道徳の再定義と小林よしのり評 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

道徳の再定義と小林よしのり評



■どちらの側にも立たない自由闊達なスタンス。

①保守論客とされてきた小林よしのり氏が長年の「安倍嫌い」の立場から、「反安保法制」の立場に回って、朝日新聞に登場したことは驚きであったが、同紙では国民が国家のために死ぬことや徴兵制を肯定するような、安倍政権よりもはるかに保守的なことを論じていた。

 だが、朝日新聞にとっては安倍政権を攻撃できれば何でも良かった。
 しかし同時に小林氏は「報道ステーション」の木村草太や憲法9条をノーベル平和賞にする動きを痛烈に批判していた。





■道徳とは、小林氏や朝日新聞など、戦後のマスコミや知識人が考える「内心の道徳」だけではない。

②小林氏は立憲主義の観点から「憲法に道徳を盛り込むな」と言ったが、これは誤っている。

 まず小林氏を含む戦後知識人とは、「道徳=内心の道徳」と決め付けてかかる。だが、道徳には「1 政治的道徳、2 社会的道徳、3 内心の道徳」の主に3つに分けられる。

1 但し、9.11の後でブッシュがイラク戦争を起こした「正義」は道徳ではない。
 なぜなら、ヘーゲルによれば、道徳とは何かを制限することでしか成り立たないためである。
 そういうわけで、田原総一朗や宮崎哲弥の道徳批判は軽く受け流してもらいたい。
 哲学書を読めばすぐにわかることである。以上。

 そして、政治的な道徳とは、オバマが広島で行ったスピーチの原爆投下に対する国家の道徳の必要性や、EUがシリア難民を受け入れようとするときに言われた、損得勘定を越えた人道的な道徳である。


 2 社会的道徳とは、憲法でいう「公共の福祉」に当たり、哲学、社会学、社会思想で論じられる道徳がそれである。ルソー、ヘーゲル、ミル、デュルケムなど。

3 内心の道徳とは、各人が信仰する宗教や行動規範であり、自由なものである。
 当然憲法に盛り込むことはできない。

1と2の道徳はすでにして憲法に盛り込まれているので、憲法に道徳を盛り込まないとするならば、すでに盛り込まれている「政治道徳」と「公共の福祉」とを削除するしかないが、それを削除することは憲法として全くふさわしくない。

 そして、憲法とはこのような道徳的な国家観も盛り込まれるべきであって、小林氏の言うように権力者を縛るためだけのものでは断じてない。

 小林よしのり氏は間違っている。以上、論証終わり。

 但し、小林氏はBSの深層NEWSにおいて、「少子化は道義(道徳)と関係がある」と言い、道徳教育の必要性をある程度は認めている数少ない論客である。

Asahi_Jul.24 vs Takeshi

 朝日新聞が話にならないほど完全にバカだなと思うのは、小学校からの道徳教育の必要性はプラトンの「国家」から、社会学の代表格、デュルケムの「道徳教育論」に至るまで、ありとあらゆる哲学、社会学、社会思想において強調されているからである。


 また、「FNS27時間フェス」内の、東国原英夫氏が、上西小百合議員の議論の中で「あんたが(暴力的な秘書と一緒に)あんなマスコミ対応したから、大阪都構想が住民投票で負けたんだ。」と言ったように、維新の党は道徳の欠如によって、大阪の行革の道を絶たれてしまった。

 余談だが、私は上西小百合と同じ時期に維新の党の公募に応募したが、橋下氏は根っからの道徳ギライであり、面接すらしてもらえず、上西氏を採用したことによって、今日の体(てい)たらくに至った。
 道徳を重視する高齢者の票が、非道徳的な言動の多い橋下氏から逃げたというのもあるが、投票する人が人間である以上は、「目に見えない徳」もまた、政策と同様に重要なのである。









③小林氏は「安倍嫌い」の急先鋒であり、同じく反安倍で、「アベ政治を許さない!」を流行語にノミネートさせた、同士とも言うべき鳥越俊太郎を痛烈に批判したことは評価に値する。

 つまり今の政治家や知識人は右・左にハッキリ分かれてしまい、「誰々の信者」という人がほとんどである。

 だが、当たり前だが、人間の存在とは差異そのものなのであって、すべての事案に対して、すべて全く同じ意見ということはありえないし、そうであれば、同一人物ということになってしまう。
 つまり小林氏はどちらの側にもおもねらず、自由闊達な議論を展開していると言える。
 このような人は日本には稀である。

 また、私は安倍寄り、保守であるが、私の安倍政権に対する批判は以下の通りである。

1 財務省、財政規律を意識し過ぎた経済政策。10対0で三橋貴明氏の説に理がある。
2 海外株式市場での年金運用。 → 7月29日 GPIF 5兆3千億円の赤字(損失)
3 世襲議員、女性議員の優遇。
4 高コストな国会議員・地方議員の改革に対して極めて消極的。
5 ISILを名指しして「テロと戦う」というが、日本は現実的にそれができないし、現実的に在外邦人を危険に晒してしまう。
6 TPPなど、アメリカの時の政権におもねった、目先しか考えない政策と法整備。
7 移民政策。中国には一人で電力の利権を握って何兆円もの資産を持つ人がいるが、その中国の極めて貧しい労働移民を日本が大量に受け入れて、日本の労働者の賃金と治安とを著しく悪化させるいわれはない。まして中国は頻繁に日本の領海・領空を侵犯している。


 すなわち、私が安倍政権を支持するのは、他の政党があまりにも政党の体(てい)を為していないためである。
 また、安倍晋三個人の道徳的な政治姿勢や人柄は決して小林氏が彼をISのように全否定するように、全否定できるものではない。

 小林氏は言論人として、与党・野党両方の政治家を批判している。
 これは正しい。日本のマスコミは与党しか批判しない。
 また、鳥越俊太郎はジャーナリストでありながら、自らの女性問題について自ら反論せずに、何の根拠もなく、「政治的な力」として裁判で訴えて、恣意的にマスコミの言論の自由を弾圧しようとしている。

 また、自らは「橋下徹氏の部落差別の連載を続けろ」と言っておきながら、小池氏に「病み上がり」と言われ、それが「がん患者への差別だ」と憤ったが、小池氏は「都知事選に立候補する鳥越俊太郎という一個人」について言及したことは誰の目にも明らかである。
よって、小林よしのりは鳥越俊太郎よりも言論人のあり方としては大変健全である。



■小林よしのり氏の新著「民主主義という病い」について。


④小林氏の新著における民主主義批判は現代日本のそれに関しては大変、理に叶っている。

 だが、世界中のありとあらゆる民主主義を一括(くく)りにして、「病」と決め付けるのは間違っている。
 たとえば、「イギリスのように良い民主主義もあれば、日本のように悪い民主主義もあるのだ」という民主主義の良し悪しで終わる話である。

 日本の民主主義が悪いというのは、世襲やタレント、官僚しか政治家になれないという選挙制度やテレビの影響力を受け易い民度の低さなどの「構造悪」から由来する。つまり日本の場合、大きな政党のような組織がないと、ほとんど選挙に出てまともに戦うことができない。

 また、古代ギリシャの民主主義は直接民主制であり、日本の民主主義とは全く異なっており、政治実験というほどのものではない。
 さらにソクラテスの言う「政治的徳」とは、民主主義のペリクレスの「徳」であろう。

 日本のような事実上の貴族政、金権政治、人気投票、女性優遇のような劣悪な民主主義もあるが、それでもプーチンが野党の党首やジャーナリストを暗殺できるような国家も決して健全とは言いがたい。

 ことに私はEU圏の民主主義を否定する気には到底なれない。

 私は仕事と自著の執筆と音楽活動と本ブログが忙しく、また、キリストとヘーゲルが厳しく批判する「自己正当化」と、個人攻撃的な表現とであまり読む気になれないというのもあり、同著をまだほとんど読んでいないが、私の所感としては、そのようなところである。

 また、小林氏は哲学や道徳というものをよく理解していない気がする。

 たとえば明白に自己本位的であって、他者の利益を害している公人への批判ならよいが、単なる言葉尻などによる表面的な批判や、恣意的な個人攻撃は、思い上がった意識の所産であり、分裂であり、下賤な意識であって、社会から襲撃されて没落するより他ない。

 その点で私は神や道徳とはほど遠い、左翼的な恩知らずの、分裂した悪意を感ずるのである。
 そして私が批判するのは小林氏を含めた、そのような者たちに対する道徳的な批判である。

 小林氏が批判する「歯舞」を読めない女性大臣も、彼女の似顔絵を描いて蔑むのではなくて、「女性だから」という理由だけで任命する内閣に責任がある話である。

 そもそも我々が人間である以上、小林氏の理想とする完璧な政治家というものは存在しない。

 小林氏のように自由闊達に人を批判するのは自由であるが、あの著のように自分だけを美化しておいて、他人を醜悪に似顔絵化した悪口のように見えてしまえば、それこそ彼が絶賛していたハズのプラトンに言わせれば、「青少年に対して、特定の個人への憎しみを増幅させることは、道徳上、悪い影響を与える」ものであって、私はそのような傾向を大変危惧する。

 私個人は、小林氏とは違うように、人様は人様であって、人として謙虚でありたい。
 人への感謝、人間愛こそがまず道徳の基本である。





■総括

 確かにプラトンの言う哲人政治とは、民主主義を批判した政治であるが、それと同時に女性を共有財とする概念が不可欠であり、「ペリクレスよりプラトン」という小林氏だが、それは現代では不可能であり(女性と一度も付き合えたことのない私個人はうれしいけど)、現実的な話では全くないのである。

 また、それは「哲人による政治」であるが、この哲人には私有財産すら許されておらず、これもまた今日においては非現実的である。つまり小林氏が民主主義を批判して、プラトンとその哲人政治とを礼賛するというなら、自らも私有財産を否定して、すべての財産を公に献上できるか、そのような公の意識があるのかという話である。私には全くそのようには思えないし、むしろ真逆の人のように思えてしまうのである。

 ―であるから、私は民主主義体制におけるペリクレスの「政治的徳」と、プラトンの「政治家は哲人の方がいい」という両方が必要なのであって、民主主義やペリクレスよりも、プラトンが良くて民主主義自体が良くないと語ることが妥当であるとは思えない。

 但し、今の日本の政治とは、純粋な民主主義でも哲人政治でもなく「ポリーテイア」によれば、金持ちによる「寡頭制」であって、その上で女性優遇、世襲優遇、タレント優遇、左翼優遇であり、したがって、今回の都知事選もそうであるが、ほぼ寡頭制な日本の民主主義は批判されなければならないと私は思う。

「寡頭制国家の支配者たちがその任にあるのは、多くの富を所有しているおかげなのであるから
…。
この支配者たちには、…もっと富をふやし、もっと尊重されるようになろうという気があるから…。
…そこで、寡頭制国家においてその支配者たちは、…凡庸ならざる…人々を貧困へと追い込むのだ。」
(プラトン著 国家(ポリーテイア)より)



 この「凡庸ならざる人々」とは私のような人のことではないかな~と、2000年くらいから思って忸怩(じくじ)たる思いで過ごしてきた。
 つまり今の日本は、古代ギリシャのペリクレスの直接民主制より前の寡頭制の時代にけっこう近いということだ…。

 そういう意味において、民主主義に対して疑問を投げかけたことは評価したい。
 
 また、日本の民主主義とは、上念司や百田尚樹が指摘するように、テレビによる影響があまりにも大きく、特に女性やネットをあまり利用しない高齢者はその傾向が尋常ではないため、テレビのセンセーショナリズムによる衆愚政治に堕している感が否めない。

 今の日本の民主主義にはほとんど、世襲と女性が中心の「安倍政権」と、安保法制反対9割、道徳全否定の「メディア権力」しか登場しない。

 そして、立候補する側の機能不全と投票する側の機能不全という、二重の意味で日本の民主主義はほとんど機能していないのでないかと私は思う。












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