「ガチ中華移民」第一回読破デス。

 

 

ワタクシの勤務先は中国系大学(レストランですよ♪)なので教員などのスタッフ(従業員)、そして生徒(お客様)が中国の方々なので、「そうだよネェ~」と共感する所もあるし、「なるほどネェ~」と感心する事もあり、楽しく読ませていただきました。
 
ワタクシ的認識としては、毎日生徒さんを迎えているので「日本にはどれだけ多くの中国人がいるんだろう!」と実感してますし、やはり他国で暮らしているんですから、自国の味を求めるのが人情、そしてそれは日本人とか中国人とか、関係はありません。そういう意味で『ガチ』とは、「本来の伝統的な本物の味」という意味よりは、この場合「現在から10年間位前まで対象で進行形の現地味」という事だと思いマス。
 
まぁ、そんな事を考えながら、そういえばこういう状況が以前の日本というか、東京にもあったんだよネェ~と思い、チト調べてみました(^O^)/
 
 舞台は神田周辺の神保町が中心で、通称、神保町チャイナタウン。1894(明治27)年~1895(明治28)年にかけて、朝鮮半島の支配権をかけた日本と清(中国)が戦い、日本が勝利した戦争。アヘン戦争(1842年から2年)後に欧米列強に次々と侵略される清国はアロー戦争(1856年から4年)後に「このままではダメだ」と自国を憂いて「西洋に学ぶしかない」と「中体西洋」という「中国の伝統を本体とし、西洋の技術を利用する」スローガンを掲げていたが、日清戦争で日本に負けてからは西洋よりも近い東洋(東の西洋と日本は呼ばれていた)に学べと明治維新で、「和魂洋才」、「日本人魂(意識、自覚)を持って、世界から(洋は大海=世界)学ぶ(才は学ぶ)」というスローガンにしていた日本に学ぼうと、自国の若者を厳しい選抜により 少数精鋭の者とし、官費によって留学生の派遣が構成された。1896年、 第1回留学生はわずか13名。それが義和 団事件後に急増加し、1902年には500名、翌年には1000名、科挙制度廃止後の1905年 には8000名、翌年がピークで10000名(2万人説 もあり)にまで膨れ上がった...清国を救うために官費で送った生徒達は、やがて現実に目覚めて清国を倒し、民主主義政権の中華民国を建国...するけど内乱で中国大陸は現在の中華人民共和国になり、中華民国は台湾にて亡命政権樹立する流れですが...清という国は自分達を倒してもらうために自分でお金を出してしまったのも、自然な流れなんでしょうネ~<(_ _)>

 

さて、急激に膨らむ留学生を受け入れる日本側は、そこまでの施設が無いので、これを好機としてナンチャッテ学校が乱立で石鹸の製法を一週間で教えて卒業させる学校もあったようだ。しかし、早稲田、明治、法政などの私学大学はちゃんと留学生を受け入れし、後の中華民国で重鎮となる人物達を輩出する。また、私立大学と並んで当時の中国人留学生 教育を代表する機関が「弘文学院」で、創設者はあの嘉納治五郎氏。

 

オリンピックムーブメントと嘉納治五郎

 

講道館柔道の創始者で有名な方ですが、本来は教育者でそれも体育を日本に広めた先駆的な指導者デス。徒歩主義を掲げて陸上競技という言葉の概念を創出し、長距離走などでは大会を初開催、水泳教育、さらには野球、テニス、サッカー、レスリング、ボクシング、空手、サンボ、ブラジリアン柔術など日本に普及する以前から関わっているのデス。さらに1909年には国際オリンピック委員会(IOC)委員に初の日本人として就任し、なんと1940(昭和15)年に初の東京オリンピック招致に成功...が、日中戦争の激化などにより返上したので、幻のオリンピックとなる。その後1938(昭和13)年に返上した2年後に行われる予定だった東京大会の開催を、その次から行われる大会に再度招致するため、エジプトで行われたIOC総会に出席し尽力したが、帰国途上の船上で肺炎のために死去...という経歴の持ち主なのデス。余談ですがワタクシは中学、高校と講道館柔道二段を高校一年生から習得しておりマス。まさか、嘉納治五郎氏がこのような経歴をお持ちなのは、学生当時は知りませんでした。もう少し柔道だけではなく、前記した事を知らしめても良いと思うのデス。そしてスポーツ関係だけではなく、敵国として戦争をし、戦勝した清国から日本政府に留学生の受け入れをお願いされ、西園寺公望文部大臣から嘉納氏へと依頼された最初の13名を率先して受け入れたのが1896年。そして亦楽書院を1899年には設立したが、急増する中国人留学生のためにそこが手狭となったので、1902(明治35)年 には牛込区牛込西五軒町(現・新宿区西五軒町)に 移転し、名前を改めて弘文学院となる。弘文学院 の在学者・卒業生には黄 興氏 (孫文氏と並ぶ辛亥革命の立役 者)、陳独秀氏(中国共産党創設者)、楊 昌 済氏 (教育 家。毛沢東の恩師・岳父)など多くの人材が輩出しており、魯迅氏も仙 台医学専門学校入学前に弘文学院で日本語を学ん でいたそうデス。なので、現在の中華人民共和国誕生に関わる人物として、嘉納治五郎氏は日本人として日中友好の象徴的人物、レジェンドとして最も取り上げて欲しい方なのデス!

 

★ 分け隔てなくともにー近代留学生教育と嘉納治五郎氏

 
はい、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題の神田、神保町チャイナタウンについてデス。母国を他国からの侵略から守るために選ばれた俊英達。しかし、異国での生活は大変で、生活用品や洋服に床屋など、特に食についてはまるで違う。母国のメシを食いたいという願望は、日本人も中国人も関係ありません。留学生も増加してましたが、1900年前後といえば、上海に租界があり、「魔都上海」といわれた時代。他国から侵略を受ける中国なので国外に脱出する人達は多くおり、増え続ける留学生が集まる神田、神保町で中国雑貨、洋服、床屋など商売する人達が徐々に増えて行き、飲食店は俗称として「故郷飯店」と呼ばれるようになった。揚子江飯店は正式に営業開始が1906(明治39)年、毛沢東氏政権下の首相、周恩来氏が自伝でお世話になったと書かれている漢陽楼は1911(明治44)年、移転して現在は赤坂や銀座で営業している維新號は1899(明治32)年など現在も営業を継続している。
 
 ★ 神保町中華街の成り立ち 新世界菜館・咸享酒店・健興通商 傅健興氏より
 
 
神保町という街の重鎮である中国料理店「新世界会館」「咸亨酒店」、カメ出し紹興酒で有名な「健興通商」を経営している傅健興氏が語る所によると「初代が専修大学近くの中華料理店「源来軒」を1943(昭和18)年に引き継ぎ、1946(昭和21年)に神保町2丁目の現在地に開店した当時、神保町界隈には40軒ほどの中華料理店が店を構えており、明治の頃のにぎわいには及びませんが中華街のような面影をまだ残しておりました。」...その当時が40店舗という事はピーク時にはどのくらい多くの料理店があったんでしょうネ。ネット検索しましたが、店舗の数量は不明でした。税金などのシステムがしっかりと確立していなかった時代なので、中々解らないのかも知れませんネ...ん?、終戦一年後というと日本国としては飲食店が正式に再開されるのは1949(昭和24)年で外食券食堂や喫茶などの営業に限定...あ、なるほど、新橋亭さんと同様で中国籍なので戦勝国扱いとなるから、営業する事が出来たんですよネ...それにしても、その当時は食料難ピーク時代、GHQによる自分達が利用している旅館業や喫茶業、また外食券食堂以外は営業休止という措置だったのに、40店舗も営業していたのは、チト複雑な気分というか、戦争の惨さを感じますよネ。
  
そういうワケで、総務省「住民基本台帳」による今年の1月1日現在で東京都内に住む外国人は23区において全て中国人がトップで合計では202,320名。千代田区だけでは2,438名です。当時は千代田区神田神保町に1万人の清国人留学生が下宿していたワケですから、それはそれで凄いですよネ。ちなみに2025年5月1日時点で来日している外国人留学生の中で最も多いのが中国人で13万1097名だそうデス...東京だけだとどれくらいになるんですかネ、まぁ、我が校、麻辣大学をご利用いただいている中国の方々は多数いますが、やはりそれだけの中国人が日本にいるので、ガチ中華といわれているお店が存続しているのだと思いマス。
 
しかし、こういう情報もありマス。中国教育部留学サービスセンターがこのほど公表したデータによると、2025年に中国へ帰国した留学生は53万5600名に達し、2024年より4万600名、2023年より12万名増加で、「留学生の帰国ブーム」が強まっているようデス。現在の国際状況での不安、中国国内でのハイテク企業への就職率向上、家族との絆の強まり、海外での仕送りで親の援助負担増などなどといわれており、実は留学生に限らずに就職したり、コチラで独立した人達も帰国して中国で生活している人は増えているようデス。つまり、ガチ中華を支えてきた人達の減少しているという事デス、そして中国人投資家によるガチ中華料理店進出で店舗の増大で主要のお客様である中国人が減って、店が増えているという現象が起きていマス。
 
 ★横浜中華街 はじまり語り、なるほど話 ~横浜開港150年企画~
 
 
ではガチ中華、当校のように現在中国で食べている中国料理を提供しているお店はどうするのか?、答えは神保町チャイナタウンで生き残ったお店のように、現地化する事になるようデス。「ガチ中華移民」で中村正人氏が区分けした「日本中華」「プレガチ中華」「ガチ中華」は常に明治の頃から行われていたように、順番的には「ガチ中華」→「プレガチ中華」→「日本中華」という流れが繰り返されていると考えマス。
 
横浜中華街も同様で、そもそも居留地から日本の貿易港として外国からの窓口になり西洋化した山下町は関東大震災によって瓦解、主だった欧米人達は「日本は駄目だ、十年は復活しないだろう」と自国へ撤退。残された中国人も帰国や神戸、長崎へと非難する人と、残るしかない人ととに分かれました。が、奇跡の復活を遂げ山下町は横浜南京(支那)街として産声を上げる、が空襲による再びの瓦解、しかし戦勝国の第三国人としての権利で再度の復活は闇市として繁栄し始める。この時は広東系の「ガチ中華」で旨い中国料理を食わせるという事が徐々に広まるが、頑固な店では自分の料理を提供する事にこだわる。しかし、日本経済の復興、高度成長期に入り、様々な日本人が利用し始めてお金を落としていく。ウマイ!、と言わせる楽しみや喜び、また好みにあわせる術を身につけて店舗拡大というのが「プレガチ中華」で広東系から辛い料理など他系統の中国料理を学び、提供し始める。そして、バブルを迎えて凄い速度で次々と当時は新しいといわれた料理が登場し、やがてバブルが崩壊して、日本的な中国料理、「日本中華」となった。現在は日本中華の店が新たなるガチ中華を自店に取り込んでお客様に提供している。つまり、生き残っている店はガ中華から始まるが、時間の経過共に新しい料理を取混んで、進化させているんだという事デス。
 

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★ 東京ディープチャイナ・公式

 

食べる楽しみが増えるのはとても良い事デス。新たに現地の今行われている料理を紹介していきながら、料理人自らのアレンジを加えて、美味しい中国料理が食べられると良いかなと思いマス。そして、知らない人にとっては新しいと思っている料理は、実は古い料理からの進化系だという事も往々にして在る、という事を理解して旨い料理を、美味しい中国料理を楽しみたいですネ、そういう意味で、「ガチ中華移民」はとても面白く拝読しました。また時間を作って再読しようと思いマス。本の良さって、読むたびに違う認識を持ったり出来て、新しい出会いと同じデス。本ってホント、良いですネ(^_-)-☆