2020年3月5日 Ver.1.10 改訂内容


【修正カテゴリ1】

お好み焼き巻末資料集およびお好み焼きの戦前史公開スプレッドシートへの資料追加と、追加にともなう本文の変更
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1RFIwNBySGjNQc3S93Nmu8wAttWz54nJIFXw8qMZLpNU/edit#gid=0

18681
明治世相百話
山本笑月
P137
明治初年の子供遊び
”倦きれば町内の番太郎へ集まつて、ぼったら焼きや駄菓子の箱にかじりついて、天保銭や五厘玉の散財、大きな声で「おくれつ」と飛び込む威勢のよさ”

18933
あまカラ1954年6月号 駄菓子 長谷川かな女
P11
”ぼつたら焼などと云ふのは菓子の部には入らないかも知れないが、一文菓子を僅かばかり並べた低い庇の下に縁台を置き、四角い木の火鉢の上に乗せた銅板を圍んだ鼻たれ子達が、腰の曲がつたお婆さんの手から小茶碗を受けとると我が世を取つたやうに、どろどろに溶いたうどん粉を銅板の上に零して泡を立てて焼き上って来るのを待つ面構えが、今日の子供達の顔からは汲みとりやうもない逞ましさであつたと思ふ。もんじやきを短かめて、もんじゃきとも云ひ、ぼつたら焼とも云った。今日のお好み焼の元祖であらうが、うどん粉一式に玉砂糖か何かで甘味をつけてあるのだらう。雨の續く日などには一文菓子屋の眞似をして、銅板の代用に卵焼をする四角い容器へうどん粉を垂らして亀の子だのお櫃をこしらえて、食べるよりも焼き上る種々な形を並べて愉しんだものであつた。”

→6.駄菓子屋の文字焼 に容器の例として追加
→メモ:ボッタラ焼きとは に文字焼とボッタラ焼きを同一視する例として追加

18934
18933に同じ(正規化のため文字焼の項目を作成)

18973
読売新聞明治30年12月22日東京版
ぼったら燒
”子供相手の文久商内なれども資本かからねば一日二十五銭から三十五銭は取る”
(注 記事中の他の商売は屋台なので、ぼったら燒も屋台と思われる)

→8.お好み焼きの誕生 のボッタラ焼屋台事例として追加

18974
読売新聞明治30年12月20日東京版
下層階級の職業例としてぼったら燒


18982
食道楽昭和六年三月号
射倖心と食べ物 西村楽天
P65
”僕の十二三時分、腕白盛りの僕が泰明小學校から歸ると鞄を玄關からほうり出して「只今……お母さんゼゼ」と叫ぶ「サア」と渡された五厘を持つて飛んで行くは、大概文字焼やであつた(文字焼とはどんどん燒とも云ふ)メリケン粉をとかしたやつを茶碗に入れて鐵板の上で自分自身で焼くのである。”

→6.駄菓子屋の文字焼 に容器の例として追加

18983
18982に同じ(正規化のためどんどん焼の項目を作成)


19034
明治の銀座職人話
野口孝一
P181
“鍋町角の道端に白い壁を背にしん粉細工のおじさん、新勝という常床店があった。(中略)もう一方では、丸い鉄板の上で亀の子、お柏、帆かけ舟などを焼く文字焼をやっていた。”

19042
食道楽昭和五年四月号
追憶片々草(一) 高橋邦太郎
P95
”お好み焼。これは一名龜の子焼とも、或はドンドンやとも云つた。太鼓を叩いて來るからである。火の上に掛けた鐵板の上で、うどん粉を水でといたものを燒いて、これに餡を入れたり、豆や乾し蝦を入れたり、それに蜜を掛けたりするが我々が望むものを立所にこしらへて呉れるので面白かつた。近所へ來るのに一人非常にうまいのがゐて、僕は感心して見たものである。就中その人はオハチが上手だつた。つーつと一本太い線を引き、別なところにくるくると圓を描いてそれを塗りつぶすと、それでオハチの蓋が出來た。それから、太い長方形をつくり、別に丸形をつくると、それでオハチは完成した。オハチの中へ豆を入れて渡して呉れた。パンヂウなぞあの味に劣ること幾何なるか知らない。”

”下手なのに掛ると紅をうどん粉の中に入れて下繪を描く、そんなのにうまいのがあつたためしはない。”

→5.明治時代の文字焼 にお好み焼き屋台のおはちの作り方として例示
→8.お好み焼きの誕生 にお好み焼き屋台の最古の例として追加

19043、19044
19042に同じ(正規化のため亀の子焼、どんどん焼の項目を作成)

19045
食道楽昭和五年五月号
追憶片々草(二) 高橋邦太郎
P74
十文菓子屋について
”そして、それらとは別なところにボツタラ燒をさせる設備がある。ボツタラ燒は別名をモンヂヤ燒とも云う”

→メモ:ボッタラ焼きとは に文字焼とボッタラ焼きを同一視する例として追加

19046
19045に同じ(正規化のためボッタラ焼の項目を作成)

19047
風俗画報明治三十七年二月号
女百姿
子守の少女の発言
”二銭貰つたから、金米糖と蜜豆と団子を買って、ぼツたら焼して遊ぶのよ”

19078
明治百年を語る古老のつどい
千代田区編
P32
麹町平賀天神の縁日
”当時は天神の境内はもちろん、 今、堀久作さんの邸のあるあたりまで一帯に夜店がたった。天神の境内の両側は今のおこのみ焼、われわれの時分はボッタラ焼の店がずっとならんでいました。”

→メモ:ボッタラ焼きとは に追加

19079
あまカラ1955年11月号
駄菓子の味 桶谷繁雄
p50
明治末期から大正はじめの浅草馬車道の駄菓子屋
”冬になるとモンジャ焼と云うものをした。土間の上りかまちの 所に大きな火鉢と鉄板を出して、その上でウドン粉に桜エビの乾物などまぜて溶いたものをジューと焼いたりする。おこのみ焼と近頃称しているアレである。どうしてモンジャ焼と呼んだのか知らないが、「三人寄れば文殊の智恵」というあれで、この火鉢の周囲にはいつも三四人の子供が集まるから誰ともなしに文珠焼、それを浅草の子供 はモンジャ焼と訛ったのかも知れない。料金は、いづれにしても一銭が単位であった。”

→13.変わる駄菓子屋の文字焼に、干しえびを入れる事例として追加。

1930D
コンマーシャルガイド
コンマーシヤルガイド社
P208
”そして東京の中には、謂はゆる駄菓子を簡易な食事にするものがあり、駄菓子と稱するものが可なり命脈を保ち、江戸時代から残る文字燒まで横町の子供に親しまれ、蜜豆といふ家庭的な簡単な配劑が可なり高級に飾られたホールにまで進出して居る。”


19338
昭和激動期の浅草っ子物語 
篠康太郎
P28
”「中華店」に入って、柔らかい焼きそばにシチュウがかかった「看板メニュー」を食べるのが好物だった”
P31
”夕方になると、 鐘を鳴らす「屋台のおでん屋」、 ソースの匂いが漂う「焼きそば屋」がきた。”

19339
味を訪ねて
吉村昭
P109
”お好み焼屋に入ったのも、浅草が初めてであった。”
”お好み焼屋で食べるものは、もんじゃ焼き、どんどん焼きと同じであるが、しゃれた店がまえで、出されるものも清潔で、味もよかった。現在のようにごてごてと大盛りにされた無粋なものではなく、ホーローびきのカップに、牛のひき肉、キャベツ、干しえび、さきいか、餡などがそれぞれ入ったものを註文し、鉄板で焼く。客に連れられた芸者や半玉の姿もあった。”

→12.お好み焼きの店舗化 に店舗におけるお好み焼きの提供方法事例として追加。

1933A
味を訪ねて
吉村昭
”その頃、町の駄菓子屋では、もんじゃ焼きと称する子供相手のものがあった。タドンや炭火の上に四角い鉄板が置かれ、小麦粉を水でとかしたものにキャベツ、干しえび、 あげ玉などを茶碗に入れたものを、サジですくって鉄板の上に落す。火が通ると、小さなハガシですくって、ソースにつけて食べる。”
”母は、それらを不衛生きわまりないと言って、決して口にしてはならぬ、と険しい眼をして言っていたが、母の眼をぬすんでひそかにそれらを食べていた。”

1933B
味を訪ねて
吉村昭
”また、もんじゃ焼きと同じどんどん焼きを作って売る屋台車がやってきて、屋台の男が巧みに焼いてくれる。四角く切った新聞紙にのせて、渡してくれるのである。
”母は、それらを不衛生きわまりないと言って、決して口にしてはならぬ、と険しい眼をして言っていたが、母の眼をぬすんでひそかにそれらを食べていた。”

→メモ:お好み焼き死亡事件 の親からお好み焼きの買い食いを禁止された人のリストに追加。

19349
なぞなぞ下町少年記
このみひかる
P51
どんどん焼き屋台のマンガ
メニューにえび天、ねぎ天、いか天、やきそばの文字
海苔の缶とソースの瓶がある
少年が三角錐に丸めた古新聞に盛られた焼きそばを串のようなもので食べている。
”どんどんやきのおじさんの屋台から流れてくる『やきそば』『牛てん』『いかてん』のソースのにおいは下町の路地から路地を伝わってぼくらのすきッ腹の底のあたりまでプンプンはいりこんできたものである。”
”古新聞とソースがミックスしたにおいはたまらなくなつかしい。”

1934A
なぞなぞ下町少年記
このみひかる
P117
”この駄菓子屋の内職に「ボッタ焼き」というのがあった。”
”今ふうにいえば「お好み焼き」の前身だ。スタイルは、まったく「お好み焼き」と同様で、メインは、ウドン粉を水で溶いた汁を、ふちのかけた茶わんに一パイ。値段は一銭。まんがの説明図のように、鉄板のまわりに子どもたちが座って、ジュージュー焼いて、備えつけの、安もののしょう油やソースをつけて食べるのである(このまんがでは大部屋になっているが、実際はもっとせまくて、だいたい六じょうか、四じょう半のうす暗い部屋で、いつも便所くさくて、非衛生的であった。しかし、そんな風味が、下町らしさでもあったのだ)。でも、かあちゃんたちには評判がわるかった。”
P119
駄菓子屋のボッタ焼きのマンガ
ソースだけを焼く子供に「こらーっソースやきは鉄板がいたんじゃうからやめとくれー」と駄菓子屋の鬼ババが怒る
「わたしたまごいれておいしくやいてたべるのよ……。」「いーいなあみっちゃんちは金もちだもんな。」(タマゴなんてキチョウ品であった。)
P121
マンガ ぼった焼きを母親に禁止される

→メモ:お好み焼き死亡事件 の親からお好み焼きの買い食いを禁止された人のリストに追加。

→メモ:ボッタラ焼きとは に南千住のボッタ焼き事例として追加

P122
マンガ 駄菓子屋でのボッタ焼き ネズミの絵を描いている
P124
”あるとき、うめちゃんの店のボッタ焼きをたべた子どもが、中毒で下痢った事件があってから、あんまり子どもたちは近よらなくなった。ぼくもかあちゃんに禁足令を出されていたので、あの店には近づかなかった”

19385
なぞなぞ下町少年記
このみひかる
日本橋の母の実家の話
P100
”夕方になると、近くのお好み焼きに行って、牛てん、いかてん、あんこ巻きなどを腹いっぱいたべた。”
”南千住のうすよごれたボッタ焼きも味があるけど、こっちは上品で、おすまし連が鉄板をこがしていた。”
(P108にお好み焼き屋とあるので店舗形式のお好み焼き)

19399
古川ロッパ昭和日記 戦前編 昭和9年―昭和15年
古川ロッパ(著)、滝大作(監修
)
P609
昭和14年10月9日
”大雅で、 都築文男、井口静波等と会ひ、千どりといふお好み焼へ行っていろいろ焼いて食った。”

昭和14年10月10日
”昨夜行ったお好み焼へ堀井夫妻と竹川・女房とで行く。千どりお好み焼店、世の中には変ったものもあるもの、此の趣味、此の味、大まじめで食ってるのが実に可笑しい、五人で三円五十銭。それで腹が張ったからいい。”

P611
昭和14年10月17日
”心配事あるものの、千鳥お好みやきへ行って、自由焼をたのしみ、腹一杯になってしまった。”

→2.お好み焼きとどんどん焼との関係:この本が目指すところ 「お好み焼き」という言葉を使う人一覧に古川ロッパ追加


1939A
昭和14年10月1日の浅草絵図

浅草の地図上にあるお好み焼き店舗
・いその  公園大通りと地下鉄横丁との交差点南、鳥料理金田の横 現在の台東区浅草1丁目36番地
・御笑楽 伝法院南西 公園劇場北向かい 現在の台東区浅草1丁目40番地
・菊水 言問通りから南に二本はいった道 現在の台東区浅草2丁目26番地



【修正カテゴリ2】

お好み焼き巻末資料集およびお好み焼きの戦前史公開スプレッドシートの資料内容変更
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1RFIwNBySGjNQc3S93Nmu8wAttWz54nJIFXw8qMZLpNU/edit#gid=0


18951に以下の引用を追加

”駄菓子屋に上り込んで鉄板の上で文字焼をする事、円や四角や鯛や人間の形などを描いて食べる事などは作画をも補長する事で下町の子供の雨降りなどには楽しい事でした。”


明治の銀座職人話

19033に以下の引用を追加

 ”食用と玩具をかねた子供相手の店は、この店のほかに、しん粉細工と文字焼があった。(中略)文字焼と云うのは、うどん粉にちょっぴり炭酸を入れ、溶いたものを小さな竹柄杓で鉄板のうえに亀の子とか鯛、宝船なぞの形に垂らしながら図柄を描いて焼きあげ、紙縒で手に下げるようにしてくれた。それにお柏といって丸く焼いた上に砂糖を載せたり、黒豌豆を載せたりしたのを紙に包んでくれた。”


19195に以下の引用を追加

”私が最も不満だったのは、「買い食い」の禁止だった。このため本やお菓子は充分に与えられたが、お小遣いを一銭も貰えなかった。父の目には、当時の駄菓子屋は如何にも不衛生に映ったのであろう。ところが子供には子供の世界がある。一銭洋食(お好み焼)の味を知らずに仲間には幅が利かない。”

19279    お好み焼き
→カテゴリを焼きそばに修正

19285に以下の引用を追加

”三島 神農祭には屋台店がたくさん出ましたね。現在は堺筋の西側が中心になりましたが、昔は堺筋の東側が面白かった。皿回しがあったり、余興の舞台を提供する店があったり、香具師の口上があったり、薬草人形の飾りつけがあったり......”
”小西 本当に楽しかった。たこ焼きとか、お好み焼きとかを食べに出る。あれは洋食焼きといったんでしたか。”

19375に以下の引用を追加

 ”私が戦前から馴染んできたのは、いわばスパニッシュオムレツに近い具入りのうどん粉のお焼きであって、あのぐじゃぐじゃのもんじゃ焼とは似ても似つかないものだった。”
 ”私の子供時代に馴染んだお好み焼は、縁日の屋台で売っているもので、溶いたうどん粉を黒光りした鉄板の上に丸く流し、その上に、干しエビやイカの刻んだのをパラパラと振り、軽く焦がして裏返し、頃合いのところで上からソースをかけ、それが鉄板にこぼれて焦げるにおいが、なんとも香ばしくて旨そうだった。”

 ”新聞紙にその焼き立てを乗せてくれたのを、ふうふう冷ましながらパクついて家に帰るのだが、そういう買い食いに親がやかましく、食べ終るまで外を歩き回ったものだった。”



【修正カテゴリ3】本文の修正、変更


・1.大正7年のお好み焼き
「この本では”天”がその名前につくお好み焼きを”天もの”と総称することとする」の記述を追加。”天もの”というカテゴリ名がこの本オリジナルの名称であることを明記
・2.お好み焼きとどんどん焼との関係:この本が目指すところ
秋山安三郎に関する以下の記述を変更
 「秋山安三郎は9歳のときに奉公に出され、そこから新聞記者になった苦労人である。お好み焼きが誕生しどんどん焼というあだ名が付いた、明治末から大正期には現役記者として働いており。子供の世界からは遠ざかっていたはずだ。」
→「秋山安三郎の自伝「人生玉ころがし」によると、秋山は明治28年に横浜に奉公に出されてから大正12年に東京の新聞社本社に勤務するまで、東京を不在にしていた。つまり、文字焼がお好み焼きに変わる重要な時期に、東京にいなかったのだ。」
・9.和食は大阪、屋台と洋食は東京
洋食黎明期の証言に内田魯庵を追加。
昭和初期に東京が関西料理に席巻されていた証言として里見弴、福良竹亭、片柳草太郎を追加。
昭和初期の大阪京都の洋食と中華料理がまずかった証言として南部修太郎、坪内士行他複数の証言を追加。
・10.醤油とウスターソース
実業世界太平洋明治38年6月号からの引用を追加。
・11.天ものの登場
生地を鉄板に流してから具を上にのせる事例 5件(19134,19141,19213,19375,19411)
→生地を鉄板に流してから具を上にのせる事例 4件(19141,19213,19375,19411)
混ぜる・のせる混合事例 池波正太郎の1件(19291)
→混ぜる・のせる混合事例 2件(19143,19291)
事例は少ないが、”カキアゲ”というメニューも存在した(19181)(19336)。
→19336は19366の間違い
夏目漱石の「坊っちゃん」に登場する天ぷらそばについて、下敷きとなった実際のエピソードではしっぽくうどんであったらしいことを記述。
明治40年代に文字焼からお好み焼きへと次第に移行していった東京のお好み焼きにおいては
→明治40年を明治時代末に修正
明治31年生まれの高橋邦太郎が子供の頃に「お好み焼き」屋台を体験しているので(19042)、明治30年代にはお好み焼き屋が存在した可能性がある。
津村節子の生年を昭和2年から3年に訂正。
・12.お好み焼きの店舗化
野一色幹夫の「夢のあとさき」において、お好み焼き屋が連れ込み旅館の役割をしていた時期を「平成」としていた点を削除。昭和40年代のまちがい。
・13.変わる駄菓子屋の文字焼
明治40年代に屋台の文字焼がお好み焼きに看板を書き換え
→明治時代末に屋台の文字焼がお好み焼きに看板を書き換え に修正
明治31年生まれの高橋邦太郎が子供の頃に「お好み焼き」屋台を体験しているので(19042)、明治30年代にはお好み焼き屋が存在した可能性がある。
・15.来々軒と支那そばの普及
支那そばが来々軒の発明ではないという資料として来々軒三代目尾崎一郎の証言を追加。
路面電車以前の銀座見物は泊りがけの旅行であったという内田魯庵の証言を追加。
大正時代の浅草に中華麺の製麺業が成立していた資料として経済時報11月号「商売百種 南京蕎麥屋」、新公論8月号「實驗生活 支那蕎麥行商記」を追加。
昭和初期の西洋料理店が中華料理を兼業するようになったという証言を複数追加。
牛肉屋(牛鍋屋)の幸楽が中華料理の兼業をはじめたという記事を追加。
百貨店の食堂において中華料理が出されたという晩翠軒吉井藤兵衛の証言を追加。
昭和初期に蕎麦屋で支那そばを提供していた証言に食道楽昭和五年九月「そば一席」山風楼主人からの引用を追加
横浜中華街でラーメンに「柳麺」の漢字を当てていた例として「聞き書 神奈川の食事」(日本の食生活全集14)を追加
ヒゲの天平の広告画像を追加。

轍の文化史―人力車から自動車への道 斉藤俊彦から、路面電車利用者数の急激な伸びについて引用。
「今日は三越 明日は帝劇」というコピーの初出が不明確なため、明治末という表現を削除。
『焼きそばの歴史《上》: ソース焼きそば編』の引用を追加。「少なくとも知識としてソース 焼きそばが戦前の関西に伝わっていた」可能性の指摘。
・16.天ものの日本各地への展開
駄菓子屋で店主が焼いて売るスタイルは、広島独自の文化であるようだ。他の地域では、京都、兵庫にそれと思われる例がそれぞれ1つあるだけである(19377、19378、19384)。
→19384は19348の間違い
中野卓の生年を大正12年から9年に訂正。
・エピローグ 第三次お好み焼き屋ブーム
ロッパが物心ついた頃、明治40年代の東京の屋台で子供向けのパロディ洋食として産声をあげたお好み焼きは→明治40年代を明治時代末に修正
明治31年生まれの高橋邦太郎が子供の頃に「お好み焼き」屋台を体験しているので(19042)、明治30年代にはお好み焼き屋が存在した可能性がある。
・メモ:日本の洋食とウスターソース
”だが、揚げ物にウスターソースをたっぷりかけて食べる、というのは明治期に日本人が考え出した食べ方であって、イギリスオリジナルの食べ方とは異なるようだ。”を削除。そう判断するには資料が少ないと反省。この命題の証明は今後の課題。
以下の文章も削除
”ステーキにウスターソースをつけて食べるのはイギリス由来の使い方だが、フライやカツレツにかけて食べるのは日本独自の食べ方だ。”
”また、明治時代の洋食屋台開業マニュアルに、オムレツには塩胡椒で下味をつけソースを添付するとあったが、このオムレツにウスターソース、というのも、ウスターシャソースの使用法にはない日本独自の習慣だ。”
ステーキにウスターソースをかけていた事例として、昭和50年の作家長谷川幸延発言を追加。
洋食といえば何にでもウスターソースをかける日本人の習慣について、食道楽昭和7年10月号からの引用を追加。
メモ:多彩だったお好み焼きのメニュー
横浜日の出町のお好み焼き屋「みかさ」のクラブハウスサンドにかんする証言を追加。
 
【修正カテゴリ4】その他
・誤字脱字修正 「鯛焼」→「鯛焼き」など表記の統一
・引用文献名の間違い訂正
「文藝春秋」にみる昭和誌
→「文藝春秋」にみる昭和史に修正
「くるま」の比較史(加藤友康 アジアの中の日本史4文化と技術所収)
→アジアの中の日本史4を6に修正
雑誌 商店界15巻12号
→ 雑誌 商店界昭和10年12月号に修正
東京食べある記
→東京喰べある記に修正
京阪食べある記
→京阪喰べある記に修正
・2桁のアラビア数字は全角から半角に変更
・「市電」を「路面電車」に変更
・引用文献等の書名を『』で囲む表記に統一