(12/24更新)「どこに行くのですかという問いに対して、なんと答えたらいいのだろう」中村ゆきえ | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2020年12月11日(金)よりオンライン公開のネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』についての劇評です。



 今回の作品は「げきみる」3作目のオンライン配信のみの作品だ。このネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』は他の2作品より映像の力が強く出ていた。脚本・演出は支那金魚+ネ・プロミンテ、出演は高田初恵、下條世津子、市川幸子、映像制作・監督は宮向隆。長く石川演劇に携わっている人には知らない人はいないという面々だ。観劇歴がまだ浅い私でも何人かはわかる。だが残念なことにこの作品には公演チラシがなかった。「げきみる」のリーフレットやウェブサイトにも出演者やスタッフのクレジットがない。ouTubeの概要欄には書いてあるが、興味が沸かなければYouTubeにアクセスしない。毎年「げきみる」に足を運び今年も何本か見ている知人にこの動画を見たか聞いたところ、出演者を初めて知った、危うく見逃すところだったと言われた。劇場に足を運ぶということと動画サイトにアクセスするということは、意外と似ているのかもしれない。どちらも必要な情報があって初めてなされることなのだと感じた。
 冒頭はトイレから始まった。和風のドア、和風の電灯。色味は全体的に茶色い。洋式トイレだけが青白い。そこから薄暗い海岸に映像は映る。グレーがかった青い海。グレーがかった青い空。日本海独特の色だ。「もしそれが私のものではないならばそれは私のものではない」三人の女は唱えるようにつぶやきながら波打ち際の砂を手で掘っていく。この海はどこだろうと気になっていたら、コメント欄に答えが書いてあることに気づいた。徳光海岸の海だった。
 三人の女は食べる女と流れる女と昇る女だ。生きるために必要なものはそれぞれ違う。彼女たちが自分を語る口調はゆっくりで声のトーンは高くなく心地よく耳に響く。言っていることはよく分からない。自分自身がわかっていればいい。そんな感じがした。では私にとって命を維持することはなんだろうと少し考えてみたくなった。場所は海から移動していた。緑が優しく感じる。この場面に映る景色は穏やかで、耳から聞こえる声の絶妙なトーンもあって、なんだかゆったりできる場面だった。
 場面が変わると、黒い画面の真ん中にピンク色の丸い何かが映し出された。最初はきれいだなと思って見ていた。だんだん丸い何かがゆがんで本来の映像になっていく。花びらかなと思ってその動きを見ていたが花びらではなく、人が入っている細長い袋状の生地だった。薄暗い場所で木目がはっきりとわかる床の上で3つの花びらだと思っていたものはうごめきながら場所を変える。ずっと小さな声でいろんな色をつぶやいていた。色の名前の前には色そのものが生きているかのように形容詞や動詞がついていた。声はだんだん大きくなっていく。
 同じ場所で花びらだったものの代わりに床一面の白い布地が広がっている。白い生地は波のように上下に揺れる。ナレーションはずっと細胞についての説明をしている。その声はイヤホンの右に揺れたり左に揺れたりしていて、だんだん目が回るような感覚になってくる。言葉の効果より音としての効果が強い。耳障りな雑音も小さく入っていて、ずっとなんだか気持ちが悪い。不快さがピークに達した頃、細胞が自爆システムによって爆発を起こし、景色は冒頭の海に戻る。
バラバラに立つ三人。一人ひとり区切るように「サバク」「カワク」「トドク」と一言。女たちは一塊になって波打ち際で楽しそうに笑う。ここでもずっと彼女たちの言葉が流れている。ラストシーンはオスマン・トルコ軍楽の「ジェッディン・デデン」のメロディが強く印象に残る。これまで音楽のように流れていた言葉と実際の音楽がぶつかり合った。映像はきれいにまとまって終わったが、私の中に引っかかるものがあった。
 この作品の中の言葉は演劇の台詞が持つ言葉の力とは違った効果があったように思う。とにかく映像の力が強く、言葉は映像のための音楽に近いものがあった。特徴のある言い回しの台詞は言葉として生きていないように感じた。映像のために紡がれた台詞だったのではないか。


(以下は更新前の文章です)


 今回の作品は「げきみる」3作目のオンライン配信のみの作品だ。このネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』は他の2作品より映像の力が強く出ていた。脚本・演出は支那金魚+ネ・プロミンテ、出演は高田初恵、下條世津子、市川幸子、映像制作・監督は宮向隆。長く石川演劇に携わっている人なら知らない人はいないという面々だ。だが残念なことに「げきみる」のリーフレットやウェブサイトには出演者やスタッフのクレジットがない。YouTubeの概要欄には書いてあるが、興味が沸かなければYouTubeにアクセスしない。毎年「げきみる」に足を運び今年も何本か見ている知人にこの動画を見たか聞いたところ、出演者を初めて知った、危うく見逃すところだったと言われた。劇場に足を運ぶということと動画サイトにアクセスするということは、意外と似ているのかもしれない。どちらも必要な情報があって初めてなされることなのだと感じた。
 「もしそれが私のものではないならばそれは私のものではない」三人の女は唱えるようにつぶやきながら波打ち際の砂を手で掘っていく。この海はどこだろう。冒頭とラストに出てくる浜辺がどこなのか、ものすごく気になった。雰囲気が美川に似ている。でも砂が美川の浜のものとは違う気がしたし、何より砂浜が広い。無難に内灘だろうか。でも内灘という感じがしない。浜がどこであっても本筋とは関係ないとは思いながら気になっていたら、コメント欄に答えが書いてあることに気づいた。徳光の海だった。海が近い場所で私は育った。子どものころには浜で行われる行事が少なからずあった。そのどれもがいい思い出ではない。海は気持ちがざわざわする。
 食べる女がいて流れる女がいて昇る女がいる。生きるために必要なものはそれぞれ違う。彼女たちが自分を語る口調はゆっくりで声のトーンは高くなく心地よく耳に響く。言っていることはよく分からない。自分自身がわかっていればいい。そんな感じがした。では私にとって命を維持することはなんだろうと少し考えてみたくなった。場所は海から移動していた。海からは遠い場所だ。海とは違って優しく感じる。この場面に映る景色は穏やかで、耳から聞こえる声の絶妙なトーンもあって、なんだかゆったりできる場面だった。
 場面が変わると、黒い画面の真ん中にピンク色の丸い何かが映し出された。最初はきれいだなと思って見ていた。だんだん丸い何かがゆがんで本来の映像になっていく。花びらかなと思ってその動きを見ていたが花びらではなく、人が入っている細長い袋状の生地だった。薄暗い場所で木目がはっきりとわかる床の上で3つの花びらだと思っていたものはうごめきながら場所を変える。ずっと小さな声でいろんな色をつぶやいていた。色の名前の前には色そのものが生きているかのように形容詞や動詞がついていた。声はだんだん大きくなっていく。
 同じ場所で花びらだったものの代わりに床一面の白い布地が広がっている。白い生地は波のように上下に揺れる。ナレーションはずっと細胞についての説明をしている。その声はイヤホンの右に揺れたり左に揺れたりしていて、だんだん目が回るような感覚になってくる。言葉の効果より音としての効果が強い。耳障りな雑音も小さく入っていて、ずっとなんだか気持ちが悪い。不快さがピークに達した頃、細胞が自爆システムによって爆発を起こし、景色は冒頭の海に戻る。
 バラバラに立つ三人。一人ひとり区切るように「サバク」「カワク」「トドク」と一言。女たちは一塊になって波打ち際で楽しそうに笑う。ここでもずっと彼女たちの言葉が流れている。この作品の中の言葉は演劇の台詞が持つ言葉の力とは違った効果があったように思う。とにかく映像の力が強く、言葉は映像のための音楽に近いものがあった。ラストシーンはオスマン・トルコ軍楽の「ジェッディン・デデン」のメロディが強く印象に残る。これまで音楽のように流れていた言葉と実際の音楽がぶつかり合った。ときどき自分に刺さる言葉が耳に残る。見終わった後に反芻する時間が欲しくなる。映像はきれいにまとまって終わったが、私の中に引っかかるものがいくつもある作品だった