(劇評・12/30更新)「安定の先へ」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2020年12月19日(土)19:00開演の劇団羅針盤『元号パレード』についての劇評です。

 劇団羅針盤(以下、羅針盤)のかなざわリージョナルシアター2020参加作品は「芝居小屋羅針盤・赤と青の陣っ!」と題して、『秘密結社“取調室”』と『元号パレード』が交互で上演された。この公演は、劇団の第52回公演にあたる。この上演回数と、2作を交互に上演できる体制から、劇団が長年活動を続け、積み重ねてきた実績があることがわかる。実際、筆者が観劇した『元号パレード』(作・演出:平田知大)は安定感のある作品だった。「だがしかし」という思いが筆者の中にある。

 舞台後方には、下手から、赤、青、赤、青と4枚の長方形の板が立てられている。後方上部には白いスクリーンが吊り下げられている。前方には、1段高くなった黒い台があり、それらは直線的に簡略化された日本の本州、四国、九州と、中国大陸のようだ。北海道と沖縄はない。舞台には着物をベースにした和洋折衷の衣装を身につけた2人が登場する。白い衣装の人物が「帝」(能沢秀矢)、黒い衣装の人物が「家来」(平田知大)。パンフレットにはそう表記があるが、2人は役名に留まらず、様々な人物を演じる。家来は時の帝と敵対する存在を演じることもある。スクリーンには番号と、元号が表示される。2人は元号の由来や、その元号の時に起きた出来事などを、大化から順に説明していく。元号は西暦645年の「大化」から始まり、現在使用されている「令和」まで、248ある。「まさか全部説明するのか?」と思ったらそうだった。この2人と、「政子様」(寺嶋佳代)、「中華な人々」(志波重忠、田中麻衣子)の、合わせて5人で、248ものの元号について語っていく。長い日本の歴史が、60分にぎゅっと濃縮されていた。元号にまつわる雑学的話題も盛り込まれており、日本史が好きな人にはそうそうと思わせ、よく知らない人にもなるほど、と思わせただろう。

 ただ、近代の歴史を語る上で、元号の話題は扱いが難しいところがある。ここには三つの語りにくさがあるのではないか。一つは元号と天皇の関係だ。明治以前は、天皇の譲位とは関係なく改元することができたが、明治政府によって「一世一元」の詔が発布され、新天皇即位の時にだけ改元できるようになった。よって、元号を語ることが、その元号時の天皇を語ることにもつながってしまう。二つ目が、歴史上8人存在する女性天皇について。今も様々な論が交わされている問題である。作中では深い考察はなされていなかったが、現代社会につながる問題であるだけに、もう少し説明があってもよかったのではないか。そして三つ目は近い歴史の扱い方である。地震や津波、飢饉や疫病などをきっかけに改元がなされたこともあったため、作中でもこれらの事象はよく登場した。遠い過去の出来事は軽く語ることができた。しかし、東日本大震災は過去の話にはできない。東日本大震災や新型コロナウイルス感染症については、作品中で具体名は出されていなかった。それまでコミカルに演じられていた態度も、近代の辺りではトーンダウンした感がある。羅針盤の持ち味の一つである、熱さも発揮しきれていないラストだったと思えた。熱く日本の近代史を語ることに潜む政治的な危険性が、劇団内でも感じられていたのではないか。

 先に安定感のある作品と書いた。248もの元号を記憶し、そのほとんどのエピソードを2人の掛け合いで表現する。途中に交えられる殺陣もそつなくこなす。羅針盤は殺陣に力を入れている劇団だが、今回もその実力は発揮されていた。これらができる基礎体力が羅針盤にはある。その安定感こそが持ち味であり、長所だ。いつ観にいっても、一定のレベルを超えた演劇を観せてくれる。それは観客にとって喜ばしいことだ。いつもと変わらない羅針盤らしさを求めて、多くのファンは劇場を訪れる。地方で長く劇団を続けていく。その活動にまつわる幾多の困難を乗り越え、演劇を続けている姿は賞賛に値する。

 そんなふうに、安定しているように見えてはいるが、裏では大変な苦労がなされているであろうことは、頭の隅に置いた上で書こう。「変化」が欲しいと。それは「驚き」と言い換えてもいいかもしれない。「羅針盤がこんなことを」と、びっくりしてみたい。それは殺陣を売りにする羅針盤が多く公演している、時代物や活劇物ではない、今までにない題材やジャンルへの挑戦かもしれない。これまでの脚本は平田知大が多く手掛けているようであるが、違う脚本家の起用があってもいいかもしれない。この演出と脚本を同一人物が手掛けることによるスタイルの固定は、羅針盤に限らず多くの劇団の問題でもある。変化が加えられそうなところはまだまだあるだろう。これは決して、現在の劇団を否定するものではない。もっと可能性があるのではないかという、期待の形の一つである。


(以下は更新前の文章です)


 劇団羅針盤(以下、羅針盤)のかなざわリージョナルシアター2020参加作品は「芝居小屋羅針盤・赤と青の陣っ!」と題して、『秘密結社“取調室”』と『元号パレード』が交互で上演された。この公演は、劇団の第52回公演にあたる。この上演回数と、2作を交互に上演できる体制から、劇団が長年活動を続け、積み重ねてきた実績があることがわかる。実際、筆者が観劇した『元号パレード』は安定感のある作品だった。だがしかし。という思いが筆者の中にある。

 舞台後方には、下手から、赤、青、赤、青と4枚の長方形の板が立てられている。後方上部には白いスクリーンが吊り下げられている。前方には、1段高くなった黒い台があり、それらは直線的に簡略化された日本の本州、四国、九州と、中国大陸のようだ。舞台には着物をベースにした和洋折衷の衣装を身につけた2人が登場する。白い衣装の人物が「帝」(能沢秀矢)、黒い衣装の人物が「家来」(平田知大)。パンフレットにはそう表記があるが、2人は役名に留まらず、様々な人物を演じる。家来は時の帝と敵対する存在を演じることもある。スクリーンには番号と、元号が表示される。2人は元号の由来や、その元号の時に起きた出来事などを、大化から順に説明していく。元号は西暦645年の「大化」から始まり、現在使用されている「令和」まで、248ある。まさか全部説明するのか? と思ったらそうだった。この2人と、「政子様」(寺嶋佳代)、「中華な人々」(志波重忠、田中麻衣子)の、合わせて5人で、248ものの元号について語っていく。長い日本の歴史が、60分にぎゅっと濃縮されていた。元号にまつわる雑学的話題も盛り込まれており、日本史が好きな人にはそうそうと思わせ、よく知らない人にもなるほど、と思わせただろう。

 ただ、近代の歴史を語る上で、元号の話題は扱いが難しいところがある。明治以前は、天皇の譲位とは関係なく改元することができたが、明治政府によって「一世一元」の詔が発布され、新天皇即位の時にだけ改元できるようになった。よって、近代の元号は天皇制と切り離して考えることはできない。元号を語ることが、その元号時の天皇を語ることにもつながってしまう。そして、歴史上8人存在する女性天皇。作品中では、特別に深い考察はされていなかったが、現在、様々な論が交わされている問題であることが、女性天皇の登場により想起されてしまう。また、遠くない歴史は、人々の記憶に生々しく残っている。大昔の地震については客観視して話せても、東日本大震災は過去の話にはできない。東日本大震災や新型コロナウイルス感染症については、作品中で具体名は出されていなかった。コミカルに演じられていた態度も、近代の辺りではトーンダウンした感がある。羅針盤の持ち味の一つである、熱さも発揮しきれていないラストだったと思えた。熱く日本の近代史を語ることに潜む政治的な危険性が、劇団内でも感じられていたのではないか。

 先に安定感のある作品と書いた。248もの元号を記憶し、そのほとんどのエピソードを2人の掛け合いで表現する。途中に交えられる殺陣もそつなくこなす。羅針盤は殺陣に力を入れている劇団だが、今回もその実力は発揮されていた。殺陣は元号エピソードの合間に挟み込まれていたが、もっと長く観たかったのが本音だ。これらができる基礎体力が羅針盤にはある。その安定感こそが持ち味であり、長所だ。いつ観にいっても、一定のレベルを超えた演劇を観せてくれる。それは観客にとって喜ばしいことだ。劇団の色がころころ変わるようでは、観たいと思うものが観られないかもしれず、安心できない。いつもと変わらない羅針盤らしさを求めて、多くのファンは劇場を訪れる。地方で長く劇団を続けていく。その活動にまつわる幾多の困難を乗り越え、演劇を続けている姿は賞賛に値する。

 そんなふうに、そつなく安定しているように見えてはいるが、裏では大変な苦労がなされているであろうことは、頭の隅に置いた上で書こう。「変化」が欲しいと。それは「驚き」と言い換えてもいいかもしれない。「羅針盤がこんなことを」と、びっくりしてみたい。それは今までにない題材かもしれないし、ジャンルかもしれない。これまでの脚本は平田知大が多く手掛けているようであるが、違う脚本家の起用があってもいいかもしれない。演技かもしれないし、演出かもしれない。役者かもしれない。書き出してみただけで、変化が加えられそうなところはこれだけある。まだまだあるだろう。これは決して、現在の劇団を否定するものではない。もっと可能性があるのではないかという、期待の形の一つである。