焼鳥の戦前史 2021年6月3日 Ver.2.01 改訂内容


・全体

焼鳥の戦前史 焼鳥資料集に以下の資料を追加
19269
1935B
19562

焼鳥の戦前史 ホルモンと食資料集に以下の資料を追加
1936
『僕の東京地図』(サトウハチロー)
1937
「私販京都図絵」(水上勉)(『新編水上勉全集第14巻』)
1937
朝日新聞東京6月23日、読売新聞7月27日のホルモン牛乳の広告

「メモ:焼鳥をめぐる諸説について」を第二章の後に追加。

最後に「改訂内容」を改訂履歴として追加

・第一章

 

・1.詩人、焼鳥屋になる
 

”新宿の焼鳥屋宝来家は、昭和22年に闇市の屋台として創業した。”
→屋台ではなくバラックで創業。


・2.焼鳥はなぜ、串に刺すのか


”焼鳥や串かつの屋台に「使用済みの串入れ」なるものは存在しないのだ。”
串かつの屋台において串入れがあるケースが一つ発見されたため以下のように変更
→焼鳥の屋台に「使用済みの串入れ」なるものは存在しないのだ。


・4.鳥屋の勃興

明治時代に鳥屋が多かったことを示す資料として「飲食と生活」(宮本常一)(『明治文化史12生活編』)、『下谷生れ』(小島政二郎)を追加。

”しかも、その格式の高さも江戸時代から引き継がれていた。鳥鍋を出す店=鳥屋は牛鍋を出す店=牛屋より高級な、上中流階級が通う店とされていたのである。”
→削除 「煉瓦時代の銀座」(永井小石)(『史談明治初年』 同好史談会)に、明治初めの鳥屋は殺風景であったとの証言がある。かわりに”明治時代後半ともなると鳥屋といえば高級な店を意味するようになる。”の一文を追加。

”トリ鍋は上等、ギュウ鍋は並等、ケトバシは下等ときまって”いたという川口松太郎の証言を追加(破れかぶれ 川口松太郎 『川口松太郎全集第十三巻』)。


・6.焼鳥の肉の変遷
19269の事例追加により、昭和(戦前)の豚の内臓肉の事例数に1、牛の内臓肉の事例数に1を追加


・8.豚肉とその他の肉の供給量の推移

次の文を削除。明治30年代にある程度中華料理が浸透していたため。
”まず豚肉と言えば中華料理だが、明治30年代後半時点では、中華料理はさほど普及していない。明治30年代後半には神田に中国人学生を主な顧客とする中華料理店が複数できているが、豚肉消費を押し上げるほどの規模はなかった。”
明治30年代後半に店舗形式の一品料理屋が増えていったという記述を追加。
明治30年代にある程度中華料理が浸透していたという各種資料を追加。


・メモ:焼鳥と酒
偽ウィスキーの愛称について『明治語録』(植原路郎)を引用


・メモ:鰻の串焼き
「プロが食ふ淺草」(本間一咲 『食道楽 昭和6年7月号』)、『味の散歩』(秋山徳蔵)の引用を追加


・第三章 戦中・戦後の東京における焼鳥

 

・3.ホルモンブームの終焉

”従って、チキンラーメンに鶏の睾丸エキスが入ること自体は問題はないが、チキンラーメンを食べると精力が増強し生理不順が治る、と言って宣伝することはできなくなってしまったのである。効能がアピールできなければ、睾丸入ラーメンは単なるゲテモノでしかない。”
厚生省のリストに鶏の内臓が含まれていないため、以下の文に変更
→”食品に内臓肉を使用することは問題ないが、精力が増強するとか、若返るとかの効能をアピールすることはできなくなったのだ。”
”ただし、なぜか「厚生省通知」では鶏の内臓肉が規制対象リストから外されているので、鶏の睾丸が入っているチキンラーメンが強精若返り効果をアピールすることは現時点では問題ない。おそらく厚生省の単純ミスと思われるので、本気で睾丸入りラーメンを宣伝し始めたならばこれも規制対象リストに追加されるとは思うが。”


・第四章 東京以外の焼鳥
以下の文章を削除し、「メモ:焼鳥をめぐる諸説について」に移動・統合
焼鳥資料集にあるように、東京にも野鳥の焼鳥は存在した。創業明治11年の雑司が谷鬼子母神境内の蝶屋が有名だ。”
”食文化史研究家の大塚力は、”戦前には、やきとりといえば、小鳥の焼いたものを一般にそういっていた”(『流行衣・食・住』)と主張するが、そのような事実はない。東京で焼鳥といえば、大正時代から昭和時代の終わりまでは豚牛の内臓焼、とくに豚のそれを意味していたことは、今まで提示してきた資料から明らかである。”
”そして豚牛の内臓焼は、下層労働者向けに鳥屋の廃棄物(腸や骨など)を串焼きにして焼いた屋台の焼鳥の模造品、食品偽装がその始まりであり、野鳥の焼鳥とは関係ない。焼鳥が上中流階級に広まった昭和初期に、一部の高級焼鳥店で野鳥の焼鳥をメニューに加える例があったくらいのものだ。”


・メモ:大阪のホルモン
 

 

・1.じゃりン子チエのホルモン

”じゃりン子チエの舞台は大阪市西成区にある萩之茶屋周辺”
→じゃりン子チエの舞台は大阪市西成区にある萩之茶屋駅周辺
 

 

・2.闇市の「ホルモン焼き」はどこからきたのか
どて焼きの事例として『無資本成功法』(国吉嘉川)を追加


・付録:クリスマスにはなぜチキンなのか

 


・5.大人は夜の繁華街に
”東京朝日新聞昭和11年12月25日は、カフェーで怪しげな紙製の帽子をかぶって酒を呑んだり踊ったり散歩している男女の姿を報じている。”
→実際の記事の内容を引用

2021年5月28日 Ver.1.12 改訂内容
 
・全体

深川飯資料集に「アジの押ずし」(川口松太郎)(『強肴』 茶道之研究社編)を追加

改訂内容(この章)を追加。

 
・プロローグ ワンニラ

以下の引用を追加
”燒鳥を食ひ食ひ犬の足を踏み”
”屋台の下にはかならず犬が、人間が固くて噛み切れない肉を投つてくれるのを待つてゐる。”(『浅草底流記』 添田唖蝉坊)
 
・第二章 明治という時代が生んだ丼(どんぶり)物
・5.一膳飯のタブー
戦前の都会のホワイトカラー・学生が毎回3杯のご飯を食べていた例として『当世書生気質』(坪内逍遥)、『十代に何を食べたか』、『わたくしの青年記』(守随憲治)を追加。
『第四回東京市社会局年報』(東京市社会局編)における公衆食堂ご飯量指定を画像とともに引用。これに伴い『社会事業』(田子一民)、東京朝日新聞大正10年10月6日記事の引用を削除
・6.大きなどんぶりはいつあらわれたか
以下の文章を削除し「アジの押ずし」(川口松太郎)(『強肴』 茶道之研究社編)からの引用文を追加。深川飯も大丼、小丼等バリエーションがあった。
”深川飯がどのような大きさの食器で提供されていたのかが書かれた資料は、残念ながら見つからなかった。しかしながら牛めしと同じ客層を相手にしていた関係上、牛めしと同じく小丼や茶碗でも提供されていたのではないかと推測する。”
その次のセンテンスを以下のように変更
”一方で小さい丼、茶碗でも提供され続けた牛めしや深川飯に対しては、牛丼、深川丼という呼称は主流にはなりえなかった。”
 
・メモ:丼物のヒエラルキーと深川飯
戦前の牛肉、鶏肉の小売価格統計資料として『東京市勢提要(第19回)』(東京市統計課編)を引用。
西洋料理における鶏肉料理の値段について『明治西洋料理起源』(前坊洋)から「明治四十年一月十五日開業の青森駅旅客待合所販売品一覧」を引用
 
・第四章 公衆食堂、大衆食堂と牛めし
・2.公衆食堂と牛めし
中流階級が公衆食堂を利用していた件について『東京府社会事業概観第2輯』(東京府社会事業協会編)を引用。
 
・第五章 関東大震災と牛めし
・1.関東大震災後、素人が牛めし屋台を開業
→1.関東大震災後、素人が牛めし屋を開業に変更 屋台だけでなくバラックもあったため
東京朝日新聞大正12年9月30日朝刊「燒跡にふえるふえる夥しい飲食店六千軒」を引用
寿司がまっとうになったのは築地に魚河岸が移転してからだという『すしの思い出』(杉山宗吉)の証言を追加
 
・第六章 下層階級の食に関心を向ける食通たち
・3.下層階級の食(2) 寿司の屋台
『すしの思い出』(杉山宗吉)、『鮓・鮨・すし―すしの事典』(吉野昇雄)を引用し、屋台至上主義から店舗の寿司店も内部に屋台店を取り込むようになり、それが現在の寿司屋のカウンターになったことを記述。

・7.中華料理と子供向け屋台
”ちなみに、明治38年には横浜南京町近くに路面電車(横浜電気鉄道)の停車場ができている。”の一文を追加。
園遊会におでん、焼鳥が出ていた事例として、朝日新聞東京明治33年3月26日の記事「江島行(三)」(柳塢亭寅彦)、「芸談 あばらかべっそん」(八世桂文楽)(『日本人の自伝21』)、読売新聞明治45年4月8日朝刊「本野男邸で園遊會」の事例を追加。
 
・メモ:トロの二極化現象
トロを捨てていたという大正2年生まれ真下菊之助の証言(『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和3』)を追加
戦後になっても寿司屋では夏場にトロを出さなかった例として『味の散歩』(秋山徳蔵)を引用。
トロを醤油漬けにしていた実例として『江戸っ子神田っ子』(森田雅子)を引用。
 
・第七章 明治三十年代の食道楽
・1.村井弦斎の『食道楽』
ヴィクトリア朝の悪質な食品偽装や添加物について『危ない食卓』(横山茂雄編)を参考書として例示
・2.三銭均一食道楽おとわ亭
路面電車開通以降、おとわ亭のような洋食店が繁盛するようになったという「都下料理店の衰頽」(徂堂子)(『実業世界太平洋 明治38年22号』)を引用。
・メモ:玉ねぎと紅生姜
かつてカレーには紅生姜がついていた例として「ライス・カレー」(角田猛)(『あまカラ 1957年7月号』)、『食卓への招待』(植原路郎)を追加。
 

2021年5月25日 Ver.2.02 改訂内容 


改訂履歴を巻末に追加


巻末資料集の追加、変更、削除


19106を追加
19301を変更
『開店休業』(吉本隆明)の内容に”駄菓子屋さんであんこ玉をお好み焼きに入れて食べた”を追加。
1930F、1930Gを追加
1930Hを追加
1933Cを追加
1937Jを追加
19651を削除し19682を追加
『染太郎の世界』における開高健が記録した染太郎のメニューの引用元が、昭和43年に発表された「高見順伝」(開高健全集第13巻)であることが判明したため。前者を削除し後者を追加。



・6.駄菓子屋の文字焼
月島の「土手」もんじゃ焼きは戦後生まれ

1930G『食べもの探訪記』(吉本隆明)、1930H『吉本隆明「食」を語る』(吉本隆明 宇田川悟)より、以下の内容を追加。

現在の月島のもんじゃ焼き屋は、戦前の月島の駄菓子屋とは異なるもの。
戦前の月島の駄菓子屋には、水分の少ない「どんどん焼き」と水分の多い「もんじゃ焼き」が別メニューで提供されていた


・8.お好み焼きの誕生
・文字焼はなぜ、お好み焼きに変わったのか

一品料理が主に西洋料理を意味する事例として『言泉 日本大辞典 第一巻』(落合直文)を追加。


・9.和食は大阪、屋台と洋食は東京
・屋台の洋食屋

 『明治大阪物売図彙』(菊池真一)からの孫引き大阪朝日新聞明治32年10月7日の記事「行商画報」を削除。朝日新聞を確認した所そのような記事はなかった。
 かわりに大阪の洋食屋台が存在した証言として、大阪の金鵄亭主人談 同亭主人談(『食道楽 明治39年9月号』)を追加


・メモ:日本の洋食とウスターソース

”しかも『西洋料理法』の価格は明治屋のライバル、亀屋を参考にしていた。”を削除。記憶違いによる間違い。『西洋料理法』の価格は亀屋のものとの記述はなかった。

何にでもソースをかける日本人の洋食習慣はイギリス、アメリカから来たという『味覚極楽』(子母澤寛)における柳沢保恵伯爵の説明を追加。


・14.ソース焼きそば

焼きそばがお好み焼き屋台における支那そばのパロディであるとの証言(駄菓子巡禮 古川緑波 『淡交 1954年9月号』)(19268)を追加。


・15.来々軒と支那そばの普及

全般
麺の広東語発音を「ミェン」→「ミン」に変更。
広東語発音サイト、アプリで確認し「ミン」のほうが近いと判断。


・ラーメンの先祖は横浜南京街の柳麺

戦前の大阪にソース焼きそばが存在したかも知れない事例として『オール3の思想』(黒田清)(1937J)の記述を追加。

来々軒では当初から「ラーメン」と注文を通していたという奥野信太郎の証言(『紅豆集』)を追加。

来々軒看板の写真を『近代日本食文化年表』(小菅桂子)からの引用に変更

詩人のサトウハチローが池袋にいた時期を大正10年頃から大正11年に変更。『実録サトウ・ハチロー伝』(玉川しんめい)に11年とあるため。

・拉麺、老麺などの異説について

「實驗生活 支那蕎麥行商記」(汀花生)(『新公論 大正3年8月号』)の肉絲麺、『横浜繁昌記』(横浜新報社著作部編)および「南京町」(小風)(『霰 明治36年4月号』)の銀絲細麺を異説として追加。

・柳麺とはなにか

来々軒の柳麺の麺打ち法の目撃談として『寝そべりの記』(奥野信太郎)を追加。昔の竹昇麺の麺打ち法の説明として『中国名菜譜』〈南方編〉を追加。

柳麺とはなにかについてまとめを追加。


・来々軒は日本初のラーメン店なのか?

横浜での南京そば黎明期の状況として、『好食つれづれ草』(獅子文六)における屋台の記述を追加。

”来々軒の創業者は横浜税関職員の尾崎貫一だが、尾崎が横浜における日本人向け南京そば屋の胎動を見て、そこにビジネスチャンスを見いだしたであろうことは想像に難くない。”を削除。
『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子 講談社α文庫版)によると、尾崎貫一は明治20年に税関をやめており、明治30年代に横浜に在住していたかは不明。

明治30年代に東京において中華料理への関心が高まっていた例として、読売新聞明治37年11月30日朝刊の記事「支那料理の流行」、『実業世界太平洋 明治38年22号』の「都下料理店の衰頽」(徂堂子)を追加


・来々軒はラーメンの発明者なのか?

大正時代に来々軒を食べた人のスープに関する証言が得られたため。『実業之横浜 第6巻20号』の「南京蕎麦屋經營の綱領」および『食道楽 昭和8年1月号』の「支那料理と東京」を削除し、『食の地平線』(玉村豊男)および『明治語録』(植原路郎)における植原路郎の来々軒のスープに関する証言、『大正・雑司ヶ谷』(森岩雄)における来々軒のスープに関する証言を追加。


・来々軒後の支那そばの展開

昭和4年の「歓楽の王宮カフェー」(村島歸之)(『近代庶民生活誌10 享楽・性』 南博編集代表)から、銀座に支那料理のカフェーが4軒存在していることを追記。

『人生漫談』(岡本一平)を引用。国会議院の食堂に支那料理があった。



・メモ:お好み焼きの容器

明治時代のかち割り氷は朝日新聞中学野球におけるものであったことを明記。甲子園と誤解させる表現であったため。

2020年12月15日 Ver.2.01 改訂内容

 

 

ラーメン史の改訂にあたっては、ブログ「らーめんの歴史館」のぶるぢっちゃん様、広岡今日子様にお世話になりました。冒頭に感謝の辞を追加させていただきます。


お好み焼きの歴史フロー図をVer4.0に改訂 天ものの普及先として長崎を追加


巻末資料集に以下の資料を追加
19094
19255
1927C
1928A
1929B
1930E
19328
19388
19407
19454
19681


・5.明治時代の文字焼

事例19094を追加


・9.和食は大阪、屋台と洋食は東京

芥川龍之介の「しるこ」を引用


・11.天ものの登場

『食道楽 昭和15年3月号』の高安汲江の洋食とソース証言を追加
長崎で「にくてん」という名が存在した点について追記

 

 

・12.お好み焼きの店舗化

映画「早春」を引用


・15.来々軒と支那そばの普及

全面的に改訂しています。
変更理由は、玉村豊男の『食の地平線』、團伊玖磨の『続々 パイプのけむり』という、新しく発掘した横浜南京町の柳麺の証言に対応するためには、従来の仮説を全面的に変更する必要があるからです。


変更箇所が多すぎるため、改訂部分比較のために旧版(Ver.2.0)を公開します。
https://drive.google.com/file/d/1ttqnrGfufBboQGV58u90iBdYCUnr8NK_/view


以下の間違いを修正

佐藤紅霞は横浜南京町に住んでいた
→横浜に住んでいたの間違い

篠田鉱造の『銀座百話』の読売新聞義昌堂広告の間違い修正(原文の広告を確認し篠田鉱造の引用ミスを修正)
”義昌堂”
→”義昌堂支店”
”わんたん 金 四銭より””南京そば 十二銭”
→”わんたん 金 四銭””南京そば 金四銭より十二銭迄”


・メモ:来々軒のおいしさとは何か? を新規追加


・16.天ものの日本各地への展開

三重、長崎の事例として1930E、19328、19454を追加

牛丼の戦前史Ver111修正点

全体の変更点

・資料集修正

19071 牛めし物語 伊藤晴雨 月刊食道楽昭和10年7月号 の内容更新
18971 牛めしと野口英世 結城禮一郎 月刊食道楽昭和10年8月号 の内容更新

・古川緑波が浅草の通い始めたのは旧制早稲田中学校在学の頃=大正6年からと判明したので以下の連番を変更

19212を19175に移動
19213を19176に移動

・以下の資料を追加
1868*
18752
18892
18976
19113
19128
19129
19156
19174
1923K
1935A
19369
1936A
1936B
19406
19407

・焼鳥の戦前史と串かつの戦前史が別冊になることを明記

・焼鳥の戦前史へのリンクをはる


各章の修正


プロローグ ワンニラ

・犬肉が高価だったことに関して以下の資料を引用
燒鳥綺譚 田中三太夫 『食通 昭和12年12月』 

・犬に肉を与えた資料として追加
露天商人から新東京名物となつた燒鳥屋『江戸政』 『実業の日本 昭和5年3月号』


第一章 ミスター牛丼、窮地に立たされる

8.牛鍋丼というニセ神話

これがほんとうの牛丼だ――林家正蔵師匠の直伝 『週刊読売 昭和53年11月5日号』を資料に追加


第二章 明治という時代が生んだ丼(どんぶり)物

1.鰻丼、牛丼、天丼、親子丼はいつ生まれたのか

・親子丼を出していた江戸幸が東京風の鰻屋であった事を以下の資料をもとに明記
神戸旨い物屋 松籟 『食道楽 昭和4年2月号』
食味筆のまにまに(一) 水木十五堂 『食通 昭和11年7月号』

・記述ミスを修正
3.江戸時代の「丼鉢=どんぶり」は、茶碗ほどの大きさしかなかった
→3.江戸時代の「丼鉢」は、茶碗ほどの大きさしかなかったに改題

4.芳飯ルーツ説が見落としている事実

・親子丼を出していた江戸幸が東京風の鰻屋であった事を明記

5.一膳飯のタブー

・『食生活の変化とフードシステム』(高橋正郎 豊川裕之 安村碩之 )からタンパク質の摂取源時系列推移の表を引用

7.大きなどんぶりはいつあらわれたか
・採番ミス 7→6


メモ:「丼」という器は一体何なのか

・以下の文章を削除。輸入食器の可能性があるため
ちなみに文献に初めて「丼」が現れるのは1693年の『男重宝記』だが、これは時期的には肥前で国内向けに磁器生産しはじめた後ということとなる。


第三章 牛めしの誕生

・ミミズの天ぷらを象のステーキに変更
(ミミズの天ぷらは実際には食べられていなかったため)

2.牛めしの肉の変遷

・牛めしはすじ肉を使っていたと証言する人に8代目林家正蔵を追加

3.煮込みの歴史

・煮込みの資料追加
明治8年6月7日の東京日日新聞 鍛冶町の飲食屋台の一つに「牛肉の煮込み」がある(『新聞集成明治編年史第2巻』)

6.捨てられるどころか、不足していた内臓肉
・採番ミス 6→5


第四章 公衆食堂、大衆食堂と牛めし

2.公衆食堂と牛めし

・公衆食堂が安く食事を提供していた理由として、自治体から援助を受けていたことを『市設食堂経営策に関する調査』(東京市社会局編)を引用し明記

3.大衆食堂と牛めし

・市設食堂の一日一か所あたり利用者数推移のグラフを『市設食堂経営策に関する調査』(東京市社会局編)より引用


メモ:丼物のヒエラルキーと深川飯

・1961年(昭和40年)以降牛肉の値段が上がり鶏肉を逆転するが、
→昭和40年は昭和36年の間違い


第五章 関東大震災と牛めし
 
1.関東大震災後、素人が牛めし屋台を開業

・資料追加
震災直後に於ける東京市の交通(一) 田中薫 『地理学評論 大正14年1巻2号』

・大正時代に大食堂ができたという資料を追加
花の四月の腹加減 浦風山荘老主 『食道楽 昭和15年4月号』 


第六章 下層階級の食に関心を向ける食通たち

4.下層階級の食(3) 天ぷら

・丸新の事例を削除 下層階級の店ではなかったらしい

・屋台の天ぷらが下賤な食べ物であった資料を追加
買喰は犯罪なり 伊藤晴雨 『食道楽 昭和13年10月号』
天麩羅縁起(一)三田村鳶魚 『食通 昭和15年1月号』

6.下層階級の食(5) 焼鳥

・『焼鳥の戦前史』へのリンクを追加

・一方、上中流階級の人々が焼鳥を食べ始めるのは大正時代後半から、牛めしを食べ始めるのは昭和に入ってからである。寿司、天ぷら、おでんに比べると若干遅めだ。
→記述ミス 牛丼を食べ始めたのは大正時代から

7.中華料理と子供向け屋台

東京の中華料理店が日本化していた部分を加筆


メモ:トロの二極化現象

・戦前のトロに関する以下の資料を追加
 名古屋のうまいもの屋 加藤博 『食道楽 昭和10年8月号』
 東京のお壽司 樫田十次郎 『料理の友 大正4年12月号』


メモ:玉ねぎと紅生姜

・戦前の牛めしは長ねぎが主流であったという資料として追加
これがほんとうの牛丼だ――林家正蔵師匠の直伝 『週刊読売 昭和53年11月5日号』

2020年11月10日 Ver.2.00 改訂内容


全体の変更点

・資料集に35件追加
1868*(3件) 『明治語録』(植原路郎)1件『たこやき』(熊谷真菜)2件
18891
18961
18975
19011
19048
19083
19093
19148
19254
19267
19268
19289
1929A
19316
19358
19359
1936D
1936E
1936F
1937G
1937H
1937I
19386
19387
1939B
19404
19405
19406
19415
9999(3件) 『たこやき』(熊谷真菜)1件『食通入門』(植原路郎)2件

・資料集修正
19295 ページミス P114→P113

・引用の書式を『牛丼の戦前史』『焼鳥の戦前史』と統一
(””で囲み、前後に空行を入れる)
これにともない、なるべく「””」を他の用途に使用しないようにする。


各章の修正

・1.大正7年のお好み焼き
 

「お好み焼き」という料理は存在しない?
→「お好み焼き」という特定の料理は存在しない 
 

・2.お好み焼きとどんどん焼との関係:この本が目指すところ 
 

本書は各種エッセイ、聞き書き、自伝、新聞記事、雑誌記事、小説などに記述されたお好み焼きの証言を収集し、分類し、整理することを主目的にしている。その数は総計で250以上にのぼる。
→本書は各種エッセイ、聞き書き、自伝、新聞記事、雑誌記事、小説などに記述されたお好み焼きの証言を収集し、分類し、整理することを主目的にしている。その数は総計で300以上にのぼる。

明治36年生まれの古川緑波を「どんどん焼」という言葉を使う集団に追加、お好み焼きの集団からは削除

明治36年生まれの古川緑波を「どんどん焼」が「お好み焼きになった」と勘違いした例に追加

1936Fの資料追加により以下の表現を変更
もちろんこれは秋山の間違いで、東京のお好み焼き屋は冒頭の浅草橘屋のように大正時代から存在する。一方、大阪最古のお好み焼き屋といわれる以登屋(いとや)の開店は昭和12年であり、それ以前の大阪におけるお好み焼き屋の存在は確認されていない。
→もちろんこれは秋山の間違いで、東京のお好み焼き屋は冒頭の浅草橘屋のように大正時代から存在する。一方、大阪最古のお好み焼き屋といわれる以登屋(いとや)の開店は昭和12年であり、それ以前の大阪におけるお好み焼き屋の存在は確認されていない(昭和10年頃甘味屋でお好み焼き屋を出していたという証言はある 1936F)。

・メモ:多彩だったお好み焼きのメニュー
 

かに玉の記述を14.ソース焼きそばに移行

おかやきの分類見直し


・3.お好み焼きの歴史(概要)

お好み焼きの伝播地域に山形と京城を追加
→大正半ばから昭和初期にかけて、天ぷら系お好み焼き=天ものが全国に伝播する。現在山形、群馬、埼玉、神奈川、愛知、福井、京都、大阪、兵庫、鳥取、広島、福岡、鹿児島、京城への伝播が確認されている。

・4.文字焼の誕生

説明をわかりやすくするため文章追加。
まず1首目から、駄菓子屋という商売が成立していたことがわかる。駄菓子にかけられている芥子(けし)の実と、駄菓子屋が客が買うように”けしかける”をかけた句である。
→まず1首目から、駄菓子屋という商売が成立していたことがわかる。駄菓子にかけられている芥子(けし)の実と、駄菓子屋が客が買うように”けしかける”をかけた句である。ただし、子供相手の駄菓子屋かどうかは不明だ。


・5.明治時代の文字焼

「焼型」 に以下の文章を追加、その後の文章をこれに合わせて修正

ちなみに、明治35年生まれの北林余志子は、子供の頃文字焼の”道具を買つて貰つて家でこしらへて”いる。(19083)

東京以外の文字焼の事例に18961、19083、19048を追加

『荷車と立ちん坊』(武田尚子)『日本の馬と牛』(市川健夫)からの引用を追加


・メモ:忘れ去られたお好み焼き2 オムレツ

引用資料の連番ミス 19295→19294


・7.鋳物産業の発達と人形焼、鯛焼き等の普及

 亀の子焼と両面型の誤字修正
海域中学→海城中学


・8.お好み焼きの誕生

文字焼がお好み焼きに変わったのはいつか の事例に19083、19093を追加


・9.和食は大阪、屋台と洋食は東京

一品洋食には屋台だけでなく簡易店舗もあることを明記


・メモ:日本の洋食とウスターソース


洋食漫談 渡邊玉次郎 『食通 昭和11年3月号』を資料として追加

1937Iを事例として追加

・11.天ものの登場

東京から拡散する「天もの」 
昭和10年代に大阪で東京風天ぷらブームがあったため以下の文章を修正
戦前において、エビやイカを揚げる天ぷらは東京ローカルの食べものであった。他の地域、特に西日本においては、天ぷらとは魚のすり身を揚げたもの、いわゆるさつま揚げのことを指していた。
→ かつては、エビやイカを揚げる天ぷらは東京ローカルの食べものであった。他の地域、特に西日本においては、天ぷらとは魚のすり身を揚げたもの、いわゆるさつま揚げのことを指していた。昭和10年代になると大阪においても東京風の天ぷらがブームとなるが、天ものが伝わった大正時代においてはまだまだ馴染みが薄かった。

明治時代の大阪の天ぷらについて伊坂梅雪の証言を追加

大阪で「洋食といえばソース」という習慣があったことを示す資料として 洋食漫談 渡邊玉次郎 『食通 昭和11年3月号』所収を追加

各地の天ものの作り方に19267 19289 1929A追加

・12.お好み焼きの店舗化

第二次お好み焼き屋ブーム の事例に1937H、1939A、19405を追加

「桃色遊戯、大阪に上陸」 の見出しを追加

昭和12年大阪松坂屋で開かれた物産展「東海道うまいもの會」に東京代表としてお好み焼き屋が出店した件をとりあげる

大阪の店舗におけるお好み焼き事例として1936F追加


・14.ソース焼きそば

フヨーハイがふようは芙蓉蟹(かに玉)であるという推論を記載

焼きそばの事例として19358、19404、19415 を追加

以下の推論を削除。事例19358において乾麺の中華麺を使用していたため

駄菓子屋が飴細工やしんこ細工をまねしない理由について書いたように、売れないと廃棄ロスになる中華麺の仕入れは、薄利商売の駄菓子屋には難しかったからではないだろうか。


・15.来々軒と支那そばの普及

 

変更箇所が多すぎるため、改訂部分比較のために旧版(Ver.1.10)を公開します。

 

 


全般

『にっぽんラーメン物語』に駸々堂出版版か講談社プラスアルファ文庫版かを明記 内容が異なるため

支那そばを発明したのは来々軒なのか? に銀座泰明軒が明治18年から中華料理の麺類を出していた可能性を追記

横浜南京町の柳麺に関する新証言発掘によりラーメンの祖先柳麺の姿がある明確になったため、全面更改

たいめいけん創業者によるとラーメンは柳麺と表記

『牛丼の戦前史』第六章 下層階級の食に関心を向ける食通たちへのリンクを追加。

来々軒の発明に天津丼を追加

路面電車と新聞の時代 の以下の文章を削除 数字の裏付けが取れなかったため
>日本の新聞は戦争を糧にしてその部数を延ばしていった。日清日露の両戦争のおかげで、新聞の部数は大幅に伸びたのである。

東京の蕎麦と支那そば の前回修正時の修正漏れ対応

昭和のはじめに、東京の蕎麦屋が支那そばをメニューに加えるようになった。
→大正時代に、東京の蕎麦屋が支那そばをメニューに加えるようになった。

蕎麦屋であるからには、鰹節、鯖節などの魚の出汁を使っていたのであろう。昭和のはじめであれば、既に味の素を導入していた可能性もある。
→蕎麦屋であるからには、鰹節、鯖節などの魚の出汁を使っていたのであろう。大正時代であれば、既に味の素を導入していた可能性もある。


・16.天ものの日本各地への展開

新規追加資料を反映

茨城県の事例として『大洗ぶんかざい通信』第9号を追加(以前の版では見逃していた)


・メモ:忘れ去られたお好み焼き5 シュウマイ

染太郎二代目経営者までは伝統が受け継がれていた事を追記


・エピローグ 第三次お好み焼き屋ブーム

古川ロッパを 古川緑波に統一

以下の文章を削除 緑波が「どんどん焼き」とよんでいたとする資料が見つかったため
>明治36年生まれのロッパは正式用語である「お好み焼」という言葉を使うが、昭和元年生まれの大塚にとっては子ども言葉の「どんどん焼」のほうがなじみが深い。

 

kindle本の改版方法について

kindle本全般に共通することですが、原本が改版、修正されても自動的に反映されることはありません。カスタマーサービスに連絡して、ダウンロードを依頼する必要があります。

ダウンロードするとブックマークやハイライト等の読者が付加した情報が初期化されます。つまり最初に購入した状態に戻ります。その点をご了承ください(この意思確認が必要なために、自動更新ではなくカスタマーサービスに連絡して更新を行う必要があるようです)。


現在の「カスタマーサービスに連絡」へのリンクはこちら

リンクが無効になっている場合はアマゾンのページの一番下の「ヘルプ」から「カスタマーサービスに連絡」に移動してください。

その後、担当者につなぎチャットやメール等でダウンロードを依頼します。

『焼鳥の戦前史』
2020年11月2日 第二版改訂内容

旧ページ数に対して三割以上の大幅な加筆を行いました。

これにともない価格を『お好み焼きの戦前史』『牛丼の戦前史』とおなじ1250円に変更させていただきます。
旧版(1000円)を購入した方は無料で改版できますが、改版手続きには注意が必要です。

これについては別途説明します。

2020年11月2日 Ver.2.00 改訂内容 


焼鳥資料集に以下の28資料追加

19115
19116
19124
1930G
1931D
1931E
19344
19345
1935A
19367
19368
19369
19375
19376
19384
19385
19386
19387
19394
19395
19396
19403
19404
19471
19552
19553
19711
19831

シート 焼鳥に類するものに1資料追加
1940

新たに焼鳥の戦前史 ホルモンと食資料集を作成


・第一章 廃棄物と食品偽装から生まれた焼鳥

 


・1.詩人、焼鳥屋になる

秋田屋のメニューの写真追加
秋田屋のほるもんの写真追加

東京では戦後も豚の内臓焼を焼鳥とよんでいた事例として以下の資料を追加。
>『やきとり屋行進曲 : 西新宿物語』 金子正巳
>『食通入門』(植原路郎)


・2.焼鳥はなぜ、串に刺すのか

鳥屋の焼鳥が非常に高価だった資料として以下の資料追加
>箸割つて 栗須杜夫 『食通 昭和十二年十二月号』

江戸時代の天ぷら屋台において箸を使っていた事例に以下の資料を追加。
>『江戸久居計』

立ち食いの天ぷら店での食べ方の事例として以下の資料を追加。
>『天麩羅物語』 露木米太郎


以下の文章を訂正(箸で食べる習慣は江戸時代から存在したため) 

 明治時代になると、屋台の天ぷらは串刺しではなく、箸でつまんで食べる方式がスタンダードになる。天ぷらがご飯のおかずとなったことで、利き手にはご飯を食べるための箸が握られるようになり、串の存在がじゃまになったからである。

→江戸時代のどこかの時点で、天ぷらから串を外して、箸でつまんで食べる方式を採用する屋台が現れた。天ぷらがご飯のおかずとなったことで、利き手にはご飯を食べるための箸が握られるようになり、串の存在がじゃまになったからである。そして明治時代になるとこの方式がスタンダードになり、天ぷらから串が完全に消えてしまったのである。


・4.鳥屋の勃興

かつてすき焼きではなく鳥鍋と言っていた資料として以下の資料追加
>鶏のうまさ 松本子子 『食通 昭和11年5月号』
>冬の味 品川陣居 『食通 昭和14年1月号』

江戸時代の軍鶏屋が味噌味であった例として角屋を追加。

明治時代の牡丹鍋が味噌味であったという主張を撤回。勘違いによるまちがい。

弘化2年に江戸ではじめて軍鶏鍋専門店を開いたという坊主しゃもの主張に対し”「明治初年の喰物咄」(土肥賴繼)(『食通 昭和11年12月号』所収)によると本所緑町にあった軍鶏屋の「角屋」は文化年間創業だったらしい”との異論を追加

明治7年12月16日「新聞雑誌」の軍鶏鍋流行記事を引用

牛肉屋より鳥肉屋のほうが格が高かった例として以下の資料追加
>「明治初年の喰物咄」(土肥賴繼)(『食通 昭和11年12月号』所収)
>『明治語録』(植原路郎)


・5.鳥屋の衰退と「本物の」焼鳥の普及

鳥鍋は鶏肉を薄く切って煮ていた事例として以下の資料を追加
>『食通入門』(植原路郎)

鶏の内臓が好まれた例として 以下の資料を追加
>鶏のうまさ 松本子子 『食通 昭和11年5月号』追加


・6.焼鳥の肉の変遷

次に大正時代および昭和初期(太平洋戦争前の1940年まで)の資料に登場する焼鳥の肉を種類別にカウントする。

→28件の資料追加に伴い、積算数字を変更
昭和(戦前) 豚肉の内臓肉 7件追加
昭和(戦前) 牛肉の内臓肉 1追加


・8.豚肉とその他の肉の供給量の推移

犬の肉の値段が高いという証言を追加
>燒鳥綺譚 田中三太夫 『食通 昭和12年12月号』所収

一方、大阪など関西においては、豚肉の消費量は東京ほどには伸びなかった。中華料理やとんかつのブームが起きなかったからだ。
→一方、大阪など関西においては、豚肉の消費量は東京ほどには伸びなかった。中華料理ブームが起きなかったからだ。
昭和10年代の大阪にとんかつブームがあったため訂正。


・メモ:焼鳥と酒

以下の資料を追加

『素人でも必ず失敗しない露天商売開業案内』(増田太次郎)、悪食ばなし 高見順(『高見順全集第十巻』所収)、食国漫遊5 古川緑波(『週刊東京1955年9月第4週号』所収)


・第二章 子宮を食べる女たち


・1.子宮を食べる女たち

『馬淵美意子のすべて』馬淵美意子から馬淵美意子の写真を引用

豚の子宮焼鳥の写真を追加

豚の内臓の部位を細かく表示していた店の例として以下の資料を追加
>駄食春秋 天江富彌 『食道楽 昭和15年5月号』所収

女性が焼鳥を食べていた例として、以下の資料を追加
>燒鳥綺譚 田中三太夫 『食通 昭和12年12月号』所収


・2.焼鳥を食べて栄養をつけよう

焼鳥が栄養豊富であるとの認識例として、以下の資料を追加
>「玉の井」を食ふ 須田鱗三 『食道楽 昭和九年十月号』所収

豚の喉笛焼鳥の写真を追加


・3.焼鳥の客層の変化・

中上流階級に焼鳥が浸透していた事例として以下の資料を追加
>『小資本インテリ商売相談』 門多栄男
>朝日新聞昭和7年12月8日夕刊(東京版)

焼鳥にホルモンが含まれるという認識例として、以下の資料を追加
>燒鳥綺譚 田中三太夫 『食通 昭和12年12月号』所収


・4.ホルモン狂時代

以下の資料追加により加筆修正
焼鳥の戦前史 ホルモンと食資料集

・5.若返り、精力増強とホルモン
「6.昭和10年代の食通ホルモン料理ブーム」新規追加に伴い一部を「6.昭和10年代の食通ホルモン料理ブーム」「7.内臓肉の不足」に分離


・6.昭和10年代の食通ホルモン料理ブーム

新規追加


・7.内臓肉の不足

「6.昭和10年代の食通ホルモン料理ブーム」新規追加に伴い「5.若返り、精力増強とホルモンから分離」

内臓肉不足の原因について以下の資料を追加
>裏をゆく商賣(31) 牛のハラワタ屋 読売新聞昭和12年6月8日夕刊


・6.宮川教授のアウトホルモン理論
→「8.宮川教授のアウトホルモン理論」に番号変更

寿延命若返り 『食道楽 昭和4年11月号』
→10月号の間違い


・7.焼鳥と女性
→「9.焼鳥と女性」に番号変更

戦前の男女の食事の内容に差があった例として、以下の資料を追加
>『乗り換えの多い旅』 田辺聖子
>父の誕生振舞 中村喜代三郎 『食道楽 昭和15年10月号』所収


・メモ:鰻の串焼き

焼鳥屋で鰻の串焼きを出していた以下の事例を追加
>駄食春秋 天江富彌 『食道楽 昭和15年5月号』所収
>土用丑の日 高須紅葉人 『食通 昭和11年8月号』所収
>酒経 大原外光 『食道楽 昭和14年2月号』所収
>天民先生と食道楽(六) 片桐千春 『食道楽 昭和10年6月』所収
>鳥料理散見 安東鼎 『食通 昭和12年7月』所収

『ASAKUSA/1931年』(一瀬直行)の焼鳥屋台へのインタビューを削除。本題にあまり関係ないため。

鰻の頭のホルモンについての資料追加
>ホルモン料理考 ヒワタリモトヨシ 『食通 昭和12年1月』所収
>エンタツアチヤコ撮影所訪問記 丘町草之助 『食通 昭和15年1月』所収

鰻のアラの串焼きが一部の焼鳥店で出されていることを追加


・第三章 戦中・戦後の東京における焼鳥


長くなったので以下の4パートに分割
「1.闇市に復活した豚の内臓の焼鳥」
「2.ホルモンブームの再燃と加熱化」
「3.ホルモンブームの終焉」
「4.昭和50年代からの「ホルモン=放るもん」説流布」


・1.闇市に復活した豚の内臓の焼鳥

戦後内臓肉は食糧統制の対象外だったので、自由に売買できたことを追記。
『やきとり屋行進曲 : 西新宿物語』(金子正巳)を引用。


・2.ホルモンブームの再燃と加熱化

ホルモンブーム再燃の事例として以下の資料を追加
>即席ラーメン生んで育てて十一年 『週刊読売 昭和44年2月7日号』所収
>『奇想天外の発想』 安藤百福
>「ホルモン先生大はやり 『動物臓器』奪い合い 若い女学生まで療法に」朝日新聞昭和27年11月7日夕刊
>「これはうれしい…もりもり書ける」毎日新聞昭和27年10月29日
>モツ類を食べよう 読売新聞昭和32年7月1日
>スタミナ料理と美容食 強精食いろいろ 読売新聞昭和41年11月5日
>ホームドクター ふえてきた痛風 ホルモン料理もほどほどに 読売新聞昭和44年年10月14日

以下の文章を修正 昭和40年代の事例が見つかったため

どうやら「ホルモン」という言葉は戦前以上に流行していたらしく、東京では戦後から昭和30年代頃までの一時期、焼鳥や煮込みのことをホルモン料理とよんでいたようなのだ。
→どうやら「ホルモン」という言葉は戦前以上に流行していたらしく、東京では戦後から昭和40年代頃までの一時期、焼鳥や煮込みのことをホルモン料理とよんでいたようなのだ。

戦後焼鳥屋が「ホルモン焼」という看板を出していた事例として以下の資料を追加
>『食通入門』 植原路郎

戦後焼鳥屋が「ホルモン焼」を出していた事例として以下の資料を追加
>食国漫遊5 古川緑波 『週刊東京1955年9月第4週号』所収


・3.ホルモンブームの終焉
新規追加。


・4.昭和50年代からの「ホルモン=放るもん」説流布
新規追加。


・第四章 東京以外の焼鳥

焼鳥資料追加により以下の文章を変更

他県の焼鳥に関する資料というのは非常に少ない。大阪が7件、京都が2件、神奈川が1件のみである。
→他県の焼鳥に関する資料というのは非常に少ない。大阪が7件、京都が2件、神奈川、岩手(盛岡)、満州国(新京)がそれぞれ1件である。

東京以外の事例として以下の資料を追加
>如是我聞 高原護郎 『食道楽 昭和13年9月号』所収
>五味波古雜記 伊藤晴雨 『食道楽 昭和14年9月号』所収
>満州北支の旅 高原護郎 『食道楽 昭和15年7月号』所収

以下の文章を削除。豚の正肉焼鳥の例が見つかったため。

室蘭の焼鳥にあって東京にないものは豚の正肉の焼鳥と、玉ねぎである。現在、北海道や中国地方、九州地方の一部に豚の正肉の焼鳥が存在するが、戦前の東京においてはその存在は認められない。

以下の文章を追加。

「焼鳥」という名前ではないが、戦前の大阪の一部地域で牛馬の内臓の串焼きが提供されていた事例がある。これに関しては「メモ:大阪のホルモン」において解説する。


・メモ:大阪のホルモン

長くなったので以下の4パートに分割
「1.じゃりン子チエのホルモン」
「2.闇市の「ホルモン焼き」はどこからきたのか」
「3.なぜ闇市に「ホルモン焼き」が現れたのか」
「4.無視され続けてきた被差別部落の食文化」

 


・1.じゃりン子チエのホルモン
以下の文章を削除 他の地域にも見つかったため
”そしてその事例のうち、場所が特定できる資料は、被差別部落か、被差別部落の人が多く住む地域に関する資料である。”

以下の資料追加により全般的に加筆修正
焼鳥の戦前史 ホルモンと食資料集

以下の資料から、じゃりン子チエのホルモンが周辺地域(西成区周辺)の戦前からの伝統食であったと推定し、全般的に加筆修正
>大阪毎日新聞大正6年12月10日
>魅惑の春 高橋護郎 食道楽昭和15年4月号


・2.闇市の「ホルモン焼き」はどこからきたのか


戦後闇市でホルモン料理が現れたという証言として以下の資料を追加
>わが街の歳月 田辺聖子 『田辺聖子全集23』

戦前のどて焼き資料として以下の資料を追加
>屋台の味 但馬浩 『食通 昭和11年8月号』所収
>色色の食道楽 宇野浩二 『大阪』所収


・4.無視され続けてきた被差別部落の食文化
明治時代の東京のすき焼きが鍋を使った焼肉であった証言として以下の資料を追加
>幼きころの印象 小泉迂外 『食道楽 昭和十五年五月号』所収
>『鰻・牛物語』 植原路郎


・付録:クリスマスにはなぜチキンなのか


・3.戦前のホテルや西洋料理店におけるクリスマス料理と七面鳥

食道楽昭和十二年二月号の「新宿・銀座・人形町」(正岡容)を事例として追加


・4.戦前の料理書におけるクリスマス料理と七面鳥・

雑誌『料理の友』のレシピ分析を追加

”味の素食の文化ライブラリーが所有している雑誌『料理の友』の戦前発行分を調べると、クリスマス料理のレシピ集記事が17本存在する。そのうち七面鳥を使用している記事は2本、鶏が使用されている記事は9本、「七面鳥あるいは鶏」が1本、鴨が1本となっている。”

「クリスマス」飯田深雪(『味の味』寺下辰夫編所収)を、戦前のローストチキンの事例として追加

七面鳥よりも鶏のほうの味が好まれた事例として、「食国漫遊19」 古川緑波を追加

料理書において七面鳥が敬遠された理由として、「入手が難かしいこと」を追加。「クリスマスの御馳走」(大日本料理研究会)(『料理の友大正三年十二月号』所収)および「クリスマスの御馳走」(巽鉄男)(『料理の友大正四年十二月号』所収)を引用。


6.終戦直後のクリスマスと七面鳥

淀川長治の戦後のクリスマスと七面鳥のエピソードを追加


7.戦前のクリスマスケーキ

風月堂のクリスマスケーキ広告を2つ追加
>かなよみ新聞明治11年12月24日
>時事新報明治20年12月21日


8.戦後のクリスマスケーキ

こちら葛飾区亀有公園前派出所第78巻より、「ケーキ屋・両さん!?の巻」を引用。

上越タウンジャーナル 「“昭和の味” バタークリームケーキが復活! ラ・ソネ菓寮で5月2~4日に限定発売」を引用


9.キャバレーと七面鳥

そのホテルとレストランは戦後アメリカ軍に接収されていた。
→そのホテルとレストランの一部は戦後アメリカ軍に接収されていた。

キャバレーでのクリスマスの事例に黒澤明映画「醜聞」、『わが青春のクリスマス』(黒田清)、『明治・大正を食べ歩く』(森まゆみ)を追加。

「醜聞」が公開された昭和25年の七面鳥と鶏の値段を追加。

そのために料理中心のカフェーは「洋食屋」
→そのために料理中心のカフェーは「レストラン」あるいは「洋食屋」


10.ホーム・クリスマス

『わが青春のクリスマス』(黒田清)を引用

そしてそのローストチキンは、家で焼くのではなく、鮒忠や百貨店からテイクアウトするものだった。
→そしてそのローストチキンは、家で焼くのではなく、鮒忠や百貨店や肉屋やスーパーマーケットからテイクアウトするものだった。

筆者自身の昭和40年代のクリスマス風景描写を追加。

2020年3月13日 Ver.1.10 改訂内容
 
・全体

”市電”を”路面電車”に変更
 

牛丼・煮込み資料集に追加
19022 明治35年頃の新宿地図に牛めし屋が二軒ある件を追加
19295 月刊食道楽昭和4年10月号の事例を追加
19308 月刊食道楽昭和5年12月号の事例を追加
19314 添田さつきの詩を追加
19327-9 中村蓉一の事例を追加
1932A 伊藤晴雨の事例を追加
19368 井田正一の事例を追加
19392 吉村昭の事例を追加

その他の資料集(鰻丼等)への事例追加については詳細を省きます
 
・プロローグ ワンニラ
 

”明治37年生まれの作家一瀬直行は、昭和7年頃の浅草広小路屋台について次のように描写している。”
→昭和7年頃は昭和6年頃の間違い
 

ワンニラの例として立食春秋ヤキトリ案内 石山岩男 食道楽昭和5年6月号を追加
 
・第一章 ミスター牛丼、窮地に立たされる
 

牛鍋丼の写真を追加
 
・第二章 明治という時代が生んだ丼(どんぶり)物
 

『明治文化史第13巻』の出版年を明治29年から昭和29年に訂正
一日のご飯の量の例として評論家の横山健堂のケースを追加
 

戦前はご飯を多く食べていた事例として作家の長谷川伸、月刊食道楽昭和5年8月号の座談会「若返り健康秘談」を追加。
 

一膳飯のタブーの例として『たべもの歳時記』(池田彌三郎)、落語「湯屋番」、軍歌「軍隊小唄」を追加。
 

東京朝日新聞の大正10年10月6日記事から、公衆食堂が一合五勺の丼飯を出していた事例を追加。
 

”どじょうぐらいの大きさの鰻を並べた、10センチ前後の正方形の蒲焼。”
→どじょうぐらいの大きさの鰻を並べた を小さな鰻を並べたに訂正  焼いた後の大きさと焼く前の大きさを混同するため
 

”それまで鰻飯に使われていたどじょうぐらいの大きさの子供の鰻”
→どじょうぐらいの大きさの を削除 焼いた後の大きさと焼く前の大きさを混同するため
 

”しかもこの「めそっこ」といわれる子供の鰻、薄っぺらい上に脂が乗っていないので、うなぎの養殖が本格化するまでは、格安で売られていたものなのである。”
→めそっこの定義を以下のように明確化
”丼物とよばれる鰻丼用の小鰻は十匁から十五六匁(37.5~60グラム)の重さだそうだが(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』 飯野亮一より孫引き)、月刊食道楽明治39年7月号の山谷重箱(現赤坂重箱)主人への取材記事によると、”料理職人の仲間では、十五匁以下の極小さな鰻のことをメソと云ひ”とあり、この丼用の小鰻は鰻屋では「めそ」あるいは「めそっこ」と呼ばれていた。”
”この「めそっこ」といわれる子供の鰻、薄っぺらい上に脂が乗っていないので、うなぎの養殖が本格化するまでは、格安で売られていたものなのである。”
鰻丼の呼称の実例として『東京食通番付』(鶯亭金升)大正6年を追加
 

”養殖業の発展により、昭和に入るとシラスウナギの乱獲、不足が生じ、中国などからのシラスウナギ輸入まで行われるようになる。”
→『実験養鰻法』によると大正時代から輸入されてたため以下のように変更
”養殖業の発展により、大正に入るとシラスウナギの乱獲、不足が生じ、中国などからのシラスウナギ輸入まで行われるようになる。大正15年の『実験養鰻法』(佐郷卿一)には、”近時養鰻業の勃興とともに種魚の購入が極めて困難となり年々缺乏を來たしたので最近に至り満洲、朝鮮、上海方面から輸入する者がある様になつた”とある。”
 

”当然のことながら、それまで鰻飯に使われていた子供の鰻=めそっこは養殖にまわされ、市中に出回らなくなったことだろう。”
”めそっこがなくなった以上、わざわざ小さな茶碗大の丼鉢を使うのもおかしな話なので、大丼に大人の鰻の蒲焼を入れる現在の鰻丼とおなじ提供形態に収斂し、名称も天丼や親子丼のように「鰻丼」へと変わっていったのではないだろうか。”
→大正15年『実験養鰻法』から、めそっこが養殖に回されていたことを引用。また、めそっこは高級店には出回っていたため、以下のように表現を変更
”当然のことながら、それまで鰻飯に使われていた子供の鰻=めそっこは養殖にまわされることとなる。再び『実験養鰻法』によると、1年間養殖するための種魚として37~60グラム、2年以上養殖するための種魚として7~10グラムの、めそっこにあたる鰻が使われているとある。”
”養殖需要が高まっためそっこは、価格も高くなったのであろう。昭和初期のめそっこの事例を見ると、安物扱いだった明治時代とは対照的に、高価な鰻屋に登場する事例が出てくるのである。”
”鰻では何と言つても日活館隣の讃岐屋で有る、一寸江戸前の高級品を喰べさせてくれるが高いには高い、それで威張つてゐたが、(中略)此處のメソツコは相当評判で、時折、平山堂に見える武藤山治など必ず、讃岐屋のメソツコを喰べて行くそうだ。”(四谷新宿食べある記 紫池樓生 月刊食道楽昭和8年6月号)
”大正7年生まれの俳優の池部良は、中学生になった時分に父親に、”高級な食い物一つも味わわさせて”やると銀座の有名店(おそらく竹葉亭)に連れて行かれた。そこで父親は”めそっこ(細い小さい鰻)の白焼き”で一杯飲んでいたそうだ(『天丼はまぐり鮨ぎょうざ』 池部良)。”
”養鰻によりめそっこの値段が高くなる一方、成魚のうなぎの価格は低下。そのような状況でわざわざ小さな茶碗大の丼鉢を使うのもおかしな話なので、大丼に大人の鰻の蒲焼を入れる現在の鰻丼とおなじ提供形態に収斂し、名称も天丼や親子丼のように「鰻丼」へと変わっていったのではないだろうか。”

19314、19327を昭和になっても牛めしの大丼小丼が売られていた事例として追加

  
・メモ:「丼」という器は一体何なのか

メトロポリタン美術館所蔵『万宝全書 八』(1694年)の高麗焼物之類・金海(注 朝鮮の慶尚南道の金海窯)にどんぶり鉢の記述があったため以下の文章を変更。
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/db1/books/results1280.php?f1=MET-b1002914x_08&f12=1&enter=portal&max=1&skip=13&enter=portal

”また、丼に関する資料は18世紀末から数が増えるが、そのころの慳貪屋の鉢に関する資料が見当たらないどころか、丼が高級食器として使われていたという資料が存在するのだ。”
→また、慳貪屋の鉢に関する資料が見当たらないどころか、丼が高級食器として使われていたという資料が存在するのだ。2
”1694年の『万宝全書 八』の高麗焼物之類・金海に「どんぶり鉢」が登場する。慳貪屋の鉢どころか輸入物の茶器である。”

 
・第三章 牛めしの誕生

19308の事例を追加。昭和5年時点の浅草広小路の屋台においては、牛肉を遣う屋台は1つだけだった。
 
・第四章 公衆食堂、大衆食堂と牛めし

蕎麦屋が丼ものを出していた事例として1932Aを追加

丼物の拡散例として料理書を追加。家庭にどんぶりが導入された事例として『社会百面相』の漫画を引用。

 

・メモ:丼物のヒエラルキーと深川飯

天丼と親子丼の価格比較に以下のデータ追加
月刊食道楽昭和8年6月号 村井政善の「栄養食普及会直営大衆食堂」の広告
高島屋食堂(大阪食堂行進曲 丘町草之助 食道楽昭和4年5月号)

”関東大震災後に専門店を立ち上げ天丼を出したという。”
→天金が天丼専門店を出したのは昭和5年につき修正

 
・第六章 下層階級の食に関心を向ける食通たち

有名な寿司屋が屋台も出していた証言として山本夏彦を追加。
 
「寿司は屋台が一番」という屋台原理主義の例として永井荷風の小説『冷笑』、『東京食通番付』 鶯亭金升 大正6年刊を追加

大正期に華族や歌舞伎役者が天ぷら屋台に通っていた事例を追加(月刊食道楽昭和6年11月号)。

「天ぷらは屋台が一番」という屋台原理主義の例として永井荷風の小説『冷笑』、『東京食通番付』 鶯亭金升 大正6年刊、月刊食道楽昭和6年2月号、月刊食道楽昭和6年5月号を追加

現在の高級天ぷら店がカウンター式なのは、昭和初期に屋台原理主義が浸透した影響であることを明記

「銀だこ」を「銀たこ」に修正

食通がおでんを食べ歩いていた例として籾山髻華の例を追加

銀座のデパート松坂屋でおでんが出されていた例を追加

「おでんは屋台が一番」という屋台原理主義の例として月刊食道楽昭和4年9月号の記事を追加

焼鳥が蔑まれていた事例として七代目橘家圓太郎の事例を追加

高級焼鳥店舗喜多八を追加

焼鳥屋台に中流階級の客がいた例として立食春秋ヤキトリ案内 石山岩男 食道楽昭和5年6月号を追加
 

 
・メモ:トロの二極化現象

トロに関する証言に岡田三郎、正岡容、八代目坂東三津五郎、玉川一郎を追加
月刊食道楽昭和6年4月のトロ料理専門店の情報を追加 
 
・メモ:玉ねぎと紅生姜

公衆食堂の牛めしに漬物がついていた事例を追加



 

2020年3月5日 Ver.1.10 改訂内容


【修正カテゴリ1】

お好み焼き巻末資料集およびお好み焼きの戦前史公開スプレッドシートへの資料追加と、追加にともなう本文の変更
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1RFIwNBySGjNQc3S93Nmu8wAttWz54nJIFXw8qMZLpNU/edit#gid=0

18681
明治世相百話
山本笑月
P137
明治初年の子供遊び
”倦きれば町内の番太郎へ集まつて、ぼったら焼きや駄菓子の箱にかじりついて、天保銭や五厘玉の散財、大きな声で「おくれつ」と飛び込む威勢のよさ”

18933
あまカラ1954年6月号 駄菓子 長谷川かな女
P11
”ぼつたら焼などと云ふのは菓子の部には入らないかも知れないが、一文菓子を僅かばかり並べた低い庇の下に縁台を置き、四角い木の火鉢の上に乗せた銅板を圍んだ鼻たれ子達が、腰の曲がつたお婆さんの手から小茶碗を受けとると我が世を取つたやうに、どろどろに溶いたうどん粉を銅板の上に零して泡を立てて焼き上って来るのを待つ面構えが、今日の子供達の顔からは汲みとりやうもない逞ましさであつたと思ふ。もんじやきを短かめて、もんじゃきとも云ひ、ぼつたら焼とも云った。今日のお好み焼の元祖であらうが、うどん粉一式に玉砂糖か何かで甘味をつけてあるのだらう。雨の續く日などには一文菓子屋の眞似をして、銅板の代用に卵焼をする四角い容器へうどん粉を垂らして亀の子だのお櫃をこしらえて、食べるよりも焼き上る種々な形を並べて愉しんだものであつた。”

→6.駄菓子屋の文字焼 に容器の例として追加
→メモ:ボッタラ焼きとは に文字焼とボッタラ焼きを同一視する例として追加

18934
18933に同じ(正規化のため文字焼の項目を作成)

18973
読売新聞明治30年12月22日東京版
ぼったら燒
”子供相手の文久商内なれども資本かからねば一日二十五銭から三十五銭は取る”
(注 記事中の他の商売は屋台なので、ぼったら燒も屋台と思われる)

→8.お好み焼きの誕生 のボッタラ焼屋台事例として追加

18974
読売新聞明治30年12月20日東京版
下層階級の職業例としてぼったら燒


18982
食道楽昭和六年三月号
射倖心と食べ物 西村楽天
P65
”僕の十二三時分、腕白盛りの僕が泰明小學校から歸ると鞄を玄關からほうり出して「只今……お母さんゼゼ」と叫ぶ「サア」と渡された五厘を持つて飛んで行くは、大概文字焼やであつた(文字焼とはどんどん燒とも云ふ)メリケン粉をとかしたやつを茶碗に入れて鐵板の上で自分自身で焼くのである。”

→6.駄菓子屋の文字焼 に容器の例として追加

18983
18982に同じ(正規化のためどんどん焼の項目を作成)


19034
明治の銀座職人話
野口孝一
P181
“鍋町角の道端に白い壁を背にしん粉細工のおじさん、新勝という常床店があった。(中略)もう一方では、丸い鉄板の上で亀の子、お柏、帆かけ舟などを焼く文字焼をやっていた。”

19042
食道楽昭和五年四月号
追憶片々草(一) 高橋邦太郎
P95
”お好み焼。これは一名龜の子焼とも、或はドンドンやとも云つた。太鼓を叩いて來るからである。火の上に掛けた鐵板の上で、うどん粉を水でといたものを燒いて、これに餡を入れたり、豆や乾し蝦を入れたり、それに蜜を掛けたりするが我々が望むものを立所にこしらへて呉れるので面白かつた。近所へ來るのに一人非常にうまいのがゐて、僕は感心して見たものである。就中その人はオハチが上手だつた。つーつと一本太い線を引き、別なところにくるくると圓を描いてそれを塗りつぶすと、それでオハチの蓋が出來た。それから、太い長方形をつくり、別に丸形をつくると、それでオハチは完成した。オハチの中へ豆を入れて渡して呉れた。パンヂウなぞあの味に劣ること幾何なるか知らない。”

”下手なのに掛ると紅をうどん粉の中に入れて下繪を描く、そんなのにうまいのがあつたためしはない。”

→5.明治時代の文字焼 にお好み焼き屋台のおはちの作り方として例示
→8.お好み焼きの誕生 にお好み焼き屋台の最古の例として追加

19043、19044
19042に同じ(正規化のため亀の子焼、どんどん焼の項目を作成)

19045
食道楽昭和五年五月号
追憶片々草(二) 高橋邦太郎
P74
十文菓子屋について
”そして、それらとは別なところにボツタラ燒をさせる設備がある。ボツタラ燒は別名をモンヂヤ燒とも云う”

→メモ:ボッタラ焼きとは に文字焼とボッタラ焼きを同一視する例として追加

19046
19045に同じ(正規化のためボッタラ焼の項目を作成)

19047
風俗画報明治三十七年二月号
女百姿
子守の少女の発言
”二銭貰つたから、金米糖と蜜豆と団子を買って、ぼツたら焼して遊ぶのよ”

19078
明治百年を語る古老のつどい
千代田区編
P32
麹町平賀天神の縁日
”当時は天神の境内はもちろん、 今、堀久作さんの邸のあるあたりまで一帯に夜店がたった。天神の境内の両側は今のおこのみ焼、われわれの時分はボッタラ焼の店がずっとならんでいました。”

→メモ:ボッタラ焼きとは に追加

19079
あまカラ1955年11月号
駄菓子の味 桶谷繁雄
p50
明治末期から大正はじめの浅草馬車道の駄菓子屋
”冬になるとモンジャ焼と云うものをした。土間の上りかまちの 所に大きな火鉢と鉄板を出して、その上でウドン粉に桜エビの乾物などまぜて溶いたものをジューと焼いたりする。おこのみ焼と近頃称しているアレである。どうしてモンジャ焼と呼んだのか知らないが、「三人寄れば文殊の智恵」というあれで、この火鉢の周囲にはいつも三四人の子供が集まるから誰ともなしに文珠焼、それを浅草の子供 はモンジャ焼と訛ったのかも知れない。料金は、いづれにしても一銭が単位であった。”

→13.変わる駄菓子屋の文字焼に、干しえびを入れる事例として追加。

1930D
コンマーシャルガイド
コンマーシヤルガイド社
P208
”そして東京の中には、謂はゆる駄菓子を簡易な食事にするものがあり、駄菓子と稱するものが可なり命脈を保ち、江戸時代から残る文字燒まで横町の子供に親しまれ、蜜豆といふ家庭的な簡単な配劑が可なり高級に飾られたホールにまで進出して居る。”


19338
昭和激動期の浅草っ子物語 
篠康太郎
P28
”「中華店」に入って、柔らかい焼きそばにシチュウがかかった「看板メニュー」を食べるのが好物だった”
P31
”夕方になると、 鐘を鳴らす「屋台のおでん屋」、 ソースの匂いが漂う「焼きそば屋」がきた。”

19339
味を訪ねて
吉村昭
P109
”お好み焼屋に入ったのも、浅草が初めてであった。”
”お好み焼屋で食べるものは、もんじゃ焼き、どんどん焼きと同じであるが、しゃれた店がまえで、出されるものも清潔で、味もよかった。現在のようにごてごてと大盛りにされた無粋なものではなく、ホーローびきのカップに、牛のひき肉、キャベツ、干しえび、さきいか、餡などがそれぞれ入ったものを註文し、鉄板で焼く。客に連れられた芸者や半玉の姿もあった。”

→12.お好み焼きの店舗化 に店舗におけるお好み焼きの提供方法事例として追加。

1933A
味を訪ねて
吉村昭
”その頃、町の駄菓子屋では、もんじゃ焼きと称する子供相手のものがあった。タドンや炭火の上に四角い鉄板が置かれ、小麦粉を水でとかしたものにキャベツ、干しえび、 あげ玉などを茶碗に入れたものを、サジですくって鉄板の上に落す。火が通ると、小さなハガシですくって、ソースにつけて食べる。”
”母は、それらを不衛生きわまりないと言って、決して口にしてはならぬ、と険しい眼をして言っていたが、母の眼をぬすんでひそかにそれらを食べていた。”

1933B
味を訪ねて
吉村昭
”また、もんじゃ焼きと同じどんどん焼きを作って売る屋台車がやってきて、屋台の男が巧みに焼いてくれる。四角く切った新聞紙にのせて、渡してくれるのである。
”母は、それらを不衛生きわまりないと言って、決して口にしてはならぬ、と険しい眼をして言っていたが、母の眼をぬすんでひそかにそれらを食べていた。”

→メモ:お好み焼き死亡事件 の親からお好み焼きの買い食いを禁止された人のリストに追加。

19349
なぞなぞ下町少年記
このみひかる
P51
どんどん焼き屋台のマンガ
メニューにえび天、ねぎ天、いか天、やきそばの文字
海苔の缶とソースの瓶がある
少年が三角錐に丸めた古新聞に盛られた焼きそばを串のようなもので食べている。
”どんどんやきのおじさんの屋台から流れてくる『やきそば』『牛てん』『いかてん』のソースのにおいは下町の路地から路地を伝わってぼくらのすきッ腹の底のあたりまでプンプンはいりこんできたものである。”
”古新聞とソースがミックスしたにおいはたまらなくなつかしい。”

1934A
なぞなぞ下町少年記
このみひかる
P117
”この駄菓子屋の内職に「ボッタ焼き」というのがあった。”
”今ふうにいえば「お好み焼き」の前身だ。スタイルは、まったく「お好み焼き」と同様で、メインは、ウドン粉を水で溶いた汁を、ふちのかけた茶わんに一パイ。値段は一銭。まんがの説明図のように、鉄板のまわりに子どもたちが座って、ジュージュー焼いて、備えつけの、安もののしょう油やソースをつけて食べるのである(このまんがでは大部屋になっているが、実際はもっとせまくて、だいたい六じょうか、四じょう半のうす暗い部屋で、いつも便所くさくて、非衛生的であった。しかし、そんな風味が、下町らしさでもあったのだ)。でも、かあちゃんたちには評判がわるかった。”
P119
駄菓子屋のボッタ焼きのマンガ
ソースだけを焼く子供に「こらーっソースやきは鉄板がいたんじゃうからやめとくれー」と駄菓子屋の鬼ババが怒る
「わたしたまごいれておいしくやいてたべるのよ……。」「いーいなあみっちゃんちは金もちだもんな。」(タマゴなんてキチョウ品であった。)
P121
マンガ ぼった焼きを母親に禁止される

→メモ:お好み焼き死亡事件 の親からお好み焼きの買い食いを禁止された人のリストに追加。

→メモ:ボッタラ焼きとは に南千住のボッタ焼き事例として追加

P122
マンガ 駄菓子屋でのボッタ焼き ネズミの絵を描いている
P124
”あるとき、うめちゃんの店のボッタ焼きをたべた子どもが、中毒で下痢った事件があってから、あんまり子どもたちは近よらなくなった。ぼくもかあちゃんに禁足令を出されていたので、あの店には近づかなかった”

19385
なぞなぞ下町少年記
このみひかる
日本橋の母の実家の話
P100
”夕方になると、近くのお好み焼きに行って、牛てん、いかてん、あんこ巻きなどを腹いっぱいたべた。”
”南千住のうすよごれたボッタ焼きも味があるけど、こっちは上品で、おすまし連が鉄板をこがしていた。”
(P108にお好み焼き屋とあるので店舗形式のお好み焼き)

19399
古川ロッパ昭和日記 戦前編 昭和9年―昭和15年
古川ロッパ(著)、滝大作(監修
)
P609
昭和14年10月9日
”大雅で、 都築文男、井口静波等と会ひ、千どりといふお好み焼へ行っていろいろ焼いて食った。”

昭和14年10月10日
”昨夜行ったお好み焼へ堀井夫妻と竹川・女房とで行く。千どりお好み焼店、世の中には変ったものもあるもの、此の趣味、此の味、大まじめで食ってるのが実に可笑しい、五人で三円五十銭。それで腹が張ったからいい。”

P611
昭和14年10月17日
”心配事あるものの、千鳥お好みやきへ行って、自由焼をたのしみ、腹一杯になってしまった。”

→2.お好み焼きとどんどん焼との関係:この本が目指すところ 「お好み焼き」という言葉を使う人一覧に古川ロッパ追加


1939A
昭和14年10月1日の浅草絵図

浅草の地図上にあるお好み焼き店舗
・いその  公園大通りと地下鉄横丁との交差点南、鳥料理金田の横 現在の台東区浅草1丁目36番地
・御笑楽 伝法院南西 公園劇場北向かい 現在の台東区浅草1丁目40番地
・菊水 言問通りから南に二本はいった道 現在の台東区浅草2丁目26番地



【修正カテゴリ2】

お好み焼き巻末資料集およびお好み焼きの戦前史公開スプレッドシートの資料内容変更
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1RFIwNBySGjNQc3S93Nmu8wAttWz54nJIFXw8qMZLpNU/edit#gid=0


18951に以下の引用を追加

”駄菓子屋に上り込んで鉄板の上で文字焼をする事、円や四角や鯛や人間の形などを描いて食べる事などは作画をも補長する事で下町の子供の雨降りなどには楽しい事でした。”


明治の銀座職人話

19033に以下の引用を追加

 ”食用と玩具をかねた子供相手の店は、この店のほかに、しん粉細工と文字焼があった。(中略)文字焼と云うのは、うどん粉にちょっぴり炭酸を入れ、溶いたものを小さな竹柄杓で鉄板のうえに亀の子とか鯛、宝船なぞの形に垂らしながら図柄を描いて焼きあげ、紙縒で手に下げるようにしてくれた。それにお柏といって丸く焼いた上に砂糖を載せたり、黒豌豆を載せたりしたのを紙に包んでくれた。”


19195に以下の引用を追加

”私が最も不満だったのは、「買い食い」の禁止だった。このため本やお菓子は充分に与えられたが、お小遣いを一銭も貰えなかった。父の目には、当時の駄菓子屋は如何にも不衛生に映ったのであろう。ところが子供には子供の世界がある。一銭洋食(お好み焼)の味を知らずに仲間には幅が利かない。”

19279    お好み焼き
→カテゴリを焼きそばに修正

19285に以下の引用を追加

”三島 神農祭には屋台店がたくさん出ましたね。現在は堺筋の西側が中心になりましたが、昔は堺筋の東側が面白かった。皿回しがあったり、余興の舞台を提供する店があったり、香具師の口上があったり、薬草人形の飾りつけがあったり......”
”小西 本当に楽しかった。たこ焼きとか、お好み焼きとかを食べに出る。あれは洋食焼きといったんでしたか。”

19375に以下の引用を追加

 ”私が戦前から馴染んできたのは、いわばスパニッシュオムレツに近い具入りのうどん粉のお焼きであって、あのぐじゃぐじゃのもんじゃ焼とは似ても似つかないものだった。”
 ”私の子供時代に馴染んだお好み焼は、縁日の屋台で売っているもので、溶いたうどん粉を黒光りした鉄板の上に丸く流し、その上に、干しエビやイカの刻んだのをパラパラと振り、軽く焦がして裏返し、頃合いのところで上からソースをかけ、それが鉄板にこぼれて焦げるにおいが、なんとも香ばしくて旨そうだった。”

 ”新聞紙にその焼き立てを乗せてくれたのを、ふうふう冷ましながらパクついて家に帰るのだが、そういう買い食いに親がやかましく、食べ終るまで外を歩き回ったものだった。”



【修正カテゴリ3】本文の修正、変更


・1.大正7年のお好み焼き
「この本では”天”がその名前につくお好み焼きを”天もの”と総称することとする」の記述を追加。”天もの”というカテゴリ名がこの本オリジナルの名称であることを明記
・2.お好み焼きとどんどん焼との関係:この本が目指すところ
秋山安三郎に関する以下の記述を変更
 「秋山安三郎は9歳のときに奉公に出され、そこから新聞記者になった苦労人である。お好み焼きが誕生しどんどん焼というあだ名が付いた、明治末から大正期には現役記者として働いており。子供の世界からは遠ざかっていたはずだ。」
→「秋山安三郎の自伝「人生玉ころがし」によると、秋山は明治28年に横浜に奉公に出されてから大正12年に東京の新聞社本社に勤務するまで、東京を不在にしていた。つまり、文字焼がお好み焼きに変わる重要な時期に、東京にいなかったのだ。」
・9.和食は大阪、屋台と洋食は東京
洋食黎明期の証言に内田魯庵を追加。
昭和初期に東京が関西料理に席巻されていた証言として里見弴、福良竹亭、片柳草太郎を追加。
昭和初期の大阪京都の洋食と中華料理がまずかった証言として南部修太郎、坪内士行他複数の証言を追加。
・10.醤油とウスターソース
実業世界太平洋明治38年6月号からの引用を追加。
・11.天ものの登場
生地を鉄板に流してから具を上にのせる事例 5件(19134,19141,19213,19375,19411)
→生地を鉄板に流してから具を上にのせる事例 4件(19141,19213,19375,19411)
混ぜる・のせる混合事例 池波正太郎の1件(19291)
→混ぜる・のせる混合事例 2件(19143,19291)
事例は少ないが、”カキアゲ”というメニューも存在した(19181)(19336)。
→19336は19366の間違い
夏目漱石の「坊っちゃん」に登場する天ぷらそばについて、下敷きとなった実際のエピソードではしっぽくうどんであったらしいことを記述。
明治40年代に文字焼からお好み焼きへと次第に移行していった東京のお好み焼きにおいては
→明治40年を明治時代末に修正
明治31年生まれの高橋邦太郎が子供の頃に「お好み焼き」屋台を体験しているので(19042)、明治30年代にはお好み焼き屋が存在した可能性がある。
津村節子の生年を昭和2年から3年に訂正。
・12.お好み焼きの店舗化
野一色幹夫の「夢のあとさき」において、お好み焼き屋が連れ込み旅館の役割をしていた時期を「平成」としていた点を削除。昭和40年代のまちがい。
・13.変わる駄菓子屋の文字焼
明治40年代に屋台の文字焼がお好み焼きに看板を書き換え
→明治時代末に屋台の文字焼がお好み焼きに看板を書き換え に修正
明治31年生まれの高橋邦太郎が子供の頃に「お好み焼き」屋台を体験しているので(19042)、明治30年代にはお好み焼き屋が存在した可能性がある。
・15.来々軒と支那そばの普及
支那そばが来々軒の発明ではないという資料として来々軒三代目尾崎一郎の証言を追加。
路面電車以前の銀座見物は泊りがけの旅行であったという内田魯庵の証言を追加。
大正時代の浅草に中華麺の製麺業が成立していた資料として経済時報11月号「商売百種 南京蕎麥屋」、新公論8月号「實驗生活 支那蕎麥行商記」を追加。
昭和初期の西洋料理店が中華料理を兼業するようになったという証言を複数追加。
牛肉屋(牛鍋屋)の幸楽が中華料理の兼業をはじめたという記事を追加。
百貨店の食堂において中華料理が出されたという晩翠軒吉井藤兵衛の証言を追加。
昭和初期に蕎麦屋で支那そばを提供していた証言に食道楽昭和五年九月「そば一席」山風楼主人からの引用を追加
横浜中華街でラーメンに「柳麺」の漢字を当てていた例として「聞き書 神奈川の食事」(日本の食生活全集14)を追加
ヒゲの天平の広告画像を追加。

轍の文化史―人力車から自動車への道 斉藤俊彦から、路面電車利用者数の急激な伸びについて引用。
「今日は三越 明日は帝劇」というコピーの初出が不明確なため、明治末という表現を削除。
『焼きそばの歴史《上》: ソース焼きそば編』の引用を追加。「少なくとも知識としてソース 焼きそばが戦前の関西に伝わっていた」可能性の指摘。
・16.天ものの日本各地への展開
駄菓子屋で店主が焼いて売るスタイルは、広島独自の文化であるようだ。他の地域では、京都、兵庫にそれと思われる例がそれぞれ1つあるだけである(19377、19378、19384)。
→19384は19348の間違い
中野卓の生年を大正12年から9年に訂正。
・エピローグ 第三次お好み焼き屋ブーム
ロッパが物心ついた頃、明治40年代の東京の屋台で子供向けのパロディ洋食として産声をあげたお好み焼きは→明治40年代を明治時代末に修正
明治31年生まれの高橋邦太郎が子供の頃に「お好み焼き」屋台を体験しているので(19042)、明治30年代にはお好み焼き屋が存在した可能性がある。
・メモ:日本の洋食とウスターソース
”だが、揚げ物にウスターソースをたっぷりかけて食べる、というのは明治期に日本人が考え出した食べ方であって、イギリスオリジナルの食べ方とは異なるようだ。”を削除。そう判断するには資料が少ないと反省。この命題の証明は今後の課題。
以下の文章も削除
”ステーキにウスターソースをつけて食べるのはイギリス由来の使い方だが、フライやカツレツにかけて食べるのは日本独自の食べ方だ。”
”また、明治時代の洋食屋台開業マニュアルに、オムレツには塩胡椒で下味をつけソースを添付するとあったが、このオムレツにウスターソース、というのも、ウスターシャソースの使用法にはない日本独自の習慣だ。”
ステーキにウスターソースをかけていた事例として、昭和50年の作家長谷川幸延発言を追加。
洋食といえば何にでもウスターソースをかける日本人の習慣について、食道楽昭和7年10月号からの引用を追加。
メモ:多彩だったお好み焼きのメニュー
横浜日の出町のお好み焼き屋「みかさ」のクラブハウスサンドにかんする証言を追加。
 
【修正カテゴリ4】その他
・誤字脱字修正 「鯛焼」→「鯛焼き」など表記の統一
・引用文献名の間違い訂正
「文藝春秋」にみる昭和誌
→「文藝春秋」にみる昭和史に修正
「くるま」の比較史(加藤友康 アジアの中の日本史4文化と技術所収)
→アジアの中の日本史4を6に修正
雑誌 商店界15巻12号
→ 雑誌 商店界昭和10年12月号に修正
東京食べある記
→東京喰べある記に修正
京阪食べある記
→京阪喰べある記に修正
・2桁のアラビア数字は全角から半角に変更
・「市電」を「路面電車」に変更
・引用文献等の書名を『』で囲む表記に統一