さぁ~て、お昼の酒、そして美味しい料理を堪能しましてイイ感じデス。「じゃぁ、先生、片山さんのトコ行きますか?」「いいよ、久しぶりだナァ~♪」とテクテクと向かうのは溜池山王から紀尾井町まで~、食後のお散歩ですナァ~(^_-)-☆

 

    突然ですが、中島先生の著書、絶賛発売中~(^_-)-☆

       

 

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★ 中島先生の出版記念パーティーは雅叙園!

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 日中協賞味会は大満足、ご馳走様でした、今度はプライベートでうかがいマース♪

 

    

★ ムッシュ坂井最強鉄人のお店、ラロシェル賞味会↓

  前半→ https://ameblo.jp/ks-management/day-20160916.html

  後半→ https://ameblo.jp/ks-management/day-20160917.html

 

 

歩きながら中国料理の話題は尽きない。我が日本中国料理協会の顧問、そして日本ホテル・レストランサービス技能協会の中国料理のサービススペシャリストとして教本である「中国料理のマナーマニュアル」の制作にも協力され、現在は織田調理師専門学校で教壇に立たれている大先輩デス!!

 

そうそう、凄いでしょ、見て見て↓

   

以前に中島先生からいただいたコースメニュー例デス。「白土君ねえ、中国料理のマネージャーはこういうように自分でメニューを作れないとダメなんだよ、旬、食材、味、調理方法、そして大事なのはそのお客様の好みを把握して活かす。ここまでは当然だよね、それにサプライズ...わかるかな♪」と中島先生。俺は当然だが料理内容に目を通す。中々ハード系のメニュー構成ですなぁ~、ウンパイルーから行くのかい、ま、温菜だからスープを出さずに炒め物...ホー鳩使うのかい、坊主が塀を飛び越えて来ちゃいますな~。ジビエにマメやキモとまぁマニアな...そして四川・北京・広東・上海、あそうだね福建まで取り込んでのコースなんだね~。ん...この流れではなくて、このメニューの書き方はドコかで見た事が...あ~そうかと見ればやはりそうなっていました。「お、気が付きましたか、サプライズ」皆様わかりマスか~!?

 

上記画像の最上段一列目を右から左に向かって読むと「熱烈歓迎白土先生」となるのデス。中国料理では料理名そのものの羅列もあるし、装飾をし過ぎて料理の名前が無くなってしまうようなメニューを出す所も出て来ましたが、中島先生はちゃんと料理の内容も伝わる本来の菜単を用意されていたのですナァ~、素晴らしい。用意してもらった側は嬉しいですよね、まさにツカミはOKです、このスタートでそのお客様の祝宴は成功したも同然、想像出来ます。たった一枚の紙切れ、ところがこの紙切れはハンパない効力をもたらせます。頭では知っていた知識ですが、俺に見せるのためにワザワザ作ってくれた中島先生の気持ちに感謝デス<(_ _)>

 

お、見えてきました都道府県会館、ココの地下 →  

 

       

 

★ 上海大飯店

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お二人は二十年振りのご対面~♪ 中島先生は赤坂飯店出身でアルバイトからキャリアスタート。父に連れられて中学生の少年は初めての中国料理との出会いに感動して高校生の時にバイトを始め、そしてそのバイトをしていた「アカハン(赤飯=赤坂飯店の略)」の調理場で、生涯のアニキとなる山岡洋氏と美佐子夫人との出会いとなるワケです!

 

ホールサービス本店支配人から、2020年東京オリンピックで我々の業界では噂と注目となっているアスリート達の食事を担うであろう日本のエームサービス株式会社に山岡アニキからの誘いで転職~、ここで徹底的に...本人言ってますが、同期にはたくさんの方々がおりましたが、弱肉強食の荒波に挫折者続出。なぜならば『高度成長期』突入時期ですから、アッチやコッチの甘い水はたーーーーーくさん合った訳デス。その誘いに乗らず、多分性格や生い立ちも関係しているのデス。アメリカ流のドライな世界に「ハマった」中島青年は、徹底的に経営を数値化する手法を会得するのデス!

 

そして当時の不夜城として名高い日本では、そう、新宿。名だたるホテルの中でも極めて名声を得た、煌びやかなホテルと言えばセンチュリーハイアット、現在のハイアットリージェンシー。山岡のアニキからの声掛けで、ホテルの花形である宴会部の責任者からのスタートで、最終的にはホテルの『格』を決めるメインレストラン「翡翠宮」の店長となるのデス。ここで初代料理長・取締役の蔡良氏を当時の山岡副料理長と徹底的にサポートし、ホテルの名声を高めるのデス。その後、その実績から伝説の田村町「中国飯店」、後に日本の広東料理界はココの出身者で一世を風靡する。その中で当時絶好調だった炎の料理人、周富徳氏がオープンさせた「赤坂離宮」からオファーが来たのだ。周総料理長はテレビ出演等で個人的に多忙なので店がおろそかになっていたので、やむなく新料理長を迎える事になる。現在のオーナーシェフ彦彬氏。だが当時メトロポリタンに勤務しており、俺が行くまでみてくれないだろうかとの依頼。悩んだ末の快諾、醜悪な内実だった経営形態を暴き出す中島先生。経営者と従業員の狭間で苦悩の日々を送るも、軌道修正を地道に続ける先生の元にさらなるオファーが舞い込む。お台場を象徴するホテルの一つ、日航のオープン!!

 

エーーー、なんと、この人はこの話を断るのデス。考えられないよネー、ハァーってなもんデス。理由...男、中島は彦彬氏との約束を優先、「譚さんが来るまでは俺が離宮の面倒を見る、それが約束だから」...なんと、そんな男気に日航も「待ちます」と答えるという異例の展開。ホテルのオープンに間に合わない中島支配人は休日返上でサポート。アシスタントマネージャー二人で乗り切るという状況を、日航さんも頑張りました。そして晴れて日航へ入社されたのデス!

 

その後、これも縁ですネ~、俺にとっては叔父貴である、あの「六本木楼外楼の天皇」と自称するFUZIWARAの傘下、新宿小田急ハルク...カぁ~、ホント中国料理の世界は狭いのですが、あの「小田急・豪華(俺が社会人一年目に入った先輩からの流れで宇都宮東武というのは豪華出身のコック達なのデス)」跡地に入った六本木・楼外楼が...とっつぁんの...半分を借りる(小田急の)という展開があり、ソコに中島先生はアドバイザー的に関わるという...コノ流れは...縁なのでしょうネ~(^_-)-☆

 

そういう訳で、俺が長らく、そう、店のオープンでの責任者という立場で入った赤坂一ツ木通りにあった「上海大飯店」は、現在(2017年11月時点)は紀尾井町の都道府県会館に移転したのデス。そして俺の部下という立場で、俺を支えてくれていた「よっちゃん」、片山さんは今もココで頑張っているのデス。当時の中国本土の上海料理界では至宝と言われた、料理の鉄人では特番で中国料理界の代表として選出された趙仁良氏を顧問に迎えてオープンした上海大飯店。懐かしいナァ~、故笹川氏率いる日本財団系の「ボウヤ~、良い子だネンネシナァ~」の『一日一善』をご本人自ら出演していた当時、一番力を入れていた施設がB&G、ブルシーグリーンランド財団に勤務しており、本部である深川閉鎖との情報が流れ、ヤバイと思った俺は転職先を探す。そして移った先が「錦江飯店」で...この話題は後日という事で...その後の俺は上海大飯店の責任者となるワケです。その錦江飯店から「よっちゃん」は頑張ってました。

 

 

中島先生とよっちゃん...まさか繋がりがあるとは...赤坂飯店は1956年(昭和31年)ですから60年以上の歴史を誇る日本中国料理界では老舗中の老舗デス。「赤坂で中華ならココ」と政財界著名人はモチロン、その二代、三代目へと常連客は現在も受け継がれていマス。ちなみに創業者は中島氏で現在は二代目(実際は三代目になっているかも)で、1952年に日本の有楽町でラーメン屋をオープンしてからの快進撃となりマス。

★ 赤坂飯店

  https://r.gnavi.co.jp/g519000/

 

初代料理長は「張天祿(チョウテンロク)」氏...ん、アレ...どっかで聞いたような...アー、明治生まれで大正~昭和にその名を轟かせた岩田豊雄氏こと文豪であり修正の美食家、グルマン「獅子文六」氏がキーワードでした。獅子氏は日本中国料理との関係も深く、あの崎陽軒が全国区になった誘因の一つとして代表作の一つである「やっさもっさ」の映画化でヒロインは『シウマイ娘』だったのだ。創業者は久保コト女史で、旦那の久行氏が四代目の国鉄横浜駅(現在の桜木町)駅長で定年退職後に駅構内の営業権利を持つ事が出来た事から始まる。出身が長崎である久保久行氏は美称である「崎陽」を店名にしたが、当時は普通の駅構内の今で言うキヨスク的な形態だった。代表である妻のコト女史は、二人に子供がいなかったので養子を迎え入れるも、夫が天命に召された後に急性の野並に戻る。時は流れて息子となる野並茂吉氏が...だからネ、気持ちは解るって、この後はナゼ崎陽軒はシウマイが名物になったのかとか、横浜支那町(現在の中華街)で突き出しと出ていたシウマイ...って事は、別に崎陽軒が焼売を創作したとかではないという事実、それから生粋の横浜人が愛したシウマイは『博雅』で明治14年創業の現山下町は当時、居留地。そこから支那人の第一号として現伊勢佐木町に店を出した創業者は広東省出身の鮑棠(ポウトウ)氏、だが父は屋根からの転落による死去で後を継ぐことになる鮑博公氏が一度故郷に戻り、その後広まったのがシウマイなのだーーー...って、この話題はスゲー長くなるのでこの辺で。

要は獅子文六氏の作品が映画化し、シューマイ...ではなくてシウマイが日本の全国区になったという事をココでは言っておきます...あ、そうではなくて張さんネ。

 

で、その映画...というかソレ見てないので、原作で「旨い支那料理の店」として出てくるのが、横浜中華街の名店だった『海員閣』なのデス...なぜ「だった」のかというと2017年に店が休業となりました。

 

    

 

その獅子文六先生の「やっさもっさ」で取り上げられていた『海員閣』。ご主人は張汝深氏で、この店はなんと1931年(昭和6年)創業で、奥様が立ち上げたのデス...ん...ご主人はというと、実はアノ聘珍楼の初代料理長であり、さらに銀座アスター(昭和元年創業)の初代料理長なのデス!!...これも、スゲーーー長くなるので(検証も含めてネ)別の機会にしますが、獅子文六先生の二人の張さんの一人は海員閣の初代ご主人なのデス(^_-)-☆

 

あ、そうかそうか。その本はコレ↓

    

 

そして、もう一人の張さんは張天祿氏なのデス。登場するのは獅子先生の「バナナ」で赤壁飯店として紹介されているのが、アカハンこと赤坂飯店なのデス。中島先生の最初のオヤジとなる張天祿氏は初代の料理長。四川省出身...という事は解りマスね、この当時の四川料理となれば、四川飯店の初代オーナーシェフ、Mrマーボードウフ、中華の神様である陳建民氏が思い起こされますネ。そうです、その辛い中国料理として日本中に旋風を巻き起こした四川料理、その初期メンバーとして来日したのが張天祿氏なのデス! そして、あの最強と言われた名誉鉄人であるムッシュ坂井氏に勝利した、中島先生が敬愛する山岡のアニキが師事したオヤジでもあるのデース。片山誉志雄(よっちゃん)の実兄は赤坂飯店で後に料理長として活躍した人物...さらによっちゃんもアカハン出身で中島先生の部下だったのデス・・・いやぁ~、コレは中々に深いデスなぁ~♪

 

全集の六巻に「よっさもっさ」出てマス。そして二人の張さんの話は「私の食べ歩き」に掲載されてますから、ご興味ある方はご自身で読んで下さい(*^^)v

 

まぁ、そういう訳で16時位から平河町の都道府県会館に移転した上海大飯店で、あーでもない、コーデモナイと話の花は咲きまくるワケなのデス。いろいろなお話が聞けました!!

 

おーっと、老板登場!  

 

現「上海大飯店」を率いる西田愛華総支配人デース、非常にチャーミングな方で初対面なのに気さくにお話しして下さり、和気藹々と楽しい時間を過ごさせていただきました♪

 

さて、そろそろお店もディナータイムとなりますからお開きとしましょうかと、店を出ようとすると「蕎麦屋でもう一献いきましょう」とよっちゃん...結局お昼の坂井氏のお店から始まり8時間の長飲み、でも楽しかったなぁ~。ありがとうございました西田総支配人、そしてよっちゃん! 中島先生、これからもよろしくお願いしマース (^_-)-☆

 

 

 

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