(劇評・12/25更新)「『個』に執着し続ける強さ」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2020年12月11日(金)よりオンライン公開のネ・プロミンテ『どこへ行くのですか?』についての劇評です。

YouTube動画として配信されている、ネ・プロミンテ『どこへ行くのですか?』(作:ネ・プロミンテ、演出:支那金魚+ネ・プロミンテ、映像制作・監督:宮向隆)。登場する3人は、いずれも好奇心の塊であり、「個」でい続ける強さを持っている。食べることが生きるあかしだという「食べる女」(高田初恵)、世情に流されながらも自然に触れて喜びを覚える「流れる女」(下條世津子)、少しでも空に近づきたいと歩みを止めない「昇る女」(市川幸子)。それぞれの設定は一応フィクションだと思われるが、当の役者が人生の中でずっと追い求めてきた価値観を語っていたのではないか。本人にしか体現できない感覚が滲み出し、結晶のように美しく凝固していた。

「食べる女」は、フォークとスプーンを上手に使ってスパゲティ・ナポリタンを美味そうに食べる。電子レンジで冷凍パックを温めるシーンから完食するまでをカメラは記録する。その後で「私の一生は、食べるための旅だったような気がします」などと本人の声が入る。何らかの収入を得て生活を営むことを日本語で「食べて行く」と言う通り、まさに食べることは人生の基本であり、最大の関心事と言ってもよい。

「流れる女」は「流れに身を任す。人に限らず、動物や植物や大自然さえ、身を任すしかない状況が多くなってきました」と今までの暮らしぶりを省みる。流れとは、人間が生きて行く上で無視できない世間や社会を意味しているのかもしれない。その中で、彼女は必ずしも自分の思い通りではなくても、泳ぎ渡るための最低限の技法は身につけてきたことがうかがわれる。そして、今、流れる女は改めて自らの存在を確認するかのように、庭の木や土に触れてみる。次の瞬間、人差し指の先端からツーッと血が流れる。樹皮の棘でも刺さったのか。だが、それさえも、自分が自然の一部である証拠と感じられて彼女にとっては快いようだ。

「昇る女」は、大空を仰ぎつつ、急勾配の山道をひたすら歩く。「毎日少しずつ登れば、一生のうちに必ず空に到達するはず」と信じ、息を切らしながら。その姿は難行苦行を厭わない修験者を思わせる。3人の中では最も抽象的だが、理想を追い求める姿には神々しさすら漂っていた。これらの「〜する女」シリーズは、映像を見ただけで3人がそれぞれどういう人たちなのかがわかる。自分の本質をこれほど潔く、コンパクトに凝結できる表現者は少ないのではないだろうか。

さて、場面は変わり、床に寝転んだ3人が身体ごと白い袋に入ってモゾモゾしている。何かの幼虫かウジ虫にも見える。どちらが頭でどちらが尻かもわからぬ、原始的な生命体。その色鮮やかな映像をじっと眺めていると、ふとこんな声が聞こえてくる。「人生に意味があるのかどうかなんて言葉の遊びに過ぎない。そんなことを考えるのはまだ早いぞ、青二才のくせに。ただ盲目的に蠢(うごめ)く虫になってみろ!そうすれば、生きていること自体への感謝の念が湧くはずだ」ーー。人生の大先輩たちから叱咤激励を受けているような気分になった。

最後はチェーホフの戯曲「三人姉妹」の朗読に合わせて3人が海辺の波打ち際でたわむれる。例の「……やがて時が経つと、私たちも永久にこの世に別れて忘れられてしまう。……でも、私たちの苦しみは後に生きる人たちの喜びに変わって、幸福と平和がこの地上に訪れるだろう……」と、姉妹たちが生きる意味を問い直す有名な一節だ。あの戯曲では、三人姉妹がそれぞれに辛酸を嘗め尽くした後で辿り着いた心境を吐露しており、悲惨な人生からの救いの象徴としてモスクワへと憧れていた。それに対し、今回の作品では、前半部分で特に3人の苦労が明瞭に描かれていたわけではなく、あの名ゼリフを喋るための根拠が漠然としていた。また、どこか具体的な地名が挙げられてもいなかったことから、強力なベクトルが発生せず、結局は行き場なんかない現実を認めざるを得なくなっていた。

作品の冒頭、「どこへ行くのですか?」というタイトルの文字がトイレを流す音とともにグルグル回って排水口の中へ消えて行く映像があった。その後で、3人が傍若無人なまでにひたすら砂浜を歩いて行くシーンを見せられたものだから、認知症の徘徊老人の話なのかなという失礼なイメージさえ浮かんでしまった。しかし、その日常レベルの質問は、 途中でウジ虫の映像を見ているうち、答えようのない抽象的な問いへと変化した。やがて海辺の三人姉妹では、どこかへ行こうとしているのかすらも問題ではなくなった。最終的には、3人が身一つで、ここにいる、ただそのことだけが残ったのである。

(以下は改稿前の文章です。)

五十の大台をとうに越したと思われる女性たちだが、子や孫、親戚や仲良しがどうしたの、こうしたのという所帯じみた話は一切出て来ない。YouTube動画として配信されている、ネ・プロミンテ『どこへ行くのですか?』(作:ネ・プロミンテ、演出:支那金魚+ネ・プロミンテ、映像制作・監督:宮向隆)。登場する3人は、いずれも好奇心の塊であり、「個」でい続ける強さを持っている。食べることが生きるあかしだという「食べる女」(高田初恵)、世情に流されながらも自然に触れて喜びを覚える「流れる女」(下條世津子)、少しでも空に近づきたいと歩みを止めない「昇る女」(市川幸子)。それぞれの設定は一応フィクションだと思われるが、当の役者が人生の中でずっと追い求めてきた価値観を語っていたのではないか。本人にしか体現できない感覚が滲み出し、結晶のように美しく凝固していた。

食べる女は、フォークとスプーンを上手に使ってスパゲティ・ナポリタンを美味そうに食べる。電子レンジで冷凍パックを温めるシーンから完食するまでをカメラは記録する。その後で「私の一生は、食べるための旅だったような気がします」などと本人の声が入る。何らかの収入を得て生活を営むことを日本語で「食べて行く」と言う通り、まさに食べることは人生の基本であり、最大の関心事と言ってもよい。

流れる女は「流れに身を任す。人に限らず、動物や植物や大自然さえ、身を任すしかない状況が多くなってきました」と今までの暮らしぶりを省みる。流れとは、人間が生きて行く上で無視できない世間や社会を意味しているのかもしれない。その中で、彼女は必ずしも自分の思い通りではなくても、泳ぎ渡るための最低限の技法は身につけてきたことがうかがわれる。そして、今、流れる女は改めて自らの存在を確認するかのように、庭の木や土に触れてみる。次の瞬間、人差し指の先端からツーッと血が流れる。樹皮の棘でも刺さったのか。だが、それさえも、自分が自然の一部である証拠と感じられて彼女にとっては快いようだ。

昇る女は、大空を仰ぎつつ、急勾配の山道をひたすら歩く。「毎日少しずつ登れば、一生のうちに必ず空に到達するはず」と信じ、息を切らしながら。その姿は難行苦行を厭わない修験者を思わせる。3人の中では最も抽象的だが、理想を追い求める姿には神々しさすら漂っている。

さて、場面は変わり、床に寝転んだ3人が身体ごと白い袋に入ってモゾモゾしている。何かの幼虫かウジ虫にも見える。どちらが頭でどちらが尻かもわからぬ、原始的な生命体。その色鮮やかな映像をじっと眺めていると、人生に意味があるのかどうかなんて言葉の遊びに過ぎない。そんなことを考えるのはまだ早いぞ、青二才のくせに。ただ盲目的に蠢(うごめ)く虫になってみろ!そうすれば、生きていること自体への感謝の念が湧くはずだ、と人生の大先輩たちから叱咤激励を受けているような気分になった。

最後はチェーホフの戯曲「三人姉妹」の朗読に合わせて3人が海辺の波打ち際でたわむれる。例の「……やがて時が経つと、私たちも永久にこの世に別れて忘れられてしまう。……でも、私たちの苦しみは後に生きる人たちの喜びに変わって、幸福と平和がこの地上に訪れるだろう……」と姉妹たちが生きる意味を問い直す有名な一節だ。しかし、あの戯曲では、三人姉妹がそれぞれに辛酸を嘗め尽くした後で辿り着いた心境を吐露しており、モスクワへ行きたいと憧れていた。それに対し、今回の作品では、前半部分で特に3人の苦労が明瞭に描かれていたわけではなく、どこかの地名も挙げられていなかった。したがって、あの名ゼリフをリアルに喋るための根拠に欠けており、何となくやってみました的な表現で終わっていた。

作品の全体を通して、これだけは訴えたいという一貫した主張が感じられたわけでもない。むしろ日々の生活で思い付いたアイディアをあれも、これもと楽しげに詰め込んだような内容だ。だからこそ、「大人による夏休み絵日記」という風に見えた。とは言え、長年にわたってさまざまな演劇に親しんできた彼女らなので、趣味の高さは隠しようがない。特に前半の「〜する女」シリーズは、この映像を見ただけで、3人がそれぞれどういう人たちなのかがわかる。自分の本質をこれほど潔く、コンパクトに凝結できる表現者は少ないのではないだろうか。

作品の冒頭、「どこへ行くのですか?」というタイトルの文字がトイレを流す音とともにグルグル回って排水口の中へ消えて行く映像があった。その後で、3人が傍若無人なまでにひたすら砂浜を歩いて行くシーンを見せられたものだから、認知症の徘徊老人の話なのかなという失礼なイメージさえ浮かんでしまった。しかし、その具体的な質問は、 途中でウジ虫の映像を見ているうち、答えようのない抽象的な問いへと変化した。やがて海辺の三人姉妹では、どこかへ行こうとしているのかすらも問題ではなくなった。最終的にはただ、3人が手ぶらで、そこにいる、ことだけが残ったのである。