(劇評・1/4更新)「人間のどうしようもなさに面白さを見る」なかむらゆきえ | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2021年12月25日(土)19:00開演の演芸列車東西本線『東西本線演芸ショー』についての劇評です。



「東西本線演芸ショー」と銘打ったこの公演は、落語から始まり、40分に及ぶ朗読、コント、ドラマの四本立てで、途中休憩を挟み公演時間は120分以上に及んだ。

一本目の演目、東川清文の「初天神」は落語にはなじみがないので何が正解か分からないのだが、ややソフトな語り口だったように思う。息子のキャラクターを掴むのに時間が掛かってしまったので、もっと極端な演じ分けが欲しかった。しぐさは分かりやすく、特に団子の蜜を舐める父親のしぐさは生々しくて(あまり綺麗なしぐさではないので)少し引くほどだった。駄々をこねる息子に辟易とする父親が、最後は息子に買ったはずの凧を息子そっちのけで自分だけで楽しもうとする。実際にいそうなお父さんで凧しか目に入っていない様子がものすごく伝わってきた。リアリティがあって芝居としてはよかったのだが、落語のサゲとしてはインパクトに欠けてしまった。

西本浩明による朗読(横光利一『機械』)には、ダンサーのLAVITが参加した。近代文学独特の小難しい言い回しの中で、少し幻想的だが分かりやすく登場人物を演じるLAVITはこの朗読をひとつの作品として成り立たせた。朗読劇という形にはせず、朗読とダンサーによる演劇寄りのパフォーマンスで作品を表現し、朗読をきちんと朗読の形のまま観客の集中力を切らさずに40分間上演したことは、すごいと思う。この小説は四人称を使った実験的な作品として書かれたものだ。聞きなれない「四人称」については冒頭に説明があったが、言葉ではピンと来なかった。しかし、ラストに読み手が動き出し、それまで人物を演じていたLAVITと立ち位置が入れ替わったとき、これが四人称かとすんなり理解できた。その構成はすばらしかった。


休憩を挟んでコント、ドラマと続く。コント「干支替わり」は村の外で生活した経験のある男が閉鎖的な村の習慣の理不尽さに抗おうとするが、結局村のしきたりに染まっていった姿を描いたものだ。コントという言葉に惑わされて作品の時間の長さに戸惑ったが、その長さは今年の干支の牛島(西本)が来年の干支・虎井(東川)にじわじわと圧力を掛ける時間だ。抗っていた虎井の一年後、牛島の立場に立っていた彼は、次の干支の男に対して牛島と同じように圧力を掛けるのだろうと想像がついた。古いしきたりが変わることはとても難しい。

ドラマ「そして、それから」は全8話の第8話という設定だった。これまでのあらすじが長々とナレーションで紹介され、背面のスクリーンにナレーションの内容が文字で映された。登場人物の写真は今回の「げきみる2021」に出演した俳優たちだ。この演目にはエンドロールがあって、1週目のAgクルーから8週目の演芸列車「東西本線」まで、出演者やスタッフなど写真を添えて紹介した。ドラマの設定である全8話の第8話はここから来ているのだろう。

よどみないナレーションを披露したのは宗村春菜。ナレーションは本物っぽく、しかしだらだらと続く。長いあらすじの後、ようやく第8話の本編に入っていく。余命いくばくもないと知った2人の男が海に向かって座っている。客席から見えるのは2人の背中だ。死に直面した二人のたたずまいは、悲しみを背負っていますと大きく書いてあるようだ。海に向かって座るというシュチューエーション、やたらと長い間、貰いタバコ、夕日、そして死を前にして抑えきれずに言ってしまうくさい台詞。延々と続くドラマ「っぽい」設定が、だんだん面白くなってくる。人は、死を前にすると滑稽になるものなのかもしれない。

演芸ショーといいながら演劇の要素が強い4作品を通して、人間の、理性ではコントロールすることが出来ない感情と行動を興味深いと、作り手は感じているのではないだろうか。何を表現しようとしているのか、捉えかたが難しいと感じながら見ていたが、それなりのボリュームがある演目を4本重ねて、人というのはこんなにどうしようもないものなのだ、そこが面白いのだと、時間を掛けて伝えているように思えた。



(以下は更新前の文章です)


「東西本線演芸ショー」と銘打ったこの公演は、落語から始まり、40分に及ぶ朗読、コント、ドラマの四本立てで、途中休憩を挟み公演時間は120分以上に及んだ。

一本目の演目、東川清文の落語「初天神」は落語としてはソフトな語り口だったように思う。落語にはなじみがないので何が正解か分からないのだが、息子のキャラクターを掴むのに時間が掛かってしまったので、もっと極端な演じ分けが欲しかった。しぐさは分かりやすく、特に団子の蜜を舐める父親のしぐさは生々しくて(あまり綺麗なしぐさではないので)少し引くほどだった。駄々をこねる息子に辟易とする父親が、最後は息子に買ったはずの凧を息子そっちのけで自分だけで楽しもうとする。実際にいそうなお父さんで凧しか目に入っていない様子がものすごく伝わってきた。芝居としてはリアリティがあったと思うが落語のサゲとしてはインパクトに欠けてしまった。

西本浩明による朗読(横光利一『機械』)には、ダンサーのLAVITが参加した。近代文学独特の小難しい言い回しの中で、少し幻想的で、かつ分かりやすい表現をするLAVITはこの朗読をひとつの作品として成り立たせた。朗読劇という形にはせず、朗読とダンサーによる演劇寄りのパフォーマンスで作品を表現し、朗読をきちんと朗読の形のまま観客の集中力を切らさずに40分間上演したことは、すごいと思う。四人称の表現として、読み手が動き出す構成もすばらしかった。

作品としての完成度が高かったことを思うと、冒頭の一人称二人称三人称の説明からの四人称についての説明は、果たして必要だっただろうか。特に三人称については正確に伝わりづらいと感じた。今後も説明するのであれば説明の仕方を変更したほうがいいだろう。舞台の背面のスクリーンには登場人物や物語の説明をする図が投影されていたが、少し情報が多すぎて、ずっと頭を使い続けていた気がする。映像はラストに流れた抽象的な図式のようなものに統一してもよかったように思う。もっと観客の感覚を信頼しても伝わったのではないだろうか。ラストに流れた楽曲については、アコースティックギターの音がこの作品に合っていないように思った。

休憩を挟んでコント、ドラマと続く。コント「干支替わり」は閉鎖的な村の習慣を村の外で生活した経験のある男が理不尽に巻き込まれ、結局村のしきたりに染まっていった姿を描いたものだ。染まっていく過程の男の心動きは表現されていなかったが、それは経験上誰もが想像できるだろう。コントという言葉に惑わされて作品の時間の長さに戸惑ったが、その長さは今年の干支の牛島(西本)が来年の干支・虎井(東川)にじわじわと圧力を掛ける時間だ。

ドラマ「そして、それから」は全8話の第8話という設定だった。これまでのあらすじが長々とナレーションで紹介され、背面のスクリーンにナレーションの内容が文字で映された。登場人物の写真は今回の「げきみる2021」に出演した俳優たちだ。この演目にはエンドロールがあって、1週目のAgクルーから8週目の演芸列車「東西本線」まで、出演者やスタッフなど写真を添えて紹介した。ドラマの設定である全8話の第8話はここから来ているのだろう。

よどみないナレーションを披露したのは宗村春菜。ナレーションは本物っぽく、しかしだらだらと続く。長いあらすじの後、ようやく第8話の本編に入っていく。余命いくばくもないと知った2人の男が海に向かって座っている。客席から見えるのは2人の背中だ。死に直面した二人のたたずまいは、悲しみを背負っていますと大きく書いてあるようだ。海に向かって座るというシュチューエーション、やたらと長い間、貰いタバコ、夕日、そして死を前にして抑えきれずに言ってしまうくさい台詞。設定がすべてドラマ「っぽい」。延々とくだらない面白さが目の前に展開されていた。

冒頭にも書いたが120分を越える長い公演だった。演芸ショーといいながら演劇の要素が強い4作品を通して、人間の、理性ではコントロールすることが出来ない感情とその行動を興味深いと感じている目線で描いていた。それなりのボリュームがある演目を4本重ねて、人というのはこんなにどうしようもないものなのだ、そこが面白いのだと、時間を掛けて刷り込まれた気がした。