしれない…(情けない)。
 そんな中でも、哲学会でも名の通った納富信留(のうとみ・のぼる)先生の発表は、専門の古代ギリシャ、ソクラテス、プラトンといった出席者でもわかる古典哲学であり、非常に有意義なものだった(私は最初の哲学者は老子だと思うけど)。
 また今の日本に必要な道徳にとっては、日本哲学会はむしろ「敵」であり、「哲学が道徳のためにできることは何もない」と言われた高山会長が老学者に叱責されたり、朝日新聞の御用学者として有名な鷲田清一先生の道徳に否定的な言動(「折々のことば」のチョイス)が気になる。無論、古典哲学からレヴィ=ストロースに至るほとんどの哲学者・社会思想家・社会学者が道徳・倫理を主要なテーマとしてその必要性を強く主張していることは言うまでもない。 


 「また批判ばかり」と思われるかもしれないが、「学会員が全く何も考えない」方が学会にとって良くないし、「批判的な提言」としてアンケートにも書かせて頂いた。

 くどいようだけど、キリストはパリサイ人の「律法主義」や、ローマ皇帝崇拝を「批判」して磔になったわけだからね…。ムハンマドや日蓮上人も同じ。時代に迎合(げいごう)するだけの道徳家は道徳家ではない。

 ヘーゲル哲学の弁証法でも「正-反-合」とあって、反(not A)のプロセスがないと止揚しない。

 人は社会で挫折して、自己批判して成長するものだけど、私と同世代の一部の女性にはそれがないから、いつまで経っても、アイドル気分のままで、年を取ってから問題を起こす人も多い。ずっとしつけられないまま(批判されないまま)、自分を変えないから無理もない。美輪明宏さんの言うように、「泥だらけの大根を洗わず、調理せずにそのまま食え」と言っているようなものだ。
 

 先日は橋下徹氏と東国原氏を批判したが、そもそも今どき道徳的な政治家なんてほとんどいないし、それぞれ法務・行政改革大臣、総務大臣に一番適していると私は思う。彼らに対する私の怒りは、彼らが若いのに、政治活動をしていないことと、道徳に批判的であることだ。


    



■いじめ撲滅について


「いじめによる重大事態に該当せず」撤回へ 茨城 取手市教委


「おととし11月、茨城県取手市で、当時中学3年生で15歳だった中島菜保子さんが自殺しました。
両親は、女子生徒が残した日記や同級生の証言などから、自殺の背景にいじめがあったと訴えていますが、市の教育委員会は「いじめの事実は確認できなかった」として、去年3月、いじめ防止対策推進法に基づいた「重大事態」に該当しないと議決しました。」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170530/k10011000341000.html


 葛西りまさんといい、中島菜保子さんといい、道徳の退廃した日本社会が彼女たちを殺したのは疑いようがない。
 なぜなら、これらのいじめの加害生徒とは、法によっては裁かれず、道徳的な責任があるのみであるから。
 また、そのような道徳不在の日本社会こそが、極端な少子化で中学生が激減しているにも関わらず、中学生の自殺者数自体は増えているというパラドックス、「自殺スパイラル」を生んでいる。
 そして70年代より突如現れた「人格障害」なる病気や、うつも道徳の退廃と時期を同じくするように深刻化していて、重大な社会問題となっている。

 道徳を全否定してきたメディア権力は猛省すべきである。

 


■具体的な道徳教育とは「すべての人の心を大切にするということ

 自著で取り上げられなかった具体的な道徳教育の中身であるが、それは、「すべての人の心を大切にするということ」である。
 「これさえあれば大丈夫」という万能な道徳であり、簡単でラクである。そして、一見「自分ばかりが人に遠慮したり、気をつかったりして損をしている」かに見えても、反語的なヘーゲル哲学的にも、老子的にも、それが結果的に完全に自分のためになっているというわかりにくい(?)代物である。


 懐疑的で冷笑主義(シニシズム)な日本人には、「うさんくさい」とか、「宗教くさい」とか「陳腐だなぁ」と思われるかもしれないが(だから本には書かなかったが)、日本には全く宗教倫理がないので、私みたいなもんがこんなことを言わなければならないこの国の窮状をどうかご理解願いたい。
 これはきれいごとでも何でもなく、私自身の道徳的なモットーである。

 大切にする対象が「すべての人」というのは、「教育勅語」みたいに家族や友人に限らない
 無論、日本の団塊ジュニアから80年代生まれの、見た目だけで得をしてきたような、しつけられてなくて、理性が通じない女性にはほとんど無理な話である(でも私の知る限り、地域の文化や宗教倫理のあるカナダとインドの女性は、街中でも笑顔であり、無理ではない。この世代の日本はヒドい)。
 そもそも愛とは排他的なものであるから。
 無論これがカントの「定言命法」のように絶対だとは全く思わないが、「道徳」の中にある「制限」ではなく、「愛」の側面から言えば、おおむね真理であると思う。
 それはキリストのアガペー(全体愛)はもちろん、いろんな哲学から裏付けできると思うが、スピノザ、ヘーゲル哲学的にざっくり言うなら、「人の心=魂=無=全体=神=神の一部としての私」である。
 つまり魂は神の一部であり、少なくとも不可知であり、無である。
[追記] 死んだ魂は他者と一緒くたになるだろうから。ライプニッツのモナドの理論もあるが、生きている間だけ、一人の人間として肉体に魂が閉じ込められた状態になって他人と分離しているが、死ねば無へと解き放たれる。逆に一度死ねば、魂が無に解き放たれて、混ぜ合わさってしまったので元に戻らない(生き返れない)。人が死ねば、江原啓之さんが言う「グループソウル」になって混ぜ合わされると言えばわかりやすいか。

 無論、いじめをやるようなガキンチョにこんなこと言っても始まらないので、そういうガキンチョ(20代、場合によっては30代前半の粋がった人たちを含む。女性に関しては私と同世代もかな)に対しては「おまえさんたちは将来何になりたいんだい?」と逆質問したらいい。
 今の日本は戦国時代でも戦時でもないので、大半の日本人が商業、サービス業に従事せざるを得なくなる(高校時代に、私と同じ中学のヤンチャな男性がファミレスの「とんでん」で働いていたときは驚いた。水頼めないよ)。
 つまり、今あなたがいじめたり、バカにしたりしている他者こそがあなたの商品なり、サービスを買ってくるのであって、「すべての人の心を大切にするということ」がないと誰もあなたの店や職場に来なくなって、絶対に生きていけない。

 


「ヘイトスピーチ」も、「いじめ」も、「千葉小3女子殺害」も、全部朝日新聞のような道徳否定のメディアが原因。
 

 無思想な、非道徳な、朝日新聞に、田原総一朗に、ビタ一秒たりとも、だまされてはいけない。

 

 朝日新聞の個別的な道徳である「教育勅語」の批判は全く自由としても、彼らは道徳そのものを「教育勅語」と誤認、混同し、私がいくら言ってもいっさい聞く耳を持たない。

 よって、ヘイトスピーチも、いじめも、千葉小3女子殺害も、戦後70年、社会道徳そのものを、かたくなに否定してきた朝日新聞による「マッチポンプ」に相違ない。

    

  

 (朝日新聞 2017年5月27日)

 自著でも書いたが、成熟社会になって、「ヘンな人」が増えたのは道徳退廃が原因。

 

 (朝日新聞 2017年5月27日)

 

 「いじめ自殺」を商売にする朝日新聞
 いじめ問題に関しては、「道徳」を否定する朝日新聞と荻上チキ氏に対する批判を自著で書いた。

 逆に「いじめる側の心をなんとかしないといけない」と言った井ノ原快彦さんを大絶賛した。
 そもそも「無視」、「陰口」、「仲間はずれ」など、いじめの大半が合法であると認めておきながら、唯一、合法的な自由を制限することのできる「道徳」を否定するのは完全に論理矛盾である。
 また、いじめ自殺が社会問題化した時期にも、私からの道徳の必要性の提言には目もくれず、アイドルの感想だけを連日掲載して、書籍化して売り出していたし、甲子園に出場する高校のいじめの事件を取り上げないなんてこともあった。

  この紙面で書かれていることは、今までの「道徳教育批判といじめ相談窓口の一点張り」に比べればマシだが、ガンで言うなら一時的に痛みを消すだけのモルヒネ、鎮痛薬に過ぎない。
 このような従来の小手先の対策を打っても、いじめっ子の精神や、いじめる側の非道徳な集団心理はそのままであるし、いじめというガンを根治するには道徳教育しかないのである。

 そして、倒錯した性善説教育で、道徳をしつけられない子どもたちが、ゆくゆくは非道徳的な大人となって、場合によっては性犯罪、ストーカー、振り込め詐欺などの犯罪に手を染めていくことは言うまでもない。
 

(朝日新聞 2017年5月30日)

 信じられないことだが朝日新聞はヘイトスピーチが大好きである。
 ヘイトスピーチが社会問題となった数年前、私は日本のイメージを損ねるヘイトスピーチをなくすため道徳の必要性を理路整然と朝日新聞に訴えたが、却下されてしまった。
 「論より証拠」、皆さんも「ヘイトスピーチをなくすために道徳教育(社会道徳)を」という投書を朝日新聞の「声」に投稿されてみたらいい。間違いなく完全に無視されるだろうから。
 朝日新聞が道徳(社会性)を認めることは絶対にあり得ない。
 朝日新聞にとってヘイトスピーチほど「自己正当化」して大衆を支配するためにありがたいものはなく、ましてや日本のイメージまで悪くしてくれるのだから、この上ないご馳走(ちそう)である。

 朝日新聞や系列キー局のようなメディア権力に重宝されながら、テレビで道徳の必要性を主張する室井佑月さんややくみつるさんのように何もわかっていない人たちもいる。
 「何も知らないことが幸せだ。」と北野武さんは老子を引用されたが、彼らは反権力だからメディアにイデオロギー的に利用されているだけであって、彼らが本腰を入れて道徳だけを主張しても、全く微塵も相手にされないし、取り上げられないだろう。
 むしろ彼らの道徳発言は、メディア権力にとっては絶対にあってはならない放送事故である。
 その一事をとっても、日本のテレビに出る知識人はもう少し自覚を持って欲しい。
 無論、本気で道徳の必要性を主張されるなら、いつでも心から支持したい。

 そして返す返すも、社会道徳を全否定しながら、自己正当化に徹して大衆を味方につけて支配しようとする連日の朝日新聞の偽善的な紙面に激しい憤りを覚える。

 

 すべての人は、日本社会は、朝日新聞で、田原総一朗で、すべてを奪われていく。

 日本社会を、皆さんの一人一人の人生を、ヘーゲルいわく「自由を絶対化して恐怖にする」攻撃的な小林よしのりを始めとする、恩知らずで下賤な意識の、人当たりのいい「偽善者」による道徳的価値観崩壊による混沌状態(デュルケムの言うアノミー)のマッチポンプの場と化してはいけない!

 

 憲法で言う「公共の福祉」、人としての最低限の社会道徳、道徳・倫理はどの社会にも必要だ。

 サルトルを論破して現代哲学界に構造主義ブームを起こした文化人類学の権威であり、私が日ごろ引用に出す同じフランスの社会学者デュルケムから強い影響を受けたレヴィ=ストロースは次のように言っている。

 

「現在の地球上に共存する社会、また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎ存在した社会は何万、何十万という数にのぼるが、それらの社会はそれぞれ、…誇りとする倫理的確信をもち、…自らの社会の中に、人間の生のもちうる意味と尊厳がすべて凝縮していると宣明しているのである。」
(「野生の思考」レヴィ=ストロース著 大橋保夫訳 みすず書房)

 

 朝日新聞や、田原総一朗が持つ「道徳全否定」というマッチを取り上げない限り、日本人の人生とは、これからも永遠に台無しにされて、非道徳で一方的な「メディア権力」によって炎上され続けたままだ。

 そして「朝日」に限らず、日本の「メディア権力」においては道徳は未だにタブーである。

 

  

 しかし、洞察力のある芸能人は、テレビでできないことを本で語っている。

 無名の私の本は買わずとも、せめて北野武氏の道徳論に目を向けてほしい。


 
5/31 追記 ■若い女性が道徳崩壊の犠牲となっている社会
     

 正直、自著は私と同世代の木島佳苗死刑囚、山尾志桜里議員、喜多嶋舞さん、80年代生まれの美元さん、ベッキーさん、ペニオク詐欺など、道徳退廃になって非道徳になってしまった女性に対する批判がメインであるが、今日の社会衰退とは、私が本を出したかった2000年代とは違って、統計的にも社会学的にも「最も自殺しない層」である若い女性や女子中学生の自殺が増加しているという新しいフェーズに入ってしまっている。
 つまり私が道徳提言を始めてメディアや行政に相手にされなかったころの2000年~2004年くらいに生まれたような女子が自殺するような事態に至ってしまい、道徳退廃、社会衰退がさらに深刻化している。
 それでいて田原総一朗さんみたいな、「道徳」という言葉を30年以上もテレビから排してきたような人が、まだまだ生きてメディアを席巻(せっけん)しているのだから、この国はつくづく「老害地獄」というより他ない。

 それ以外でも、児童虐待、子どもの貧困、高齢者による自動車事故が大きな社会問題となっている。


 

 「ニュースとスポーツだけの男とは違い、女性は何でも吸収する」と美輪さんは言われたが、上念司氏いわく「世界で一番テレビの言うことだけを鵜呑みにしているのは日本人」であり、正直、北朝鮮の核・ミサイルの問題と同様、左翼メディア権力の思うツボであり、この深刻極まりない社会衰退に対して、全くどうすることもできないのが現状である。
 
 本ブログをお読みいただいてる読者の皆様にのみ、感謝し期待申し上げる他ない。
 

 5月31日 高澤 一成

 



 6月5日 追記  
 「週刊文春」の女性Aさんの出現により、「前田っち」こと、前川前事務次官が「道徳的な夜回り先生」であることが判明しました。
 ここに訂正し、削除します。
 また東国原氏批判も、舛添の本に対して道徳的な批判をされていましたので、ここに削除し訂正します。
 そして準強姦の山口敬之を恣意的に逮捕させなかったことにより、ここにおいて、安倍政権の側にいかなる道徳的な理もないことが暴かれつつあります。
 それにしても、詩織さん準強姦の問題や前川前事務次官の出会い系バーの出入りと、それに言及して前川氏を貶めようとした菅官房長官など、最近はやたらと情報があふれて、第三者から見て事の真相がわかりにくい話が多く、私自身も混乱しております
 無論、私はどちらかと言えば(リベラルな)保守であり、今日まで道徳に否定的だったメディアと民進党を支持していませんが、道徳がすべてであり、哲学者である以上、公正に真実だけに重きを置きます。
 しかし、安倍首相の唯一の支えであった「道徳」もなくなってしまった。

 すなわち自民、民進とも道徳がなく、北朝鮮の脅威などもあり、日本は深いアノミー(道徳的価値観の崩壊による混沌状態)に陥っています―。
 


 未だ無名なブログでございますので、「道徳の大切さ」にご賛同頂ける方は下のお好きなジャンルに 1クリック(投票) お願いします!

 

  人間関係 ブログランキングへ


  哲学・思想 ブログランキングへ


  政治思想 ブログランキングへ