一乗谷朝倉氏遺跡  令和2年7月       | Chajinの 徒然フォトブログ

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「何でも見てやろう」を基本に、健康維持のウォーキングを兼ねて写真を楽しんでいます。 ..............................................   一期一会

         

岐阜県揖斐川町から新緑に包まれた冠山林道を福井県池田町へ向かい、その後かねてから
一度はと思いながらも訪れるのを躊躇っていた一乗谷を訪れました。

日本のポンペイとも名付けられ、朝倉氏滅亡後、土に埋もれ、田畑の下から発掘された一乗谷
遺跡です。
「麒麟がくる」のストーリーではありますが、光秀が明智城を斉藤義龍に攻め落とされて
一乗谷へ逃れて暮らすことになりました。

朝倉孝景の代、応仁元年(1467)、応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、
斯波氏、甲斐氏を追放して越前国を平定しました。
以後5代103年間にわたって越前国の中心として繁栄し、この間、京都や奈良の貴族・僧侶
などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。しかし天下統一の戦いの中で
天正元年(元亀4年、1573)織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き尽くされました。
また、一向一揆が蜂起し、天正3年、信長により「死骸ばかり」といわれるように
文字どおり掃滅、 天正3年は名高い 長篠の戦の年でもありました。



一乗谷は先に訪れた足羽川(その後九頭竜川へ)の支流で一乗谷川が中央に流れ、奥行き
1,7km程、山の間が4~500mと言う狭い土地です。
谷の入り口の最も狭い地点に土塁が巨大石で築かれ、城門とされました。



一乗谷川







右岸の朝倉館跡。

入口の唐門は、義景の菩提を弔うため、慶長3年(1598)に建立された松雲院の寺門。
現在の門は江戸中期に建てられたもの。



「三つ盛り木瓜」と呼ばれる朝倉家家紋。






江戸時代の初めに造られたと言われる石造りの墓。









2,30m山の中腹にはいくつかの館と庭園跡が残っています。






















一乗谷川左岸、越前の国を支配した城下町跡。武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定されています。













左、井戸跡、右の穴、便所跡。






10数年程前に一度訪れたいと思ったこともありましたが、町並みなど全て復元された建物ですので
躊躇いがありました。

柴田勝家が天正3年(1575)に福井城を築き越前を平定する以前にはこのような狭い土地が
越前の中心地であったことにも驚かされます。
遺跡資料館には2千数百点の重要文化財の出土品が展示され、一万人余りとされる一乗谷に
住んだ人々の生活に思いをはせることができます。



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