高知 桂浜から高知城    令和6年2月 | Chajinの 徒然フォトブログ

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「何でも見てやろう」を基本に、健康維持のウォーキングを兼ねて写真を楽しんでいます。 ..............................................   一期一会

         

瀬戸内の新居浜の隣、三島川之江港近くの川之江ジャンクションから
山越えで高知へ、まず桂浜へ立ち寄りました。

高知は二度目、若い頃、地元の放送局にいて、家業の商売が忙しくなり、
4年ほどで退社しましたが、D 仲間の先輩、同期の3人が、高知のお別れ
ドライブ旅行に誘ってくれた懐かしい思い出です。
もちろん瀬戸内の橋ができる前、フェリーでの渡航でした。

桂浜

旧制高知高校のが生徒さんが詠んだ歌の碑が造られています。
 
 「この浜よする大涛は カリフォルニヤの 岸を打つ」

 




有名なのは浜を見下ろす小山の上に造られた坂本竜馬像。
高知県の青年有志が募金活動を行い,当時の金額にして2万5千円を集め建立。
昭和3年5月27日に除幕式が行われました。
像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。



天保6年(1836生まれ、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成、
薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。
大政奉還成立後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都河原町の近江屋において
暗殺された。




この後高知城へ。

城外より。









初代藩主、山内一豊像。

  騎馬像としては日本一の大きさ。


戦国時代には、山内一豊が掛川城主として10年間在城しました。
働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、
城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。
高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。



度々の記載で恐縮ですが、私の実家、土岐家の大桑城の城下町の大桑では
400年も経た子供の頃でも、「土岐の殿様」と土岐頼芸を敬っておりましたし、
本家にある系図のトップは山内一豊と子供の頃から祖父や父から聞かされて
いました。いつかこの系図を見たいと思っていましたが、本家も途絶え、願いは
叶いませんでした。
山内一豊は尾張国黒田生まれ(現在の愛知県一宮市木曽川町)とされています。



慶長6年(1601)山内一豊 土佐国に入国、 築城着工にかかり、慶長8年( 1603)
初代藩主山内一豊が入城。

享保12年(1727)、 城下町の大火で追手門を残し天守はじめほとんどの建物を
焼失する。
寛延2年(1749)、 天守が完成、現在の天守はこの時のもの。




夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本とされる 見性院(本名千代)像。
郡上八幡を訪れると、千代はこの地の出身と伝わります。




伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人、板垣退助は天保8年〈1837)、高知城下
中島町の生まれ。
岐阜公園の中にも銅像があり、岐阜で暴漢に襲われた時に発せられた
「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は有名。










山内家の家紋、「三ツ柏」。






最上階












目の前、下屋敷後の高知県庁。




黒鉄門。
上部には武者が隠れ、石落しも行われる。



石垣から天守へ登るのを防ぐ。 石落しも。








かねてから訪れたかった残存12城の宇和島城、外から見たのみの高知城を
ゆっくり楽しむことができました。残すは弘前城ですが・・無理かも。

少し陽が傾いて来ましたが、この後、鳴門、淡路、明石を通って走り、10時頃の
帰宅になりました。



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