琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺は、正式名称を
「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山。
寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍
(天台寺門宗宗祖)によって再興された。
園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、
10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、
比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あったり、近世には
豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるなど、歴史上の
苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから園城寺は「不死鳥の寺」と
称されている。
参道を進み階段の上が本堂 金堂(国宝)。
昨年は一年間、NHK連ドラ、「光る君へ」を楽しませて頂きました。
紫式部の没年についても諸説あり、長和3年(1014)という説が有力、式部四十二歳。
その二年後、式部の父、藤原為時は七十歳を過ぎて三井寺に出家する。
三井寺は為時・紫式部一家には縁の深い寺で、式部の母の兄弟が三井寺の僧侶に
その二年後、式部の父、藤原為時は七十歳を過ぎて三井寺に出家する。
三井寺は為時・紫式部一家には縁の深い寺で、式部の母の兄弟が三井寺の僧侶に
なっていた。康延といい、宮中の仏事や天皇の看病に従事する内供奉十禅師に
選ばれていた。また、式部の異母兄弟で、為時の息子定暹も三井寺の阿闍梨であって
一条天皇の大葬に御前僧として加わるなど著名な僧侶であった。
三井寺に残る「伝法灌頂血脈譜」には定暹の名は記されているが、
三井寺に残る「伝法灌頂血脈譜」には定暹の名は記されているが、
為時の名は見つからない。
為時はかって天皇の宴に招かれたこともある歌人で、式部に文学的な素養を見つけ
為時はかって天皇の宴に招かれたこともある歌人で、式部に文学的な素養を見つけ
漢文や詩歌などを教え、式部に多大な影響を与えた。
しかし、その娘式部もなく、三井寺で失意の日々を過ごした。 ウィキより
本堂へ上がらせて頂きお参り、多くの素晴らしい仏像に出会うことができました。
本堂のすぐ西隣、三井寺の名称の由来となった井戸「閼伽井屋(あかいや)」(重要文化財)。
天智,天武、持統の三天皇が産湯に用いられたと伝わる。
ゴボゴボという音を立てて清泉が湧き出しています。 狭い格子があってスマホ写真。
三井の晩鐘、鐘楼 (重要文化財)。 慶長7年(1602)の再建。
宇治の平等院、高雄の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられる。
琵琶湖西岸一帯に響き渡ったことでしょう。
歌川廣重、三井の晩鐘。
弁慶の引摺ずり鐘。中世の比叡山、三井寺、山寺両門の争いを象徴する伝説
で知られる。
一切経蔵 (重文)。
室町初期の建築、慶長7年、毛利輝元により山口、国清寺から移築寄進された。
三重塔。
慶長6年(1601)徳川家康により寄進された。奈良の比蘇寺より移転(室町初期の建築)。
毘沙門堂 (重文)。
元和2年(1616)の建立。極採色の優美な建築。
西国三十三観音霊場の十四番札所 観音堂。
独特のデザイン、大津絵。
大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、東海道を旅する旅人たちの
土産物・護符として知られた。 私共でも短冊、色紙など、以前には扱っていました。
本堂。
観音堂の横に見晴らし台があり琵琶湖を望めますが、左右に高いマンションが
建ち並び、今では景色が遮られています。
20年程以前、観光で本堂と霊泉を訪れたのみでしたが、今回は境内をゆっくり拝見
することができました。
和歌山 紀三井寺