2021年5月28日 Ver.1.12 改訂内容
 
・全体

深川飯資料集に「アジの押ずし」(川口松太郎)(『強肴』 茶道之研究社編)を追加

改訂内容(この章)を追加。

 
・プロローグ ワンニラ

以下の引用を追加
”燒鳥を食ひ食ひ犬の足を踏み”
”屋台の下にはかならず犬が、人間が固くて噛み切れない肉を投つてくれるのを待つてゐる。”(『浅草底流記』 添田唖蝉坊)
 
・第二章 明治という時代が生んだ丼(どんぶり)物
・5.一膳飯のタブー
戦前の都会のホワイトカラー・学生が毎回3杯のご飯を食べていた例として『当世書生気質』(坪内逍遥)、『十代に何を食べたか』、『わたくしの青年記』(守随憲治)を追加。
『第四回東京市社会局年報』(東京市社会局編)における公衆食堂ご飯量指定を画像とともに引用。これに伴い『社会事業』(田子一民)、東京朝日新聞大正10年10月6日記事の引用を削除
・6.大きなどんぶりはいつあらわれたか
以下の文章を削除し「アジの押ずし」(川口松太郎)(『強肴』 茶道之研究社編)からの引用文を追加。深川飯も大丼、小丼等バリエーションがあった。
”深川飯がどのような大きさの食器で提供されていたのかが書かれた資料は、残念ながら見つからなかった。しかしながら牛めしと同じ客層を相手にしていた関係上、牛めしと同じく小丼や茶碗でも提供されていたのではないかと推測する。”
その次のセンテンスを以下のように変更
”一方で小さい丼、茶碗でも提供され続けた牛めしや深川飯に対しては、牛丼、深川丼という呼称は主流にはなりえなかった。”
 
・メモ:丼物のヒエラルキーと深川飯
戦前の牛肉、鶏肉の小売価格統計資料として『東京市勢提要(第19回)』(東京市統計課編)を引用。
西洋料理における鶏肉料理の値段について『明治西洋料理起源』(前坊洋)から「明治四十年一月十五日開業の青森駅旅客待合所販売品一覧」を引用
 
・第四章 公衆食堂、大衆食堂と牛めし
・2.公衆食堂と牛めし
中流階級が公衆食堂を利用していた件について『東京府社会事業概観第2輯』(東京府社会事業協会編)を引用。
 
・第五章 関東大震災と牛めし
・1.関東大震災後、素人が牛めし屋台を開業
→1.関東大震災後、素人が牛めし屋を開業に変更 屋台だけでなくバラックもあったため
東京朝日新聞大正12年9月30日朝刊「燒跡にふえるふえる夥しい飲食店六千軒」を引用
寿司がまっとうになったのは築地に魚河岸が移転してからだという『すしの思い出』(杉山宗吉)の証言を追加
 
・第六章 下層階級の食に関心を向ける食通たち
・3.下層階級の食(2) 寿司の屋台
『すしの思い出』(杉山宗吉)、『鮓・鮨・すし―すしの事典』(吉野昇雄)を引用し、屋台至上主義から店舗の寿司店も内部に屋台店を取り込むようになり、それが現在の寿司屋のカウンターになったことを記述。

・7.中華料理と子供向け屋台
”ちなみに、明治38年には横浜南京町近くに路面電車(横浜電気鉄道)の停車場ができている。”の一文を追加。
園遊会におでん、焼鳥が出ていた事例として、朝日新聞東京明治33年3月26日の記事「江島行(三)」(柳塢亭寅彦)、「芸談 あばらかべっそん」(八世桂文楽)(『日本人の自伝21』)、読売新聞明治45年4月8日朝刊「本野男邸で園遊會」の事例を追加。
 
・メモ:トロの二極化現象
トロを捨てていたという大正2年生まれ真下菊之助の証言(『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和3』)を追加
戦後になっても寿司屋では夏場にトロを出さなかった例として『味の散歩』(秋山徳蔵)を引用。
トロを醤油漬けにしていた実例として『江戸っ子神田っ子』(森田雅子)を引用。
 
・第七章 明治三十年代の食道楽
・1.村井弦斎の『食道楽』
ヴィクトリア朝の悪質な食品偽装や添加物について『危ない食卓』(横山茂雄編)を参考書として例示
・2.三銭均一食道楽おとわ亭
路面電車開通以降、おとわ亭のような洋食店が繁盛するようになったという「都下料理店の衰頽」(徂堂子)(『実業世界太平洋 明治38年22号』)を引用。
・メモ:玉ねぎと紅生姜
かつてカレーには紅生姜がついていた例として「ライス・カレー」(角田猛)(『あまカラ 1957年7月号』)、『食卓への招待』(植原路郎)を追加。