土岐家三代頼康が足利尊氏の命により尾張、伊勢、美濃の守護職となり、
1353年に革手城を築き長森城から移った。
広大な城地に七堂伽藍を誇った正法寺などの神社仏閣、数多くの平屋建築で
城郭というより御殿風であったとされる。
道三は後に稲葉城へ移り廃城となる。
城趾は現在岐阜市正法寺町にあるが、済美(せいび)高校のグラウンドや校舎に
囲まれたほんの百坪ほど神明神社の所有地となっている。
帰路の女高生に聞いたところ、分からないので学校の事務室で聞いてみて下さい
とのこと。事務の女性が外まで出て丁寧に場所を案内して下さった。
時々訪ねる方があるとか。
関ヶ原戦後、徳川家康が加納城を築いた際、革手城から土なども全部運び去った
といわれる。
革手城から1キロも離れていないであろうか、加納城趾。
石垣で囲まれた加納城趾
もう一カ所はっきりしないのが、天文二十二年(1553年)有名な道三と信長の会談した聖徳寺。
稲葉山城から南へ四里、那古野城から北へ六里、木曽川の北岸、美濃側と言われるが、
天正十四年(1586年)の木曽川大洪水に川筋も国境も変わってしまったと伝わり、場所が
不明。愛知県側(木曽川南岸)に富田という地名はあるがはっきりしない。
道三が信長宛に美濃を譲る旨の遺言書を大桑南泉寺で書くに至った最初の会見である。
長良川の上流、岐阜城の東。
秀吉(藤吉郎)は義龍亡き後、その子龍興が城主の稲葉城を攻める際、
この東、日野側から登り、槍にひょうたんを結んで後続の兵への目印と
して手柄をたてたところから、信長よりひょうたんの馬印を許され、
その後戦勝歴を重ねる毎、ひょうたんの数を増やしていったと伝えられる。
岐阜城の東南には犬山城、小牧城もぼんやり霞んで望むことが出来ましたが
写真には撮りかねました。
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