(劇評・1/5更新)「3、40代男性の戸惑いや寂しさをリアルに」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2021年12月25日(土)19:00開演の演芸列車東西本線『東西本線演芸ショー』についての劇評です。

東川清文と西本浩明による演劇ユニット、演芸列車東西本線の公演『東西本線演芸ショー』(総合演出:西本浩明)が12月24〜26日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた。上演順に古典落語の「初天神」、小説「機械」の朗読、10分間の休憩を挟んで西本作のコント「干支替わり」、同じく西本が書いたドラマ「そして、それから」の計4本で構成。多芸多才な両人らしく、バラエティー豊かなラインナップとなった。全体を貫くテーマを挙げるとすれば「30〜40代男性のメンタリティー」だろうか。昔から数えで40歳を「不惑」と呼ぶ習わしだが、今回の作品群から浮かび上がって来たのは、40代になっても人生に迷いながら手探りを続ける男たちの姿だった。

オリジナル作品2本のうち、「そして、それから」は連続テレビ小説の最終回という設定だ。前回までのあらすじがナレーションで紹介され、舞台上のスクリーンにも写真付きの字幕が流れた。それによると、高校時代に友人だった八城(東川)と駒澤(西本)は40歳を過ぎて久しぶりに再会するが、2人とも余命宣告を受けていた。一緒に駒澤の別れた妻と娘に会いに行くことになる。妻とはどうにかわかり合えたが、娘の心にはもう駒澤はいないと言われる。その帰り道、中学生になった娘とすれ違うが、声をかけられない駒澤なのだった。そんな前置きを踏まえ、本編の演劇が始まる。2人の男が海辺のベンチに並んで腰掛けている。波の音。ホリゾント(舞台正面の白い幕)に映し出される照明の色が青からオレンジ、紫へと移り変わり、昼から夜への時間経過を教えてくれる。眼前に迫る海を見ながら、ポツリポツリと喋り出す。2人とも終始、観客に背中を向けたままという挑戦的な演出だ。海が綺麗だと感嘆する駒澤。自分にはもうやりたいことがないと気付いて驚いたという八城。ここで自分が消えても誰もわからないんじゃないかと落ち込む駒澤。そんなことはないと慰める八城。「余命宣告」とはあまりにもドラマチックだが、出演者2人が日頃から心に積もり積もった弱音を吐き出すための設定だったのではないだろうか。あえて後ろを向いたネガティブな会話からは、目的を見失った中年男たちの寂しさが漂っていた。

3、40代と言えば、町内会などでさまざまな責任が回ってくる年頃でもある。中にはなぜこんなしきたりが地域で続いて来たのかと理解に苦しむものもある。そんな違和感をコメディタッチで描いたのが「干支替わり」だ。動物村で代々受け継がれてきた年男の儀式について、36歳の虎井(東川)に説明する牛島(西本)。その内容は今年達成しようと思う公約を宣言した上で、滝行や火の輪くぐりを十数セットも行い、ヘトヘトになって皆の前で歌を歌うというものだった。なかば強制的に承諾させようとする牛島に対し、虎井はそれなら引き受ける代わりに自分限りで終わらせることを公約に掲げると声を荒げた。だが、1年後の虎井は次の年男に自分が受けた通りの説明を嬉々として繰り返すのだった。理不尽さを吞み込んで成長していく男たちの姿が表現されていた。2人がレストランで食事をするシーンでは、コーヒーの飲み方やメニューのめくり方、注文が決まって頷き合う様子、店員に対する目線など、細部にまで神経の行き届いたパントマイムが印象的だった。この部分を丁寧に演じていたからこそ、その後のコミカルな展開もリアリティーを失わなかった。

一方、「機械」は昭和初期に新感覚派の旗手として川端康成らと一緒に斬新な文体を探究した作家、横光利一の代表作だ。危険な化学薬品を使った独自の製法によって利益を上げるネームプレート製造所が舞台となる。従業員である「私」と軽部と屋敷の3人はお互いを産業スパイではないかと疑い、暴力を振るい合ったりもする。そうこうするうち、会社は大口の受注に成功し、3人は昼夜なく働いて何とか納品にこぎつける。ところが、その収益金を社長がどこかで落としてしまい、3人は給料が吹っ飛んでガックリ来る。気休めに酒を飲むうち、どうしたことか屋敷が劇薬を口にして死んでしまった。「私」は軽部が犯人かもしれないと考えるが、次第に殺したのは自分ではないかと疑い出す。やがて電動ドリルの先端が「私」に近づいてきたところで物語は終わる。この小説は「1人称=私」の視点で書かれているが、人間というものは万能ではない。「私」の認識力を超えた事件が起きれば、描写自体が不可能になってしまう。これは「1人称」という表現スタイルの限界を見極めた小説なのかもしれない。鋭い刃物が迫って来る危機的な状況の中で、自分が本当に仲間を殺さなかったのか確信を持てなくなって行く「私」の姿は、今回の公演のテーマにもマッチしていた。西本の朗読に合わせ、ダンサーのLAVIT(客演)がパフォーマンスを行った。同僚に殴られ、床に倒れて痙攣するシーンなど、難解な文体をわかりやすく視覚化して伝えていた。

冒頭の「初天神」は、天神様に初詣に出かけた父と息子の話。今日は何も買わないぞと約束したのに、生意気盛りな息子の策略に負けて飴や団子を買ってやる父。さらには凧まで買わされるが、その上げ方を教えるうちについ昔を思い出して一人で夢中に。息子から「おとっつぁんを連れて来なきゃ良かった」と愛想を尽かされてしまう。お父さんだって、熱中したい時もあるんだぞ、という心の声が東川から聞こえて来るような気がして共感を覚えた。

30〜40代は人生の折り返し地点である。欲しいものを手に入れようとガムシャラに頑張ってきた人だって、ふと自分を見失うこともある。若い頃にはあれほど自明だった自我や欲望といったものが次第に薄れてしまい、自分でもよくわからなくなってくる。とは言え、本当に余命宣告でも受けない限り、まだまだ先は長い。今回の作品群にはそんな時間帯に立ち至った男性たちの戸惑いや寂しさが盛り込まれていた。これから人生の後半戦にどう立ち向かえばいいのか、という彼らの真摯な問い直しが垣間見えるようだった。

(以下は更新前の文章です。)

東川清文と西本浩明による演劇ユニット、演芸列車東西本線の公演『東西本線演芸ショー』(総合演出:西本浩明)が12月24〜26日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた。上演順に古典落語の「初天神」、小説「機械」の朗読、10分間の休憩を挟んで西本作のコント「干支替わり」、同じく西本が書いたドラマ「そして、それから」の計4本で構成。多芸多才な両人らしく、バラエティー豊かなラインナップとなった。全体を貫くテーマを挙げるとすれば「30〜40代男性のメンタリティー」ではないだろうか。昔から数えで40歳を「不惑」と呼んできた。しかし、今回の作品群から浮かび上がって来たのは、40代になっても人生に迷いながら手探りを続ける男たちの姿だった。

このうち「そして、それから」は連続テレビ小説の最終回という設定であり、前回までのあらすじが舞台上のスクリーンに写真と字幕で紹介された。それによると、高校時代に友人だった八城(東川)と駒澤(西本)は40歳を過ぎて久しぶりに再会するが、2人とも余命宣告を受けていた。一緒に駒澤の別れた妻と娘に会いに行くことになる。妻とはどうにかわかり合えたが、娘の心にはもう駒澤はいないと言われる。その帰り道、中学生になった娘とすれ違うが、声をかけられない駒澤なのだった。そんな前置きを踏まえ、本編の演劇が始まる。2人の男が海辺のベンチに並んで腰掛けている。波の音。ベンチ以外に何もなく、ホリゾント(舞台正面の白い幕)に映し出される照明の色が青からオレンジ、紫へと移り変わることで時間の経過を教えてくれる。圧倒的な存在となって眼前に迫る海を見ながら、ポツリポツリと喋り出す。2人とも終始、観客に背中を向けたままという挑戦的な演出だ。海が綺麗だとしきりに感嘆する駒澤。自分にはもうやりたいことがないと気付いて驚いたという八城。ここで自分が消えても誰も気づかないんじゃないかと落ち込む駒澤。そんなことはないと慰める八城。2人の役柄も関係性もそれを演じた東川と西本に近く、ほとんど彼ら自身の心境を吐露しているようにも見えた。自分たちの中にわだかまっている弱音を吐き切ることが狙いだったのかもしれないと思った。

3、40代と言えば、町内会などでさまざまな責任が回ってくる年頃でもある。中にはなぜこんなしきたりが地域で続いて来たのかと理解に苦しむものもある。そんな違和感をコメディタッチで描いたのが「干支替わり」だ。動物村で代々受け継がれてきた年男の儀式について、36歳の虎井(東川)に説明する牛島(西本)。その内容は正月の滝行や火の輪くぐりなどで、普通の若者からすればあまりにも理不尽なものだった。なかば強制的に承諾させようとする牛島に対し、虎井はそれなら引き受ける代わりに自分限りで終わらせることを公約に掲げると声を荒げた。しかしながら、何だかんだ言っても1年後の虎井は嬉々として、次の年男に自分が受けた通りの説明を繰り返すのだった。年を取るとは一体、どういうことか。それは理不尽さを呑み込むことであり、実際に体験した者にしか得られない自信と余裕を踏まえながら、未熟な若者たちを冷静かつ時には悪戯っぽく眺めることでもある。そんな人間社会の有り様が巧みに描き出されていた。2人がレストランで食事をするシーンでは、コーヒーの飲み方やメニューのめくり方、注文が決まって頷き合う様子、店員に対する目線など、細部にまで神経の行き届いたパントマイムが印象的だった。この部分を丁寧に演じていたからこそ、その後のコミカルな展開もリアリティーを失わなかった。

一方、「機械」は昭和初期に新感覚派の旗手として川端康成らと一緒に斬新な文体を探究した作家、横光利一の代表作だ。危険な化学薬品を使った独自の製法によって利益を上げるネームプレート製造所が舞台となる。西本の朗読に合わせてダンサーのLAVIT(客演)が身体表現を行った。従業員である「私」と軽部と屋敷の3人はお互いを産業スパイではないかと疑い、殴り合ったりもする。そうこうするうち、会社は大口の受注に成功し、3人は昼夜なく働いて何とか納品にこぎつける。ところが、その収益金を社長がどこかで落としてしまい、3人は給料が吹っ飛んでガックリ来る。気休めに酒を飲むうち、どうしたことか屋敷が劇薬を口にして死んでしまった。「私」は軽部が犯人かもしれないと考えるが、次第に殺したのは自分ではないかと疑い出す。やがて電動ドリルの先端が「私」に近づいてきたところで物語は終わる。この小説は「1人称=私」の視点で書かれているが、人間というものは万能ではない。「私」の認識力をはるかに超えた事件が起きれば、わけがわからなくなり、描写不可能となってしまう。これは「1人称」という表現スタイルの限界を見極めた小説なのかもしれない。危機的な状況の中で自分が何者なのかを見失っていく「私」の姿は、今回の公演のテーマにもピッタリ当てはまっているのではないだろうか。

冒頭の「初天神」は、天神様に初詣に出かけた父と息子の話。父の年齢は生意気盛りな子どもから推察するに40歳前後かもしれない。今日は何も買わないぞと約束を交わしながら、息子の策略にコロリと負けて飴や団子を買ってやる父。さらには凧まで買わされるが、その上げ方を教えるうちについ昔を思い出して一人で夢中に。息子から「おとっつぁんを連れて来なきゃ良かった」と愛想を尽かされてしまう。お父さんだって、熱中したい時もあるんだぞ、という心の声が東川から聞こえて来るような気がして共感を覚えた。

30〜40代は人生の折り返し地点である。若い頃には欲しいものを手に入れようとガムシャラに頑張るが、ある時点からそんな自分を反省の目で見るようになる。切実に欲しいものがなくなり、今度は逆にさまざまなものを手放していく時間帯へと移行しつつある。とは言え、余命宣告でも受けない限り、まだ依然として先は長いという中途半端さには変わりがない。今回の作品群にはそんな男たちが味わっている戸惑いや寂しさ、自分が信じて来た価値観への疑いさえ盛り込まれていた。これからもさまざまな難題が予想される人生の後半戦にどう立ち向かえばいいのか、という彼らの真摯な問い直しが垣間見えるようだった。